マスク
Ⅰ 犬
あの犬は今朝も、都心郊外の二〇三番地と二〇四番地の間に身を下ろしている。つまりは家と家の柵の間、犬一匹通るのにちょうど良い隙間にいる。
『先日公開されたハリウッド映画『ブレイブ&ビューティ』が大ヒットを記録しています。主人公のシングルマザー役を演じた日本人女優、リエさんのアクションは非常に評価されており……』
犬は小型犬だ。鼻はあまり効かないが、こげ茶色の両耳は美しくピンと立っている。右耳には来栖家の団欒の声が流れ込み、同時に左耳は頼岡家の物音をとらえている。
『栄流リエさんは三年前に公開された日本映画に彗星のごとく現れ、その美貌と、スタント無しにあらゆるアクションを見せる超人的な身体能力によって瞬く間に世界のスターとなりました。インタビューに対しリエさんは、日本に帰ってカレに会いたいと発言しており……』
犬の耳には、左からも右からも同じテレビ番組の音が入ってくる。隣同士の家が同じ時間に、同じ地方ニュースをつけているためだ。
『最近〇×市で多発している暴行事件についての情報です。犯人はおよそ四十代後半で、スキンヘッドにサングラス姿。若者の間で再び流行っている「オヤジ狩り」やひったくりなどの現場に現れ、警棒で加害者を撃退し姿を消すことから、ちまたでは「ヒーローオヤジ」と……』
犬が頭を持ち上げて大きなあくびをし、再びあごを前足に乗せる。この犬はニュースの内容を理解して聞いているのか、今何を考えているのか。それは誰にも分からない。
『続いて、最近あちこちで被害を拡大させている銀行強盗について……』
Ⅱ 来栖家
「母さん、またマグカップ買ったの? 今洗ってるやつで何個目?」
「かわいいでしょ、取っ手がイルカになってるのよ。今度にも買ってきてあげる」
「いらない、どうせそれもフリーマーケットでしょ。中古のマグカップなんて嫌だから」
「おい翔太、栄流リエが出てるぞ。ここの車をひっくり返すシーン、噂じゃ栄流リエがほんとにやったらしいな。超人だ、超人」
「父さん、そういう話すぐ信じるよね。現実にスーパーマンはいないから」
「ねえあなた、私もリエちゃんみたいに体鍛えて、ロングヘアーにしようかしら」
「は充分痩せてるし、髪は今くらいがさっぱりしてていいよ」
「それに母さん三日坊主だし。そもそも栄流リエって、全然トレーニングしないらしいよ。撮影以外は、いつもぐうたらしてるって。顔も整形だってネットに書いてた」
「ネットの情報に踊らされるなよ。本番はバシッと一発で決めるらしいし、間違いなく天才だ。天才」
「努力しない天才は、いずれ落ちるよ」
「そういう翔太は努力してるのかしら?」
「してるよ。勉強し過ぎて気が狂いそう」
「根を詰めすぎるなよ。何事もバランスが大事だ」
「あら、これヒーローオヤジのニュースじゃない?」
「おっ、本当だ。スーパーマンほどじゃないが、まさしく現代のヒーローだぞ、ヒーロー」
「ヒーローなんていないよ。こいつだって、結局はヒーロー気取りの暴行犯でしょ。警察に見つかったら逮捕だし」
「もう、最近の若者はそんな悟ったようなこと言って、オヤジを襲ったりしてるんでしょうね」
「僕はやらないよ、アホらしい。退学のリスクと見合わない」
「こんな世の中だからな。その分、ヒーローでもいないと善悪のバランスがとれないだろう。何事もフェアに、だ」
「はいはい二人とも、善悪の議論はそこまでにして。遅刻は立派な悪よ」
「そうだ友美。今日は銀行で大事な取引があって、後処理で夕飯に間に合わないかもしれない」
「その時はメールしてちょうだい。最近何かと物騒だから、気を付けてね」
「父さん、今日車乗せてってよ」
「おう、いいぞ。じゃあ友美、行ってきます」
「行ってきます」
「二人ともいってらっしゃい」
Ⅲ 頼岡家
上半身を覆ってしまいそうなほど長い髪からしずくを滴らせて、頼岡は階段を下りてきた。風呂上りというわけでなく、頼岡佳怜は今からシャワーを浴びる。長袖のパジャマが汗で全身に張り付いている。彼女は、今朝も悪夢を見たのだ。
