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3.忘れ物

 フランシカ家で鍛錬を行っていたある日のことだった。

「……さすがマリア様のオススメ作品だわ」

 無言でこちらを見守ることが常だったイーディスがこの場にいない人物の名前を呼んだのだ。初めは新たなメイドの名前かと思ったが、だとしても鍛錬を見ている時間に呟く言葉ではない。彼女の発言から何テンポも遅れながらも視線を向け、自分の目を疑った。そこにリガロの知っているイーディスはいなかった。本を読む彼女の長く伸ばした髪は後ろに一本に縛られただけ。アクセサリーなどは付けられておらず、服装も非常に地味でレースすらない。代わりに大きなポケットの中には紙切れとペンが入っている。一体何に使うのか。鍛錬をする手は止めず、けれど彼女から視線は離せずにいる。リガロには目もくれず、自分のペースで本を捲る彼女はコロコロと表情を変える。時たまポケットに手を伸ばすと手早くメモを残し、再び紙とペンをポケットに戻す。リガロが見ていることなど気付く様子もない。それどころか存在すら忘れられているのではないかと思うほど。イーディスはリガロが鍛錬を止める少し前まで読書を続け、そして何冊もの本をテーブルクロスの中へと隠した。そして剣を仕舞うタイミングで立ち上がり、玄関まで見送る。

「お気をつけて」

 別れの言葉は非常に簡素なものだった。彼女の顔には先ほどのような表情はなく、それすらも隠すように深く頭を下げる。リガロが馬車に乗り込むまで決して上げることはない。発車した馬車の窓から後方を窺えば、すでに彼女とフランシカ家のメイドの姿はなかった。

 リガロの記憶にあるイーディスはもうどこにもいないのだと思い知らされた。

 彼女が変わってしまったのはいつからか。読書をしていた姿以外を知ろうと、屋敷についてすぐに使用人を呼びつけた。

「イーディスからの手紙をくれ」

「いつ頃のでしょうか?」

「今週は来ていないのか? ならその前から」

「もう三ヶ月ほど、イーディス様からお手紙は送られてきておりません」

「は?」

「特別な用件がある物以外はこちらからの手紙も不要だとのことで、リガロ様のご予定が入った日に送ったものの返信が最後です」

「嘘、だろ……」

「イーディス様は随分前から代筆に気付いておられましたから。続けることが辛くなったのでしょう」

「……ならこの五年間送られた手紙を全て持ってきてくれ」

「かしこまりました」

 五年分の手紙は三つ分の箱に収まっており、筆まめな彼女にしてはやや少ない。もっとあると思ったが、と一つずつ封筒を開きーー言葉を失った。手紙に書かれた日時が徐々に広がり、そして同一の間隔で送られるそれは明らかに使用人に向けた言葉だったのだ。彼女はもう随分と早くから使用人が代筆していることに気付いていた。誕生日プレゼントを贈ったことすら知らない男ではなく、彼女を思って選んだ使用人達にお礼の言葉を書き連ね、そしてリガロへの思いを綴る。本人ではなく、相手の家の使用人に向けていかに素晴らしい人かを知らせるために。最後の一枚には『リガロ様のお手を患わせたくないので、私用でのお手紙のやりとりは止めませんか?』と書かれていた。これの意味が分からないほど馬鹿ではない。

「あの瞳はもう俺を映すことを止めたのか……」

 後悔したところでもう遅い。冷え切った頭でお茶会のイーディスの様子を思い返せば、少しずつ彼女の言葉が変わっていったことにも気付く。

「リガロ様は本当に私には勿体ないくらい素敵な方で……何年も婚約者を務めさせて頂いておりますが、今でもその光の強さにくらりとしてしまいそうですわ」

 そのまま取れば謙虚な婚約者の言葉でしかない。今まではそこまでして剣聖の孫の婚約者でいたいかと嗤っていた。けれど違う。彼女の本心はむしろその逆。『剣聖の孫の婚約者なんて興味はない。所詮、祖父の七光りだろう』と、解放されることを望んでいたのだ。リガロに相応しくなりたいと思ってくれたイーディスはもういない。

「いや、俺がイーディスに相応しい男じゃないからか」

 彼女の本心も知らずに誤解し、他人に貶められている彼女に手を伸ばさないだけではなく、心の中で嘲笑うような男をどうして好きになれるだろう。百年の恋が冷めてもおかしくはない。

 けれど今さらなんと声をかければいいのだろうか。読書に耽る彼女は幸せそうで、キラキラと輝いた目では架空のストーリーを追っていた。こちらの都合で引き離すことが彼女のためなのだろうか。少なくとも彼女には『マリア』という名前の、共通の楽しみを分かち合える仲間がいる。婚約者なんて名ばかりのリガロとは違い、彼女を見てくれる相手が。ならば今まで通り、婚約者に無関心な最悪な男で居た方がイーディスのためなのではないだろうか。

 リガロは剣を振りながらイーディスのためになる答えを探し求めた。かつての彼女ではなく今の姿を見つめ、考える。


 大量の本を抱えて頬を緩ませる彼女を。

 馬車の窓から退屈そうに外を眺める彼女を。

 令嬢達に囲まれながら、仮面のような笑みを張り付ける彼女を。

 ーーそしてリガロの前ではぴくりとも表情を動かさない彼女を。


 イーディスの新たな姿を見つける度、リガロは過去に置き去りにしたままの感情を拾い上げているような気分になる。そして忘れてきたものを胸に抱えた彼が辿り着いたのは初めての剣術大会だった。


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