第5章 主よ、憐れめよ
久しぶりの投稿で申し訳ありません。
スランプに陥って筆が進みませんでした…。
やっと5章も書きあがりました!
ストーリーにも展開が出て来ます。
スランプ明けですので、優しい目で読んで頂けると幸いです。
第五章 主よ、憐れめよ
神崎さんからグリゴールとしてここへ残る事を命じられて幾日か経った。拒否権はないと言わんばかりの話術でまんまと私は丸め込まれ、正式に特務機関Metatoronへの入隊が決まったのだ。
そして、今日は養護施設へ説明と退所の手続きを行う為、私は久しぶりに十七年育った場所へと帰ってきた。施設のみんなは久しぶりの再会にとても喜んでくれたが、私はみんなのように再会を素直に喜べなかった。何故なら…ー
「本当に無事で良かった。見たところ傷も残ってないみたいだし…。本当に、この度はこの子を助けて頂き、ありがとうございました。」
「いいえ。民間人を守るのも我らの仕事ですので。」
この人が…神崎さんが一緒に来てしまったからだ…。貼り付けたような笑顔を先生に向ける神崎さんに、私は気が気でなかった。今日は神居さんが来るという話だったが、土壇場で神崎さんの同行に変わってしまったのだ。一緒に葉さんも来てくれたからまだ心強いが、この神崎護という男自体に不信感を持っているせいか、大事な家族と逢わせる事にどこか不安があったのだ。
「申し遅れました。私は特務機関Metatoronの日本支部長を務めております。神崎と申します。こちらは部下の花咲です。」
「突然押しかけして申し訳ありません。花咲と申します。」
双方頭を下げて挨拶を済ませると、神崎さんの鋭い眼光が先生を捕らえた。早くも本題に入るのだと、私は少し身構えてしまった。
「単刀直入にお伝えしましょう。サラ君を我が組織で引き取らせて頂きたい。」
「引き取る?…しかも組織にって…。貴方の養子にというのであればまだしも…何故そのような事を。そもそも、その特務機関…とは何なのです。」
単刀直入にも程があるくらい、神崎さんはストレートに先生へと要望を伝えた。あまりにも堂々としている姿に、説得に対して絶対の自信があるように感じだ。
「我が特務機関は国家組織であり、世界各国に支部を持っております。主な仕事は亡者の研究、そして軍事的抑止力として亡者を牽制、殲滅を行っております。」
「念のため、国からの書状も持参致しました。お納め下さい。」
神崎さんの説明の後、続けて葉さんは鞄から書類を取り出し、それを先生へと手渡した。微かに見えた書面には、達筆な字で現職の総理大臣の名が記されていた。彼らのペースで着々と外堀を固められている状態に、私は深い溜息をついた。
「…は…はぁ…。それで、そんな危ない事をしている方々が、何故突然サラを引き取りたいなんて…。」
「彼女は一度亡者に襲われていますから、その血の味を知った亡者達から暫くは追われる身となるでしょう。亡者は若い娘を好んで捕食しますからね。なので、護衛の為にも組織にいてもらった方が良いでしょう。なにより…サラ君が非常に我が組織に対して興味を持ってくれているのです。」
「えっ!」
「そうなの?サラ。」
突然話を振られてしまい、私は思わず声をあげた。一体何を言いだすんだ、この人は。思わず手が出そうになった。
「えっと……。その…まぁ…ね。」
それをなんとか抑えて誤魔化すような返事をすると、私の返事を聞いた神崎さんは満足気な顔をした。
「先日、彼女の親友が亡者に襲われまして、それがきっかけで我が組織に興味を持ってくれたそうです。」
神崎さんの言葉で考えないようにしていた記憶が蘇り、思わず私は息を呑み、顔を伏せた。神居さんから報告を聞いたのだろうか…。それでも、綾の事を私を組織に引き入れる為の口実として使って欲しくはなかった。確かに、きっかけは綾の死だったかもしれない。けれど、なんだか私が組織に加わる事の全てを綾のせいにされているようで嫌だった。
「…も、勿論、彼女は研究チームの一員として迎え入れるつもりですから、危険はございません。安心して下さい!」