頼岡佳怜はいじめを受けている。中学校のクラスメートから、受験のストレスのはけ口に。現実で、また夢の中でも。つい先ほどまで、頼岡佳怜は歯を食いしばって、うめき声を押し殺していたところだ。
娘のそういったことを、頼岡は知らない。頼岡勉が今何をしているかといえば、彼の方もまたパジャマに脂汗を染み込ませながら、家のトイレで悲痛なうめき声を上げていた。頼岡勉は会社の取引の件で性格の悪い上司から命令され、今日銀行の、これもまた嫌味な性格の担当員と話をしに行かねばならない。こういった時、頼岡勉は必ず腹をひどく壊す。
シャワーを浴びて制服に着替えた頼岡佳怜は、テレビの電源を付ける。母の礼子が突然家を出て行ってから、頼岡佳怜の朝食は総菜パンだ。テレビのニュースを無表情で眺めながら、大して味わっている様子もなくパンを咀嚼しては、飲み込む。
突然天井から、重いものが床に落ちる鈍い音が響いた。頼岡佳怜は顔を上げる。ちょうど自室のベッドがある辺りだ。頼岡佳怜はうっかりそれをベッドの上に置きっぱなしだったことに気付くと、破いた包装の上にパンを置き、慌てて自室に向かった。
一方その頃、頼岡勉はまだトイレの中で、ドアの向こうから微かに聞こえるテレビニュースを聞いていた。ニュースは最近話題の女優の「カレ」について予想をして、イケメン俳優や芸能人をあれこれ並べ立てていた。くだらない、と頼岡勉は舌打ちする。イケメンと美女の色恋沙汰なんて、自分みたいな男とは何の関係もない話だ。礼子は不細工な女で、家事もろくにせず寝てばかりのくせに、やりたいことを主張せずにはいられない女だった。一方自分は誰に何の文句も言えず、毎日会社でぺこぺこしては、こうしてトイレに籠っているというのに。
朝日に照らされた離婚届と、残高のなくなった預金通帳がフラッシュバックして、腹痛がいっそう強まる。頼岡勉は礼子の記憶を振り払って、平常心を保つよう努めた。ニュースは既に「ヒーローオヤジ」の話題に移っていた。腹痛が若干和らいできた頼岡勉は、トイレの置き時計を見る。まだ髪もセットしていないし、このままでは遅刻してしまう。頼岡勉は急いでトイレットペーパーで尻を拭く。
トイレのドアが開く音は玄関のドアを開けた音にかきけされ、頼岡佳怜の耳に届かない。外に満ちる初夏の熱気に対し、頼岡佳怜は長袖のブレザーと、下には体操服の長ズボンまで履いている。
「おはよう。今日も暑いね」
車の窓を開けて、来栖隆道が挨拶をした。頼岡佳怜が声の方を見て、運転席の来栖隆道と、後部座席の来栖翔太の姿を確認する。頼岡佳怜がぺこりと頭を下げると、長い髪が肩から滑り落ちて上半身をほとんど覆い隠した。車のエンジン音が遠ざかってからようやく、頼岡佳怜は顔を上げる。
それとほとんど同時に、犬が頭をもたげた。犬は柵の間から、頼岡佳怜を見ている。頼岡佳怜も犬を見ている。頼岡佳怜が歩み寄って手を差し出すと、犬は尻尾をリズムよく振りながらそれを舐めた。頼岡佳怜が、この日はじめて笑みを見せる。
Ⅳ 来栖友美
来栖友美はピカピカに磨いたイルカのマグカップにコーヒーを注ぐと、じんわりとしたぬくもりを両手で楽しみながら、それを持って庭に出た。夫の車はない。窓から犬を見た気がするが、その姿もなかった。来栖友美は庭の敷石に腰を下ろすと、カップを傾けてコーヒーをすすった。
来栖友美はベテランの、プロの泥棒だ。
ルールその一、自宅から二駅ほど離れた地域で。ルールその二、食器棚の奥で埃まみれマグカップを一つだけ。ルールその三、持ち主の思い出が感じられるものを。これら三つのルールを守った、ささやかな完全犯罪のことを知る者は誰もいない。これまでも、恐らくはこれからも。
来栖友美には、窃盗犯として天才的とも言える器用さと直感が備わっていた。が、彼女がマグカップ以外の物を盗んだことは今まで一度もない。コーヒーを飲み終えれば、来栖友美はごく平凡な主婦に戻って、朝食の洗い物をはじめるだろう。だがこの瞬間だけは、来栖友美はマグカップ泥棒としての至福に浸る。
