3.イーディスの今後
悪夢の中に別人格を放置するんじゃないと突っ込みたくなる気持ちをこらえて、イーディスは止まった馬車から降りる。スタスタと真っ直ぐに向かうは父の書斎である。
「お父様、今お時間よろしいでしょうか?」
「イーディス? 随分と早いな。どうかしたのかい?」
父は予定よりも早いイーディスの帰りを不思議に思っているらしい。彼の優しい声や表情から察するに婚約解消宣言のことなど知らなかったのだろう。あの脳筋馬鹿との婚約を結ばせた父とはいえ、悪気が合ったわけではない。あの頃はただ純粋に娘の幸せを願ってくれていたのだろう。どんなに雑な扱いを受けていたと聞いたところでフランシカ家から解消を言い出すことは出来ない。彼が出来たのは、ただ娘を心配することだけ。学園での様子を頻繁に聞いてきたのも、娘を案じてのことだろう。けれど結局、事態は最悪を迎えた。
「リガロ様より婚約解消が告げられました」
「は?」
「聖女様との真実の愛に目覚められたとのことで、私はお役御免だそうです」
「嘘、だろう?」
「他の学生がいる場所で宣言されましたので、学園のほとんどの生徒が二人の愛の証人になるかと」
「そんな馬鹿な……すぐにフライド家に確認を取る。連絡が来るまでイーディスはなるべく部屋から出ないように。食事も部屋に運ばせる」
淡々と事実を述べれば、父の顔は次第に青白く変わっていく。これだけで娘の居場所が学園にも社交界にもなくなったことを察したのだろう。引き出しから便せんを取り出し、ペンを走らせる。紙から視線も上げずにイーディスに指示を出し、使用人を呼びつけた。
翌朝、馬車の走る音で目を覚ましたイーディスはカーテンの隙間から窓の外を覗いた。玄関前には見覚えのある馬車が一台。車体にはフライド家の家紋が入っていた。手紙を渡しに来たのだろうか、と思えばそうではなかったらしい。イーディスの朝食を運んできた使用人から話を聞けば、ザイルが謝罪に来たらしい。フライド家の現当主はザイルではなく、リガロの父のはず。けれどイーディスとリガロの婚約話を持ってきたのはザイルである。『話し合い』ではなく『謝罪』に来たところから彼なりに思うところがあったのかもしれない。
その席に参加することを許されていないイーディスは窓際で本を読みながら耳をそばだてる。一冊読み終わるごとにまだ馬車はあるのかとチラリとカーテンを捲っては、まだ自分の処遇が決まらないのかと小さく息を吐く。
長い長い謝罪が終わったのは空の色が変わった頃。明るいオレンジ色になったのでも、その先にある暗闇に支配されたのでもない。どんよりと重たそうな雲が流れてきたのである。これはひどい雨になりそうだ。そう判断したのはイーディスだけではなかったらしい。他家の馬車を置いておくスペースのないフランシカ家では話し合いの続行は無理だと判断した父は、すぐにザイルを馬車まで送った。ザイルはまだ納得いっていないようだったが、父はなんとか丸め込んで彼を馬車に詰め込んだ。馬車が出発してすぐに雲は吐き出すように大きな雨粒を落とし始めた。ドドドドドと打ち付けるような雨はまるでイーディスの怒りを表しているかのよう。彼らは無事に帰れただろうか。フランシカ家とフライド家はさほど離れてはいないが、水を多く吸い込んだ土が馬の足を取らないかだけが心配だった。
それから毎日ザイルはフランシカ家に足を運び、そして数刻と滞在しては戻っていく。謝罪は話し合いと保障問題に変わっていった。リガロと彼の父がやってくることはない。いつだって来るのはザイルと年老いた使用人一人だけ。彼が御者も務めているらしい。右腕のようなポジションなのだろう。
「それにしてもこの本棚、ジャンル幅狭すぎるのよね……。話し合いでも終われば追加頼めるのに」
部屋から出られないイーディスは読書をして過ごしているのだが、『イーディス』の趣味で固められた本棚はイーディスの趣味から外れているものが多い。彼女は騎士や剣士ものが好きらしい。ところどころ王子の話も混ざっているがこちらはマリアの趣味だ。夢の外の世界とは少し違う。冒険小説も推理小説もここにはない。あるのは二人が好きな恋愛小説ばかり。
だが夢の外と違うのは本棚だけではない。この世界での『イーディス』は親友が亡くなるまでリガロへの愚痴を漏らすことも、不仲を察せるような内容を書くこともなかった。マリアとの手紙の中でだけは『イーディス』はずっとリガロに惚れ続けていた。憧れの祖父に近づけるように日々鍛錬を重ねる彼をベースに、恋愛小説で出て来そうなエピソードを重ねていく。無視をすることも放置をすることもなく、かといって朝一で婚約者を馬に乗せて爆走することもない。手紙の中のリガロが見せてくれるのは綺麗な花や満天の星。まるで小説の連載をしているようだと『イーディス』自身も日記に記していた。嘘を吐き続けることに罪の意識がなかったわけではない。それでも心配をかけたくなかったのだ。
『イーディス』はマリアを心から愛していた。
マリアに自分の寿命を分け与えることが出来たなら……と考えるほどには。さすがに彼女に宛てた手紙に書くことは出来なかったが、それでもマリアと重ねた手紙にはイーディスの愛が詰まっていた。そしてマリアもまた同じくらい『イーディス』を愛してくれていた。