少し嫌な空気が流れ、それをフォローするように葉さんが笑顔で言葉を続けた。嘘とはいえ、命に関わらない部署だと強調する事で聞き手を安心させられるだろう。案の定、先生の表情も最初に比べて険しさが和らいだように見えた。しかし、すぐに考え込むように難しい表情に戻ると、暫くして重たい口を開いた。
「お話はわかりました。この子の命が危ないという事なのであれば、危機が過ぎるまで引き続き守って頂きたいと思っています。けれど、サラをそちらの組織で引き取るというのはまた別の話です。…血は繋がっていないとはいえ、サラを赤ん坊の頃から育てているんですもの。我が子も同然です。本当に安全だという確証もないのに…私は認められません。」
「…心中はお察ししますわ…。しかしー」
「認められないものは認められません。」
案の定、先生は『認めない』の一点張りだ。葉さんが説得しようと試みても聞く耳を持とうとしなかった。
「先生…。」
思わず先生の顔を覗き込むと、私を不安にさせまいとこちらへ笑顔を向けると、また神崎さんへと厳しい視線を向けた。神崎さんはというと、その視線を向けられても尚、心の内の読めぬ笑みを湛えていた。
「先生のお気持ちは分かりました。…けれど、それは貴女の唯のエゴだ。独り善がりの母性と正義感で子供達の未来を奪って良いものではありません。」
オブラートに包む事なく、神崎さんの言葉のナイフは先生へと振り下ろされた。神崎さんの言葉に先生は声を失い、愕然とした表情を浮かべた。なんとかして説得を試みるだろうと思ってはいたけれど、まさかこんな酷い事を言うとは思わなかった。葉さんも唖然としていて、彼女にとっても予想外の言葉だったようだ。
「ちょ、ちょっと神崎!あんた何言ってんのよ!」
「私の言っていることは至極真っ当だと思うよ。現に彼女はサラくんの意見も聞かずに決めつけているじゃないか。彼女の持つ可能性を見ようともしない。」
この人は本当に人の心を見透かし、僅かに見せた隙や矛盾を的確に突くのが上手い。その証拠に先生は次の言葉が出てこず、唇を噛み締めていた。私の時と同じだ…。私も心の中に潜ませていた『グリゴールになる』という確信を見透かされていた…、`あの時と…。
「サラくん。君がどうしたか…、先生にきちんと伝えるべきだ。そうしないとせっかくチャンスを得てもみすみす逃す事となる。」
「…私は……今後もお二人の所でお世話になろうと思ってる…。ほら、来年には私も就職しなきゃいけないし。それに…やっぱり少しでも友達みたいな人を減らしたい…。その為の力になりたいなって思うの。」
神崎さんの言葉に、私はまとまりきらない考えを整理しながら、ダメ元で自分の心の内を打ち明けた。まぁ、本当は亡者と戦うグリゴールとして組織にはいるんだけど…、先生へ告げたその気持ちに一切偽りはなかった。私の気持ちを聞いて、先生は暫く考え込むと、諦めたように溜息をついた。
「…わかったわ…。サラがここまで意志を固めているのであれば、私は反対出来ません。認めましょう。」
「先生…。」
「だけどね、サラ。これだけは約束して頂戴。けして無理はしてはだめよ。…もし、辛くてどうしようもならなくなった時はいつでもここへ帰ってらっしゃい。ここは貴女の家なんだから。血の繋がりなんて関係ないわ。私と貴女がここで暮らした年月と絆が、何よりも大切なんだから…。」
先生は微笑みながらそう言うと、優しく私の頭を撫でた。その手のぬくもりに、少し涙腺が緩んで涙が込み上げた。
私は、ずっと自分が独りなのだと思っていた。ここでの生活も…結局は同情を受けた結果だと…。そんな悪い事を考えていた時だってあった。だけど、私が思っていた以上に欲していたぬくもりは目の前にあったのだと、今漸く気付かされた。
私は先生に抱きつくと、何度も何度も頷き返し続けた。先生はというと、そんな私の背を黙って優しく撫で、涙の意味をけして聞こうとはしなかった。きっと、先生は全部知っていたんだ。私が心の中に隠していた孤独感に…。それ故に、何も信じようとしていなかった事に…。