よく見るとこれは、ペアマグカップの片割れだと分かる。二つをくっつけると、イルカがハートを形作るようになっているに違いない。恋人の二人が初デートで買ったもので、会計は半分ずつ出し合った。でも小銭が合わなくて、二人でああだこうだ相談していたせいで、レジの店員をイライラさせてしまう。結局彼氏の方が多めに払い、帰ってこれで飲み物を飲む。それはきっと、幸せの味がするカフェオレだろう。
マグカップに込められた思い出をあれこれ想像しながら、来栖友美はぬるくなったコーヒーの最後の一口を飲み込んで、小さくため息を吐いた。
夫を愛している。息子は少し生意気だが、母親の目からすればそれもまたかわいらしい。生活に不足もない。それにこの時間。
髪、伸ばすのやめとこうかな、と来栖友美は思う。今くらいがちょうどいいのかもしれない、と。
ガチャガチャと慌ただしい音がした。見るとスーツ姿の頼岡勉が鞄と書類を脇に抱え、玄関のドアの鍵穴と悪戦苦闘していた。来栖友美がその気になれば、鍵なしでもっと上手く錠を回せることだろう。だが、来栖友美は当然そんな提案はせずに「おはようございます」と声をかけた。頼岡勉も力任せに鍵を差し込みながら、ぼそぼそと挨拶らしき言葉を返す。
来栖友美は隣人である頼岡勉のそういった姿を見かける度に、夫の来栖とのギャップを感じずにはいられない。常に冷静でありながらも可愛らしく、何よりフェアを重んじる男。来栖友美はそんな夫を愛しており、また来栖隆道を愛せぬ自分を想像することはできない。
無理やりに鍵を引き抜いた頼岡勉は車に乗ろうと急いでいたが、来栖友美の手のマグカップを見てふと立ち止まった。
「……ご主人とお揃いで?」
前半は声が小さく聞き取れなかったが、かろうじて分かった言葉に来栖友美は「ええ、フリーマーケットで見つけて」と答えた。
頼岡勉は何か考えている様子だったが、腕時計を見て小さく悲鳴を上げると、慌てて車に乗り込んでしまった。頼岡勉が急発進させた車が視界から消えると、来栖友美は一息ついてから、平凡な主婦に戻った。
Ⅴ 来栖翔太
来栖翔太は、十本ほどの髪の毛を手で弄んでいた。長い黒髪。当然、来栖翔太のものではない。髪の本来の持ち主は校舎裏の地べたに座らされて、四人の生徒に囲まれ、順番にハサミで髪を切られている。頼岡佳怜だ。四人の生徒は「先生にぎりぎりバレない散髪危機一髪」ゲームに興じている。その考案者である来栖翔太は、少し離れた所で両手をはたいて頼岡佳怜の髪の毛を地面に落とし、ポケットから財布を取り出した。これも当然、来栖翔太のものではない。力関係が分かりやすく現れた、中学校の昼休みである。
四人のうち一人の男子生徒が、輪から外れて来栖翔太の元に近づいてきた。彼の名前は島田雅人という。
「なあ翔太、金あった?」
島田雅人に尋ねられた来栖翔太は札入れのポケットを大きく開き、財布をひっくり返して見せた。
「ねーよ。だから『罰』を与えてやってんだろ?」
だな、と島田雅人が笑う。下卑た笑いだ。一方、来栖翔太の笑みには余裕がある。
「でも、面白いもん見つけたぜ。ほら、これ見ろよ」
島田雅人は頼岡佳怜の財布から取り出されたレシートの表記を見て、ウケる、とにやけた。
「こんなもん買って、俺たちに復讐するつもりかよ」
来栖翔太がレシートを片手でくしゃりと丸め、振りかぶって投げた。レシートは頼岡佳怜の頭に当たって、地面に落ちる。
「無理無理、やれるもんならやってみろって。むしろ、ランニングシューズ買って走って逃げた方がマシだぜ」
二人の声は当然頼岡佳怜まで聞こえているが、頼岡佳怜はただ黙って髪を切られるだけだ。うつむいたその表情は髪に覆い隠され、のぞき込むことはできない。そもそも、頼岡佳怜が何を考えているかなど、この場の誰も気にしてはいない。
「そういや翔太、四時間目いなかったじゃん。何してたの」
来栖翔太が「ああ、散歩」と答えると、島田雅人はまたかよー、と語尾を伸ばして言った。その時の愉快な出来事を思い出した来栖翔太は、身振り手振りを交えながら島田翔太に語る。
