8.退魔核の異変
スルーしようと決めたイーディスだが、少し居心地が悪い。乙女ゲームと同じ王子のままだったら嫌いでいられたのに、今の彼はなぜか放っておけない。大雨洪水警報が出ている時に犬を庭に放置しているような感覚というべきか、家族が楽しみにしていたケーキを知らずに食べてしまった時の感覚というべきか。王子が視界に入る度に罪悪感という名の小さなトゲがイーディスを刺激する。
「その、今日は急にお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした。なんだか王子との時間を邪魔してしまったようで……」
「そのことならご心配いりませんわ。私の役目は魔の研究。イーディス様のお友達であることを抜きにしても、カルドレッド職員として働くことは私の務めですから」
にこりと笑うローザの解答はイーディスの求めていたものではない。ローザにとって『王子との時間』は愛する人とのものではなく、王子妃としての公務なのだろうか。彼女の王子への思いを聞いたのは学生時代の時だけ。彼を支えたいという気持ちは時間を経て形を変えたのかもしれない。
あの頃の王子には、リガロ同様何かしらの事情があったのだろう。それでも彼がローザを放置していた事実は変わらない。また近しい相手であったイーディスが魔道書に取り込まれたこと、悪夢を見るようになったことで何かしらの心境の変化があったことは確実だ。だがローザが話したがらないのであれば、イーディスはそれに深入りするべきではないのだろう。出会った頃はすぐに心を打ち明けてもらえた分、寂しさもあるが仕方がない。しょんぼりと肩を落とすと、ローザはぽつりと「本当は、私にはもう彼の隣に立つ資格がない」と溢した。
「ローザ様……」
「私は一度、王子との婚約を解消しているのです」
「え」
「私は逃げ出しました。そんな私では王子妃に相応しくない。だから癒やしの聖女の儀式が終わった後に王子との婚約を解消して頂きました。けれど、この国には私の他に王子妃になれる令嬢がいなかったのです。年の近い令嬢はすでに魔に犯されたか、魔に犯されることを恐れるものばかり。とても王族に嫁ぐことが出来る精神状態の者はおりませんでした。そこで目を付けられたのは、魔の研究を行い、卒業後はカルドレッドに所属することが決まっていた私でした」
「っ!」
「私は貴族にとっての安心材料なのです。あの事件の渦中にいながら精神を保ち続けた普通の令嬢ーーそれが私です。実際は慈愛の聖女であるマリア様と、聖母の加護を受けるイーディス様の影響下にあったからなのでしょうが、知っている者はごくわずかです。そんな特別な力を持たぬ私があのカルドレッドの一員となり、王子と子を成すことによって貴族はほんの少しだけ心の平穏を取り戻しました。だから、私がカルドレッドに頻繁に足を運び、魔の研究をすることに対して後ろ指を指す者はおりませんし、王子が心配することもありませんわ」
剣聖も癒やしの聖女も特別な存在だ。だが彼らが揃っていてもなお魔に犯された者達がいる。魔に犯された者達はメリーズの癒やしの力で魔を取り除いてもらったらしいが、それは魔に犯された『後』のことだ。事前に防ぐことは叶わなかった。ローザの話し方から察するに、魔に犯された者達は魔を取り除かれた後も元のような生活を送れていないのだろう。魔に犯されたというレッテルを貼られ、恐怖の眼差しを向けられる。そんな令嬢・令息を守る壁となるのがローザという訳だ。
魔に関する知識を少しずつ増やしていたイーディスも、シンドレアの状況を完全に把握することは出来ていなかった。いや、ローザがいるからと安心していたのかもしれない。そのローザこそ剣聖と癒やしの聖女と同じくらいの重責を背負っているとも知らずに。
「ごめんなさい」
「謝らないでください。私と王子の関係は異様に見えるでしょう。けれどこれが私なりのスチュワート王子を支える方法なんです」
そう告げるローザの瞳は濡れていて、否定しないでくれと、受け入れてくれと叫んでいるようだった。イーディスはそれ以上何も告げず、彼女を抱きしめた。
ーー戻ってきたバッカスがぎょっとするまでずっと。
「はぁ~びっくりした。何かあったのかと思った」
「驚かせてしまって申し訳ありません」
ローザが訳を説明すれば、バッカスは「あ~」と溢しながらコクコクと頷いていた。彼はシンドレアの状況を知っていたのだろう。話を聞いても驚いた様子もない。
「ローザ嬢ももう落ち着いたんだろ?」
「はい」
「ならいい。こっちも今のところ問題なさそうだし」
椅子をたぐり寄せてからドカっと腰を降ろすと、バッカスはざっくりと報告をしてくれた。まずこの階を巡回し、下の階の魔量を測定後、会場全体をぐるりと回ったそうだ。客席や売店、階段などを重点的に見て回りつつ、測定器を追加でいくつかセットしてきたとのこと。
「メインはやっぱり三回戦以降だろうな」
バッカスもローザが持ってきてくれたお菓子を摘まみ、窓から会場を眺める。
それからも彼はちょこちょこと席を外しては会場を見回ったが、特に問題は見られなかった。部屋から見ているイーディス達の方にも異変はなく、設置した測定器のデータがメインとなるだろうと思われた。
だが、最後の最後。
チャンピオン枠であるリガロがアリーナにやってきたことで異変に気付いた。
「リガロ様の退魔核、おかしくないですか?」
「ですがザイル様の報告では異変はないとのことでしたが」
「色が曇っているような?」
リガロの退魔核は澄んだ青のはず。だが今は膜が張っているかのように曇っている。オペラグラス越しでも色の違いが分かるのは、リガロの服にも瞳と同じ青が使われているから。ちょうどいい比較対象となっている。だがローザはその色の違いに気付いていないようだ。だがイーディスの見間違い・勘違いと流すことは出来なかった。それはローザも同じらしい。
「バッカス様が戻り次第、ザイル様に試合後に回収してもらうよう伝えます」
ザイルが予備の剣を用意しているらしく、カルドレッドに持ち帰っても問題ないらしい。だがこの後シンドレアを巡って、と言わずに急いで帰った方がいいだろう。調べて何もなければそれで構わない。一番問題なのは怪しいものを放置し続けることだ。安心材料は一つでも多い方がいい。