「今までありがとう…。先生…。」
それから私を引き取る手続きは滞りなく行われ、私は正式に組織の寮へと越してきた。
「荷物、これで最後か?」
「うん、ありがとう。」
養護施設から持ってきたあまり多いとは言えない荷物を結城君に手伝って貰いながら部屋に運び出してくると、私は荷物の散乱した部屋を見回した。一時的の仮住まいの筈だったのに、運命の巡り合わせで本当にここに住む事になってしまったのだと改めて実感し、思わず苦笑した。
「何笑ってんだ?」
「なんか怒涛の展開だったなって思って。初めてこの部屋に来た時はこうなるなんて半信半疑だった。…改めてよろしくね、結城くん。」
「ああ。…そうだ、明日から学校復帰だよな。」
そうだ、明日からまた学校に通えるようになるんだった。神崎さんから許可は降りていたけれど、親権の受渡しや引越しでバタバタしてしまい、まだ復帰出来ていなかったのだ。
「なんか久しぶり過ぎてドキドキするなぁ…。でも、すごく楽しみ。」
学校に行けなかた期間はたった半月だが、私にとってはとても長く感じられた。久しぶりの友人達との再会を想像しただけで、胸の高鳴りが増していった。しかし、そんな思考を停止させる言葉を、突然結城君が投げかけてきた。
「神宮寺、暫くは俺も一緒に登下校するから。」
「え?」
一緒に登下校だなんて…。つい半月前まで二言三言しか話さなかったのに、突然一緒に登下校だなんて、絶対に周りに怪しまれてしまう。根も葉もない噂を立てられたりする事だってあるのに…。
「お前はグリゴールになったばかりだし、もし敵に攻撃を仕掛けられても実戦経験の無いお前には戦闘は難しいだろう。だから暫くは俺が傍に居てやるよ。」
照れくさそうにそう言う結城君に、私は少し頰が熱くなったように感じだ。なんだか近頃、結城君の一つ一つの言動に心が振り回されてるように思える。ただのクラスメイトだった筈なのに、ちょっとした事でこうやって頰が紅潮してしまうのだ。ジェイドさんと初めて逢った時の顔の火照りとはまた違う気がする…。こんなに男の子と密に接する事が無かったせいだろうか。…それとも…―
「神宮寺?」
「え!あ…なんでもない!それじゃ…明日からよろしくね。私も早く戦えるように頑張るから。」
誤魔化すようにそう返事を返すと、結城君はいつも通りの笑みを浮かべてくれた。よかった…。ちょっと顔が赤くなってしまったのはバレていないようだった。それにしても、本当にあれはなんだったんだろう。心にもやっと残ってしまった違和感に頭を悩ませながら、私は部屋のかたずけを再開した。
次の日、私は久しぶりに制服の袖に腕を通した。復帰初日らしく、びしっと着込んで気合いも十分だ。
支度を済ませて部屋を出ると、私は結城君と待ち合わせした正面玄関へと駆け足で向かった。久しぶりだからだろうか。無意識に支度に時間を掛けてしまったから時間ギリギリになってしまった。
「結城君、ごめん遅くなって……あれ?」
正面玄関に到着すると、結城君以外に葉さんとジェイドさん、そして早苗さんがニヤけた表情でそこに立っていた。
「皆さん、どうしたんですか?」
「翼がナイトになるって噂聞いたから見にきちゃった。」
「だ、だから違うって!」
結城君が葉さんの言葉に空かさず突っ込みを入れるが、大人達はそれをもからかうような笑みを続けた。
「まぁ、それは冗談として、サラちゃんが今日から学校復帰って聞いたから見送りに来たんだ。良かったな、行けるようになって。」
「はい、ありがとうございます。」
「これ、私からの選別よ。口に合うかわからないけど、良かったら食べてね。」
早苗さんに手渡されたバッグにはお弁当箱と水筒が入っていた。予想外のプレゼントに、私はつい笑みがこみ上げた。お弁当だなんていつぶりだろう。それに、いつも購買や学食で済ませている身としてはとても有り難いプレゼントだ。
「お弁当まで…そんな大した事じゃないのにありがとうございます。」
「いいのよ。気をつけてね。」
「楽しんでこいよ。」