「学校の近くの、だいぶ前に潰れて錆びれた工具屋あるだろ。そこで、朝よくうちの柵の隙間に来る犬が昼寝しててさ。そいついつも逃げやがるから、こっそり近づいて捕まえて」
その時、犬が意外に抵抗しなかったことを、来栖翔太は今更ながらふと不思議に思った。
「で、頑丈そうな鉄の箱が放ってあったから、犬を入れて蓋してやったんだ。鍵壊して開かないようにしたし、誰かに邪魔される心配もない」
狭い所が好きらしいからさ、という来栖翔太の言葉に、親切かよ、と島田雅人が噴き出す。
とそこで「次、島田の番だぞ」と髪を切っていた三人から声がかかった。島田雅人は返事をしてから、あんまりサボると赤点だぜ、と来栖翔太に言う。
「バーカ、お前と一緒にすんなよ。テストは一位じゃなきゃ意味ねえし」
島田雅人が行ってしまってから、来栖翔太は「ほんと、バカだよなあ」と呟く。
将来のことを考えないあいつらも、抵抗しない頼岡佳怜も。犯罪のリスクを計算しないやつらも、ヒーロー気取りのオヤジも。自分のことを何も知らない先生も、両親も。どいつもこいつもバカだよなあ、と来栖翔太は思っている。
Ⅵ 頼岡勉
頼岡佳怜が髪を切られている頃、その父親、頼岡勉は銀行のトイレにいた。上司の無茶な要望と、高圧的な銀行員の態度に板挟みになった頼岡勉の胃が、腹の中で金切り声を上げていた。
頼岡勉は数あるトイレの中で、この銀行のトイレが特に嫌いだった。入る機会が多い、という理由に加えて、大きな銀行のくせにやたら照明が暗いからだ。暗い照明は、頼岡勉に礼子を思い出させる。礼子はブスのくせに、暗いところではなぜかきれいに見える顔をしていたからだ。恋人が一度もできなかった俺はますます礼子に夢中になり、結婚にまで至る羽目になる。頼岡勉は、薄暗いトイレが嫌いだった。
今日は朝から、やけに礼子のことばかり思い出す。銀行員との取引のストレスと相まって、頼岡勉の腹痛は頂点に達していた。頼岡勉は握っていた拳を、個室の壁に叩きつけた。いっそ銀行強盗でも入って、取引どころでなくなったらいいのに。頼岡勉が、トイレの個室でそう願った時だった。
全員黙って床に手をつけ! 早くしろ!
トイレの向こう、つまりは銀行のカウンターの方から声が聞こえた。続く悲鳴と、怒鳴り声。嘘だろ、と頼岡勉がつぶやく。本物だ。本物の銀行強盗だ。
その瞬間、頼岡勉の中で、会社や取引先、あらゆる場所で様々な人間に抑圧され続けてきた心が、本能が、いつものようにささやく。
銀行強盗相手なら、暴れても、何をやってもいいんじゃないか。
この時、銀行強盗の人数だとか武器といったことは、頼岡勉の頭にない。頼岡勉は髪を掴み、ゆっくりとカツラを取った。鞄には当然、サングラスと警棒がある。
一方その頃、来栖隆道は銀行の入り口付近にいた。
フェイスマスクをかぶった強盗は、銀行内に全部で三人。その内の一人は拳銃を持っている。来栖隆道は強盗と銀行員、一般人も含めた全体の様子を冷静に見ていた。何か見つければ、自分一人でもすぐに対処できるように。
強盗の一人が、窓口に大きなカバンを置く。とその時、突然トイレから何者かが飛び出してきた。スキンヘッドにサングラス。男は手近にいた、先ほどカバンを置いた強盗に真っすぐ走りよると、持っていた警棒をその肩に振り下ろした。骨が砕ける鈍い音がして、強盗が悲鳴を上げる。
動くな! ともう一人の強盗が叫び、拳銃を男に向けた。だが、男はひるむどころか拳銃を持つ強盗に突進した。強盗が舌打ちして素早く身をかわすと、男は勢い余って態勢を崩し倒れ込んだ。強盗が男に拳銃を向け、しっかり狙いを定める。
今にも引き金が引かれようとしたその瞬間、三人目の強盗が「撃つな!」と叫んだ。
拳銃を構えていた強盗が、納得のいかない目で振り返る。
「撃つな。逃げるんだ」
彼が諭すように言って出入り口に向かうと、二人の強盗も走ってその後を追った。
