『伊豆の子猫が帰る里』
その昔、伊豆長岡の踊り子であった小柄で美しいその女性は、通り名を子猫と言いました。
私の母方の大伯母で、長年実家で一緒に暮らしていた女性がいる。
彼女はもうこの世の人ではない。
彼女は10年ほど前に死んで、子猫になって里へと帰っていった。
大伯母は大正生まれの亡き祖父の姉で、母親代わりも務めた。
軍人の娘で、戦時中に次々と家族を失い、最後に残ったのが、
年の離れた祖父だけだった。
だから、弟の祖父を我が子のように可愛がり慈しみながら面倒を見た。
祖父は下の名前を丈夫といった。
しかし皮肉なもので身体はどちらかと言えば貧相で名前負け。
性格は真面目で、とても優しい温厚な人物だったようである。
ようであるとはつまり、私が生まれるよりもはるか昔、私の母が
高校生の頃に四十二を一期として家族に早々と別れを告げた。
残されたのは、祖母と大伯母、そして私の母を筆頭に、
小学生の叔父と幼稚園の叔母の三人の子供たちと、
晩年に撮られたと思われる遺影、そして親族たちとの
在りし日の思い出だけだった。
一家を突然襲った悲劇は、想像を絶するものであったろう。
大伯母は当時独身だったが、とある孤児を養女にしていた。
そこへ経済的に苦しい祖母の一家からさらに私の母を引き取って養女とした。
つまり戸籍上では、大叔母は私の祖母ということになる。
どんな事情と心境があったかは、もはや定かではないが、彼女はその後
生涯独身を通し、件の養女と私の母という二人の子供の面倒を見て養った。
一方で、祖母は必死で働き口を探して回った。
祖父と結婚して間もなく、二人はキリスト教と出会い、入信していた。
そのことがきっかけで、後に東洋英和女学院の学長と知り合い、
用務員としての仕事を紹介された。
まさに捨てる神あれば拾う神ありといったもので、このことによって
祖母とその家族は救われたと言っても過言ではない。
祖母は祖父と違って非常に健康体に恵まれ、そのことをいつも神に
感謝していたようだ。定年を迎えるまで、立派に勤め上げた祖母は
学校でも非常に人気があり、生徒達の悩み相談の行列が出来るほどで、
送別会も盛大にしてもらった上に、生徒達から大量の別れと感謝の手紙を
貰ったり、手編みのマフラーなども貰い、中には互いに別れの涙を流して
抱き合った者も大勢いたと聞いたから私も我が事のように喜んだ。
私は昔からお祖母ちゃん子として自他共に認める存在で、
東京の深川に一人で住んでいた祖母の元へ小さい頃からよく泊まり
に行っていた。行けばいつも家に上がるなり、まず祖父の遺影の前
に座って挨拶をし、お供え物をあげたり、頂いたりしてから祖母と
話をするのが常で、祖母とは近況を知らせあったり、家族の愚痴を
こぼしたり、昔話をいろいろと聞いたりしていたものだ。
その話の節々や遺影の中に登場する祖父は決して英雄のように偉い
訳でもないし、一家の主として頼もしい大黒柱のようでもなく、
ただただいつも優しい夫だったということだけだった。
しかしそれがとても印象的で、遺影に映る柔和な祖父の表情を見上げながら
人生の手本としてきた。
近頃はその表情が叔父にそっくりになっているものだから、親が死んでも
魂の半分は子に宿っているものなのかしらんと思ってしまうほどだ。
その叔父も祖父の寿命をとうに越した。
性格も似ているらしく、そのせいかこの年になっても私は
叔父をまるで祖父を慕うかのごとくに慕っている。
大伯母が一緒に住むことになったのは、私が小学校高学年の頃から
二十代後半までで、たくさんの思い出を残した人だった。
昔は静岡の伊豆長岡の方に住んでいて、埼玉の我が家に遊びに来る時に
いつも天津甘栗をおみやげに持って来ていた。
最初の頃は非常に嬉しかったのだが、一度栗の中にクリシギゾウムシの
幼虫を見つけてしまい、それがあまりにもショックでトラウマになり、
以後は食べられなくなった。
しかしそんな事件を知る由もない大伯母は、その後もまるで公式行事のように、
毎年毎年、ひたすら天津甘栗だけを嬉しそうに持ってくるので、終いには
辟易してしまい、栗伯母さんと名付けて秘かに敬遠していたものだ。
本人は悪気はないのだが、非常に生真面目で実直、いったん思い込むと
頑固で融通が利かないため、こういったことが往々にして周囲との摩擦を生み、
時折家族と衝突していた時期もあった。
そんな気難しい一面を持った大伯母だったが、少々変わった人でもあった。
それは、いつも着物を着ていることと、髪を自分で結い上げること、
家族の誰よりも早く起きて朝食の支度をすること、入浴は家族と別の
時間に入ること、洗濯も決まった時間に洗って干すし、夕食の準備もする。
動物を飼うことを嫌い、煙草はシンセイやホープといった非常に重たいものを常用し、