「学業こそ君達子供の本業なんだから、久しぶりの学校、存分に謳歌してきなさい。」
そう三人に見送られ、私は結城君と共に意気揚々と学校に向かった。
「サラーーーー!良かった!怪我治ったんだね!携帯も繋がらないし、すごく心配したんだから!」
教室について早々、私は友人達に泣きながら抱きつかれ、久し振りの再開を喜び合った。懐かしいぬくもりや友人達の声に、やっとここに帰ってこれたのだと、喜びの涙が頰を濡らすのがわかった。
「サラ…、そういえば…聴いてる?あの事…。」
「…うん。綾の事だよね…。知ってるよ、全部…。」
悲しげにそう問うてきた友人に、私は静かに答えた。綾の席に視線を送ると、花瓶に生けられた花が寂し気に咲いていた。ずっともうこの世にいないのだと理解はしていたが、いざ悲しみを友人達と共有する事で、改めて綾の死を再認識してしまった。
「…これでサラまで死んでたらって思うと…本当に良かった…。」
「うん…。心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫だから!安心して!それに、いつまでも泣いてたら綾が安心できないよ。遺された私達は前を向いて生きていかなきゃ。」
すっかり気落ちしてしまっている友人達を鼓舞する様に私が微笑むと、少しづつ皆んなの顔に笑顔になり、以前と変わらない雰囲気にクラス全体が戻っていった。
「やっぱり人気者だな、お前は。」
学校での一日も半分が過ぎようとしていた頃、私は結城君と廊下でばったりと逢った。組織内では一緒にいる事が多かったが、学校では思っていたよりも接点が無かったせいか、なかなか話せていなかった。
「うーん、そうかなぁ…。」
「お前が休んでる間、みんな火が消えたみたいに静かだったんだぜ。こんなに活気があるのは久し振りだ。」
お世辞だと思うけれど、そこまで褒められてしまうと少し照れくさかった。
「恥ずかしいなぁ、やめてよ…。そういえば…なんだか…新鮮だね。結城君と学校でこうやって二人きりで話すの。」
「あー、あんまり話すことなんてなかったからな。」
組織ではよく一緒に行動するから、それと大差無いと思ってはいたけれど、やはり場所が変わると少し心境も変わるものだ。共通の友人達が犇めくこの狭い世界で、結城君とこうして話す事自体も少し恥ずかしくて、体がむず痒く感じた。
「あれれ、珍しい組合せー。なに話してるの?」
「二人だけの雰囲気作っちゃって怪しー。」
突然の声に振り向くと、友人達が私と結城君囲んで、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「べ、別になんでもないから。」
咄嗟に弁解したが、みんなは相変わらずのニヤケ顔だった。これは、非常にまずい…。完全にみんな私達の仲を勘違いをしている気がする。
「そういえば、噂になってたよ。サラと結城君が一緒に登校してるって。」
「ねぇねぇ、やっぱり付き合ってるの?」
やっぱり!あぁ、どうしよう…。私は別にいいとして、結城君に変な疑惑を持たせてしまった。ちゃんと身の潔白を証明しないと!……あれ……私なんで『別に良い』だなんて…。
「…付き合ってるよ、俺達。」
「え…?」
私がうまい言い訳を考えていると、ずっと口を閉ざしていた結城君から思わぬ言葉が飛び出した。「やっぱりー!」と結城君の回答に喜ぶ友人達を尻目に、私は目をまん丸にして結城君を見つめた。
「そう怒るなって…。付き合ってる事にしておいた方が、なにかと行動しやすいだろう?組織の事は機密事項だしな。」
小声でそう説明され、ぐうの音も出せなくなった私は、小さく頷いて彼の提案を受け入れる事にした。そうだ…。これは組織の事がバレない為の手段なんだ。別に本当に付き合う訳じゃないんだから…。そう自分に言い聞かせては見たものの、なんだか恥ずかしさが優ってしまい、結城君の顔を直視出来なくなってしまった。
「お前なぁ、普通に接してくれないと逆に怪しまれるだろうが。付き合うって言ったってフリなんだからさ。」