頼岡勉は立ち上がって辺りを見回すが、すでに強盗の姿は銀行内から消えていた。なんでだよ、と怒鳴る声が出入り口の方から聞こえる。しかし、それに対する静かな、それでいて楽しそうな返答は、頼岡勉の耳には届かなかった。
「ヒーローを殺したら、バランスが悪くなるからな」
Ⅶ 来栖隆道
三人の強盗は、銀行の外に止めておいた軽乗用車に乗り込んでいた。助手席の拳銃を持っている男が、くそっ、と苛立った声を上げてマスクを脱ごうとするのを、運転席の来栖隆道が止めた。
「なんでだよ、この格好じゃ逃走中の強盗だとバレバレじゃないか」
来栖隆道が答える。
「逆だ。俺たちが逃走した車種が通報されているはずだから、この車に乗っている時に素顔を見られて、身元を辿られる方が怖い。だから、用意したあの車に乗り換えてからマスクを脱ぐ必要がある」
来栖隆道はリーダーとして冷静に諫めながら、バックミラーで後部座席をちらりと確認した。仲間の肩の負傷は、一刻を争うレベルではないはずだ。計画通り大通りでなく、小回りを生かして小道を着実に進む。
「それに、銀行強盗のニュースを朝テレビで見て、実際いかにもな格好の者と出くわしたとしても、直接動く一般人はほとんどいない。いたとすればそれこそ警察か、ヒーローぐらいのものだ」
窓の外に、中学校が見えてきた。来栖翔太が通っている中学校だ。翔太は今何をしているだろうか、と来栖隆道はぼんやり考える。その答えはといえば、ゲームを終えた四人の生徒と食堂で昼食を食べているところだ。
やがて車は計画通りの時間で、乗り換え用の白いワンボックスカーの後方に停車した。近くには潰れた工具屋が一軒あるだけで、放課後は中学生がよく通るが、この時間は人気のない場所だ。来栖隆道が仲間と視線を交わして頷き、マスクを脱いだ瞬間、車がぐらりと揺れた。一瞬地震かと思うが、小刻みな揺れではない。車が運転席の方へ向かって大きく傾いたかと思うと、やがて凄まじい音を立てて横倒しになった。
あまりの衝撃に、来栖隆道は一時的に平衡感覚を失う。何とか意識を保ち、無理やり首をひねって車内を確認すると、肩を負傷していた後部座席の仲間は、頭を打ったのか気絶しているようでピクリとも動かない。一方、助手席の拳銃を持っていた仲間は、シートベルトに体を支えられてだらりと腕を垂らし、うめき声をあげている。どうやら車が倒れた拍子に、誤って自分の腹を撃ってしまったらしい。不幸中の幸いは、服ににじむ血の位置からするに急所を外していることか。来栖隆道は大きくため息をついた。
逃げようと思えば、自分だけなら逃げられる。体は動くし、幸いにも乗り換え用の車はひっくり返されていない。
だが、来栖隆道は逃げない。こんなにヒーローが頑張って、それでも悪が捕まらないのは「フェアじゃない」からだ。来栖隆道は、今朝のニュースを思い起こす。ヒーローは、スーパマンはいるんだぞ。そう息子に教えてやりたい気持ちになる。
先ほどの轟音を聞きつけてか、パトカーがこちらに近づく音がしてきた。
来栖隆道はふと思い出し、ポケットから携帯電話を取り出した。帰りはだいぶ遅くなる、とメールを送る。
Ⅷ 栄流リエ
栄流リエはうんざりしながら、車窓から夕焼けを見ていた。タクシーの運転手から根掘り葉掘り質問されるために、日本に帰って来たわけじゃないのに。よほど運転席を蹴飛ばしてやろうかと思ったが、栄流リエは怒りをぐっと我慢する。帰国して早々、くだらない記事を週刊誌に書かれたくはない。
「リエさん、トレーニングしないって本当なんですか? それで、本当に車ひっくり返したんですか?」
運転手の質問に栄流リエは、ああそうだよ、と思わず答えてやりたくなる。くだらない噂は星の数あっても、それだけは本当よ、と。
栄流リエは、異常に筋肉がつきやすい特異体質だった。ちょうど中学の頃からだろうか。少しトレーニングをするだけでも、桃太郎がご飯を一杯食べれば一杯分、二杯食べれば二杯分大きくなるといった具合で、しかも物凄い力を発揮する強靭な筋肉がついた。望んだならば、容易くボディビルダーのような体を手に入れられただろう。
