第六章 恋と不審と会社員 1
「よーし! よし! よーし!」
大手総合商社勤務。28歳。独身。イケメン。細マッチョ。
社内でも有望株として名高い<<彼>>は、今 最高に浮かれていた。
人々が行き交う往来で、周囲から向けられる奇異の目にも怯まず、己が自身に沸き上がる歓喜の声に身を委ねていた。
彼を蝕むのは、とある心の病。
お医者様でも草津の湯でも治せない、かの難病。
そう、恋の病であった。
彼の人生を一変させた事の起こりは、数か月前にまで遡る。
通勤時に自宅近くで偶に見かける<<かの人>>を、とある理由で意識し始めてからだった。
最初は、その姿を偶然目にするだけで幸せだった。
それこそ、プチラッキー程度の軽い気持ち。
朝の出勤時に、かの人の姿を見かける事が出来れば、その日の仕事が上手くいく。
そんな自分ジンクスを作って、何気無しに、かの人の姿を探す毎日。
不思議と、かの人に出会えた日の仕事は、ジンクス通りに上手くいった。
暫く経つと、重要なプロジェクトがある日には、通勤路で待ち伏せして、わざわざ その姿を目に焼き付けてから仕事に行く様になった。
ジンクスの効果は絶大で、彼の業績は一躍トップへと躍り出た。
そんな ある日、彼に転機が訪れた。
それは出会い頭の事故。
いつもの通勤路で、彼は意図せず、かの人とバッタリ鉢合わせしたのだ。
慌てつつも、咄嗟に交わした彼の会釈に、かの人は嫌な顔1つせず、きちんと答えてくれた。
天使の様な微笑みを自分に向け、優雅な仕草で、軽く会釈をし返す、かの人。
溢れ出る多幸感に酔いしれ、覚束ない足取りで帰宅した事を、今でも覚えている。
だけど……
その日から、その日から何故だか彼は不幸になった。
かの人の姿を見かけても、前ほどには幸せになれない。
どんなに その姿を見つめても、かの人は自分に気づいてはくれない。
そう思うと切なかった。
辛く、悲しく、苦しい日々が続く……
もっと、もっと近づきたい。出来れば、きちんと言葉を交わしたい。
肥大化する欲望に身が焦がれ、彼は、もう どうしようもなくなっていた。
「お、おはようございます」
ある日、彼は なけなしの勇気を かき集めて、大きな一歩を踏み出した。
かの人の出勤パターンは、既に完璧なまでに把握していた。
彼は、ベストなポジションで待ち伏せ、ベストなタイミングを見計らい、完璧なまでに計算されつくされた所作で、かの人に挨拶を敢行したのだ。
「えっ?」
かの人は、ちょっと驚いた表情をしたものの、直ぐに天使の様な微笑みを彼に向けると、「おはようございます」と答えてくれた。
それだけではない。
かの人は その後、「最近、良くお会いしますね」と言葉を続けたのだ。
『自分の事を気に留めていてくれた!』
自分の存在が、そこらの単なる有象無象のモブなどではなく、ちゃんとした、1つの個人として認識されていた事に、彼は歓喜した。
その時だったのだろう。
彼の中の心理的な枷が、心の箍が外れたのは……
そして翌朝から、朝晩の挨拶が、彼の日課となった。
◇◆◇
「くしゅん。へっくしゅん。ぶえっくしょい」
玄関先で小鳥遊クンは、盛大なクシャミをぶちかました。
エンリからは「汚ちゃないのじゃ」と嫌そうな顔を向けられ、地味に落ち込む。
「誰かが噂でもしているのかなぁ……」
何気なく呟いた小鳥遊クンの言葉に、エンリが興味を示す。
「なんなのじゃ? それは」
「えっと、日本にはね。昔から『一、誹り。二、笑い。三、惚れ。四、風邪』って諺があって、クシャミの原因を「単に噂されているだけだ」って、誤魔化す事で、「これは不吉な事じゃないですよ」って、喧伝する風習があるんだよ」
小鳥遊クンの小難しい説明に、エンリは一瞬考え込む。
が、直ぐに「……なる。皆がいる前で、このクシャミは感染する類の病ではなく、単なる花粉症なのじゃ、心配する事はないのじゃ、と云う様なモノか」と納得する。
日本では<<他人を安心させる為の方便>>が多用される傾向が、良く見られる。
この場合も、クシャミの原因を『病気』ではなく『噂』とする事で、周囲の心配や不安を払拭させるのだ。
これは、<<病気への感染を懸念させるのが申し訳ない>>、<<自分の体調を心配させてしまうのが申し訳ない>>と云う、どこかズレた日本人独特の、他者事情優先的物事の考え方から来る。
「しかし、じゃ。ただ「問題ない。心配するな」と伝えるだけなのに、随分と迂遠な物言いをするものなのじゃな」
「ああ、日本人ってのは、物事を単純に否定するだけでは、なかなか信用してくれないからね。嘘でも、ちゃんと原因込みで説明しないと」
苦笑いを浮かべながら、小鳥遊クンが答える。
その説明に、「疑り深い割には、児戯にも等しい嘘を受け入れる。まったく難儀な性質の民族じゃ」と、エンリは頭を抱えた。
確かに、クシャミの後に「大丈夫、安心して。病気じゃない。病気じゃないから」と云われるよりは、「へっ、誰かが噂してるぜ」と云われた方が安心できるのが日本人。
ここいら辺の機微は、なかなか外国の人間には理解されないものだ。
ましてや、異世界の住人であったエンリにとっては、難解に過ぎるのであろう。
「まぁ、自分に害がない嘘なら、あえて騙されてあげた方が、人間関係が円滑に進む場合が多いのは確かだね」
そう。
あえて騙されて貰うつもりなら、わかりやすい嘘の方が良いに決まっている。
逆に、真に迫った嘘だと、本当に相手を騙してしまいかねない。それでは駄目なのだ。
『騙す』のは悪い事。相手が嘘を きちんと理解してなお、「あえて騙されてあげる」と云う、上から目線が重要なのだ。
「あい分かった。小鳥遊クンのクシャミは噂によるものであり、病気とは一切関係ない。じゃから心配もしない。これで良いのじゃろ?」
「バッチリです」
そう云って二人は笑い合う。
「しかしのぅ……」
そう云うと、エンリは意地の悪そうな笑みを小鳥遊クンに向ける。
「そうなると、噂もまた真なりじゃ。つまり、小鳥遊クンは今、誰かに惚れられておる事になるのう」
「そっ、それは……」
三度のクシャミは惚れ。
女っ気のない、寂しい小鳥遊クンに対し、エンリは「はよう、母親となる女子を紹介してもらいたいものじゃ」と皮肉下に云い放つと、カッカッカと元気良く家を後にするのであった。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。