テレビは日テレのズームインとお昼の思いっきりテレビ、水戸黄門と大相撲、
読売ジャイアンツのテレビ中継、もしくはラジオ中継を毎日欠かさず観たり
聞いたりするというのが、日課というか、彼女の生活における鉄則だった。
傍から見ると異常と思えるほど、己の生活スタイルを微塵も崩さずに
過ごし続けた。
それはある意味、我が家に厄介になっているという負い目を感じていた
であろう大伯母が、己に課した義務だったのかも知れない。
還暦をとうに過ぎた女性が春夏秋冬の一年を通して、何年も守り続けた
のは執念というに相応しい。その辺はやはり昔の生活習慣というか、
時代背景というか、当時の教えが身に染み込んでいたからなのかも知れない。
ペットが嫌いというのも、昔ペットの世話係をやらされて、可愛がっていた
ペットが亡くなった時に埋葬をさせられた時の哀しみの記憶が残っている
からだと聞いたことがある。
そんな大伯母が一年に一度一週間だけ静岡へと出掛けて行った。
それは母とは別の養女の孫たちに逢いに行く目的と昔の知人がいるという
伊豆長岡へと帰省する為だったそうだ。
しかし、その旅はいつも決まって大伯母の一人旅だった。
私は大伯母の生前、一枚の古い大判の写真を見せて貰ったことがある。
白黒の写真で、白粉を塗って網目傘をかぶり、着物を着て優雅に舞を待っている
美しい踊り子の女性を捉えた一瞬だった。
私が見蕩れていると、大伯母は皺くちゃな顔の目元を弛ませて
さも嬉しそうに私だよとしゃがれ声で言った。
それを聞いて私は、驚いて大きく仰け反ってしまった。
それは若かりし頃の結婚当初の母の写真を観た時以来の衝撃だった。
母も大伯母も昔はと思うと、年月は時として残酷過ぎると思った。
私が大伯母の遺品として受け取ったのは、その踊り子時代に
よくしていたという小鼓である。
踊り名人と言われたそうで、贔屓筋には子猫という通り名で大層
可愛がって貰ったのだと聞いて、ははぁと思った。
私の父方の祖父は読書家で、母方の祖母は詩吟と俳句の名人で
大伯母は小鼓と踊りの名人、母は活け花と習字の達人であり、
かくいう私も幼少の頃から、踊りと歌と作文が得意だった。
なんやかや言っても彼らの系統というか素養はそれなりに
受け継いでいるのだなと思い、不思議な気がしたのを覚えている。
だが、惜しいことにもっと詳しく話を聞いて置けば良かったと
最近になって思いを強くすることとなった。
大伯母のことは知っているようで、案外知っていなかったし、
大伯母もほとんど話さなかった。同様に私の父も家族のことを
あまり話さない。だから生きている内にいろいろと聞いて置きたいと思う。
今回の旅の中で伊豆長岡駅を通ることが分かった時、ふとこの大伯母の
ことを思い出した。故郷へ帰る時、彼女はいつも一人だった。
当時と同じ電車に乗り、同じ景色を眺めて自身の思い出を甦らせ、
仲間の元へと急いだのだろう。
それはきっと私たち家族も知らない大伯母の嬉しさと楽しさと
懐かしさを併せ持った幸福な旅行であり、帰郷だったのだ。
私は初めて伊豆長岡駅を通った。
しかし今回は敢えて電車を降りなかった。
なぜならここは大伯母の思い出がたくさん詰まった街であり、彼女の聖地なのだ。
私の気まぐれな思い付きの日帰り旅行で気軽に降り立つような場所ではない。
どうせ来るなら二泊か三泊くらいしに来るのが自分なりの礼儀だろうと
思ったのが理由である。
代わりに私は在りし日の大伯母の姿を思い返した。
写真を見せてくれた時のあの何とも嬉しそうな笑顔が忘れられない。
きっとこの町並みを観た時や旧友と再会した時に見せる笑顔は、
我が家で見せたのとはまた違う、格別の笑顔だったに違いない。
『お帰り子猫ちゃん。またあの素晴らしい舞を今夜も踊っておくれよ』
と言われて、昔の仲間に囲まれて嬉しそうに年老いた身体で、ぎこちない
踊りを披露していたのだろうか。
そんな子猫伯母さんも、今は時折ここへ戻って来ては、亡くなった大勢の
仲間たちに全盛期自慢の子猫踊りを披露して、旅から帰ると愛する
弟夫婦と一緒に千葉の霊園で寄り添って、幸せそうに語って聞かせる
旅物語を枕にと静かに笑いながら眠っているのだろう。
私を乗せた電車はぐんぐんと加速を付けて走り出す。
線路はまだまだ続いている。私の旅も続いている。
<了>
(注)この作品はタコアシのものです。
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こんばんは、タコアシです。
今回は、詩でも小説でもなくエッセイです。
話の内容は創作ではなく、実際のお話なので
少し重くて暗い内容になってしまっているかも
しれません。ご了承下さい。