「だ、だって…なんか恥ずかしいじゃない…。」
案の定、よそよそしくなってしまった私は、帰り道に結城君からダメ出しを受けていた。そもそも、男の人と付き合った経験すらないのに、どうやって付き合ってる感出せば良いっていうのよ。
「まぁ…悪いけど慣れてってくれよ、サラ。」
「え?」
付き合うフリという事自体にもいっぱいいっぱいなのに、不意打ちの如く、結城君は突然下の名前で私を呼んだのだ。あまりに突然の事で、思わずそのまま言葉を失う程だった。
「なんだよ。」
「だって…な、名前!フリなのにそこまでするの?」
「付き合ってるのに苗字で呼び合うなんて変だろう?それに、学校でボロ出たら怪しまれるし…。普段からそう呼ぶから。…それとも、…俺に名前呼ばれるの、嫌?」
あぁ、もう…そんな質問するなんて反則だよ…。嫌だって言えないの解ってるのに…。比較的学校で人気のある彼と、フリとはいえ恋人同士になるんだ…。異常なまでの緊張で言葉を紡ごうとすると心臓が口から出そうだった。
「…もう…解ったわよ。……それじゃ、よろしくね。…翼君…。」
なんとか絞り出した言葉に、顔が酷く熱くなった。怖々と彼の顔を覗き込むと、さっきまでのポーカーフェイスが嘘のように真っ赤になっていた。
「なんだ、翼君も人の事言えないじゃない。もしかして自分からやりだしたのに本当は恥ずかしかったの?」
「う、うるせぇな。別に良いだろう?…ほら、この後は戦闘訓練の予定あるんだろう?帰るぞ。」
私からの追求から逃れる様に、翼君はそそくさと前を歩きだしてしまった。なんだ…。私だけが一人でドキドキしてるのかと思ってた。ちゃんと翼君もそう思ってくれてたんだと思うと、少し照れくささがマシになったように感じた。
暫くして、翼君との恋人のフリはお互いに慣れてしまい、特に誰にも気付かれすに上手いことやれていた。時々、事情を知っている葉さんやジェイドさんからのからかいに、少し反応してしまうくらいだ。けれど、それ以外の事はてんで駄目だった。ホログラムによる戦闘訓練は中々上手くいかず、能力の向上も停滞気味だった。
『はい、今日はここまでね。上がってきて。』
この日も上手くいかず、亡者にトドメを刺される直前で、葉さんの手によってプログラムが停止されてしまった。不甲斐ない結果に、肩を落として管制室へと戻ると、パソコンの画面と睨めっこしながらデータを分析する葉さんの姿があった。
「すみません…。また上手くいかなくて…。」
「あぁ、仕方ないわよ。まだ訓練が始まって一ヶ月も経ってないんだから。それより、体は平気?」
不甲斐ない結果ばかりの私に対して、優しくフォローを入れてくれる葉さんに私が頷き返すと、葉さんは安心したように微笑み、労いの言葉を掛けてくれた。
「今日の結果を分析して、また明日トライしましょ。今日はゆっくり休んでね。」
「…はい…。明日もよろしくおねがい致します。」
深々と頭を下げると、私は顔を伏したまま訓練場を後にした。
自室へと戻る私の足取りは酷く重たかった。葉さんはああ言ってくれていたが、彼女の期待通りの成果を出せていないのは事実だ。一体なにが駄目なのだろう…。体術訓練は少しずつ上達していて、教えてくれているジェイドさんや翼君からも筋は良いと言われている。能力についても、きちんと出せるようになってきているのに、何故かホログラムによる訓練においては亡者に一本取られてしまうのだ。こんな事ではいつまで経っても実戦でみんなと戦えない…。
「サラ君。」
突然名前を呼ばれて振り向くと、そこには神崎さんがいた。相変わらず心の内を読むことの出来ない笑みを浮かべながら私に近づいてくるもんだから、一瞬後退り仕掛けたが、失礼かなと思い、なんとか踏みとどまった。
「訓練の帰りかな。成果はどうだい?」
「えっと…、まだなかなか上手く出来なくて…。力のコントロールは覚えてきたんですけど…。」
「そうか。君にはとても期待しているから、是非頑張ってくれたまえ。」