だが栄流リエの本心は、モデルや女優のように細くしなやかな体に憧れていた。なので体育なんてもっての外で、少しでも筋肉がつかないよう常にできるだけ体の力を抜いて、はた目からはぐうたらな日常を過ごした。そういった絶え間ない努力の成果が、今の栄流リエのしなやかで引き締まった体であった。
それでも充分に、常人を遥かに超えるパワーは出せる。栄流リエは持ちうる全てを、夢を叶えるために利用した。そして同時に、夢のためなら持っていたものをほとんど捨てもした。人並みに生きようと築いた家庭も、不細工な自分の顔も。しかし栄流リエにも、心残りはあった。
「あの、お付き合いしてる男性って誰なんですか。私当てましょうか。三年くらい前の映画で共演した、あの俳優さんでしょ。ほら、あの鼻の高い」
くだらない、と栄流リエは舌打ちする。私が会いたいのは、あんなくだらない男なんかじゃない。たった一匹の、心を許せる犬だ。
しかし当の犬は、栄流リエが『ブレイブ&ビューティ』の撮影で日本を発つ数日前に、急に家からいなくなってしまった。全くもってタイミングが悪い。時々フラッと家から出ていく犬だったが、今回はそれきり帰って来ず、誰からの連絡もなかった。そして今回も、栄流リエに犬を探す時間の猶予はない。スケジュールにびっしりと詰まった海外での撮影のために、手早く日本の家を引き払って外国に引っ越さなくてはならないのだ。日本に頼れる人もおらず、まるで運命が自分と犬を引き離そうとしているように思えた。栄流リエは、これもなりたい自分になるための代償なんだ、と半ば諦めていた。
とにかく、帰ったらニュースでも見て一息ついてから、家の荷物をまとめなくてはならない。とはいっても、ほとんど捨てる物しかないだろうが。
そういえば、と栄流リエは思い出す。あのマグカップはまだあるかしら。別れた夫との初デートで行った、水族館で買ったマグカップ。食器棚の一番奥にしまい込んだ気がするけど、あれくらいは持って行ってもいいかもしれない。
タクシーが次の角を曲がると、栄流リエの家の玄関が見える。
Ⅸ 頼岡佳怜
朝、頼岡佳怜が悪夢を忘れるために運動をはじめたのは三ヶ月ほど前だった。
はじめはほんの思い付きだ。簡単な運動で汗を流し、何も考えずに体を動かしていれば、多少なりとも嫌なことから意識を背けられるのではないか。やがてそれが自分と、自分の体が求めていることだと気づきはじめた。
しかし同時に、他の女子たちとはかけ離れてしまった自分の体を見られ、あらゆる人に罵られる夢をも見るようになった。頼岡佳怜は重ね着と長い髪で「力」を覆い隠し、毎回ベッド下の奥にダンベルをしまい込んだ。
だが今の頼岡佳怜は、もう悪夢を見ないような気がする、と思えていた。そして、この長い髪を切ってしまおうか、とも。正確に言えば、髪はすでに来栖翔太たちによって巧妙に切り刻まれていたが、だからこそいい機会だ、という踏ん切りにもなった。
頼岡佳怜は犬を抱いたまま、首輪に書かれていた住所まで歩いて向かっていた。マジックの文字は擦れてだいぶ薄くなっており、だから今まで気づかなかったのだが、なんとか住所は読み取ることができた。二駅ほど離れた町で、歩くと夕方までかかりそうな距離だ。しかし、頼岡佳怜は構わなかった。腕に感じる犬のぬくもりと、全身の疲労感が心地良い。頼岡佳怜は歩きながら、犬に話しかけた。
父のトイレがとにかく長いこと。
母のいびつな卵焼きの味を覚えていること。
いじめが本当につらかったこと。
映画の中に見つけた、なりたい自分の姿。
頼岡佳怜の心には、誰かに話したい思いが積もっていた。今の今まで、頼岡佳怜にそんなことを話せる相手などいなかったのだ。その内容をそっくりもう一度話すことになるのを、頼岡佳怜はまだ知らない。
名前を呼ばれ、犬が顔を上げた。頼岡佳怜がこの日二度目の笑顔を見せる。
首輪の「Karen」の字は、住所や電話番号よりもずっと濃く、丁寧に書かれていた。