神崎さんはその重い一言を私に告げると、颯爽と立ち去ってしまった。彼の『期待』という言葉は私を鼓舞するどころか、ただ焦りを募らせるばかりだった。期待に応えなきゃ…、だけどどうすれば良いのかわからない。
「どうしよう…。考えれば考える程八方塞がりだ…。」
普段使わない頭をフル回転しても、自分の納得のいく答えが出せない事に、苛立ちさえ感じた。しかし、そんな心境の中でも不思議とお腹は減るらしく、私のお腹が大きく鳴った。
「…晩御飯にしようかな…。美味しい物食べて気分転換したら何か変わるかも…。」
私はそう自分に言い聞かせると、食事をする為、ひとまず食堂へと向かうことにした。
「今日は何にしようかなぁ。…あれ、葵?」
今日の夕食の献立を考えながら食堂へ向かっていると、スーパーの買い物袋を下げた葵を見つけた。葵の姿を眼にするのは実に久し振りだ。通っている高校も違うし、学校から戻れば訓練ばかりの生活だったからだろうか。それにしても、初めてあった頃は怪我で包帯だらけだったのにこの一ヶ月で回復したらしくいたる所に巻かれていた包帯は綺麗に取れていた。
「葵、怪我治ったんだね。」
葵の姿に私は居ても立ってもいられなくなって、そう声をかけながら歩み寄った。
「えっ!?…あ、サラちゃん!久し振りだね。」
突然の私の声に驚いたようだったが、葵は私の姿をその目に捕えると、ふにゃりとした笑みを浮かべた。
「ホントね。私も訓練ばかりだったし…。食堂で出くわさないかなってちょっと期待してたんだけど…。」
「あ、ごめん…。私、自炊してるから食堂で食べてないの。」
申し訳なさそうに葵は眉を下げたが、私は『自炊している』という事に驚きの声をあげた。そりゃあ、施設で手伝いぐらいはしてたけど、自分で献立考えて一から作ろうだなんて、生まれて此の方、考えた事もなかった。
「凄いなぁ。私、料理はてんで駄目だから…。今日は何作るの?」
「今日は茄子の揚げ浸しと、豆腐とワカメのお味噌汁…、あとはお魚焼くぐらいかな。私も簡単なのしか出来ないから、全然凄くないよ。あ、そうだ…。あの、良かったら…一緒に食べない?サラちゃんの口に合うかは解らないけど。」
「え?いいの?」
突然の葵からの申し出に、私は間髪入れずにそう答えた。葵とは仕事仲間というよりも友達としてもっと親しくなりたいと思っていた。だから今回のお誘いは仲良くなる絶好のチャンスだった。
「うん。私ね、サラちゃんともっと話したいなって思ってたから。」
「私も!じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になります。」
「ごめんね。ご馳走するって言ったのに結局手伝わせちゃって。」
「いいの、最初からそのつもりだったし。結局野菜切るのと盛り付けしか役に立たてなかったしね。」
あの後、私たちは葵の部屋のキッチンで、肩を並べて夕食の準備をした。葵からは座っててくれと何度か言われたが、完全に葵の好意に甘えてしまうのも気が引けたので手伝いを申し出たのだけれど、…正直少しは料理をしとくべきだったと後悔してしまった。野菜を切らせれば大きさは疎らだし、お味噌汁は吹き零すし…逆に迷惑ばかりかけてしまったかもしれない。
それに引き換え、葵の手慣れた手つきは実に見事だった。一つ年下とは思えない程小慣れていて、机に並べられた料理はとても美味しそうだ。
「どうぞ、遠慮せずに食べてね。」
「ありがと。それじゃあ、頂きます。」
葵に促されて料理を口にすると、優しい旨味が口いっぱいに広がった。ちょっと施設での食事に味付けが似ていて、少し懐かしい風味だ。
「美味しい!」
「そう?良かった…。」
「でも凄いね。もしかしてずっと自炊してるの?」
「うん。ここに来てからはずっとやってるの。最初は全然出来なくて、失敗ばっかりだったけど…。でも、お母さんが「自分で出来ることは自分の力でしっかりやりなさい。自分の力で何かをする事の幸せをたくさん味わいなさい。」って言ってくれたから頑張るようにしてるの。」
葵の話す母親の教えは、なんだか少し重たいものだった。当たり前の事が当たり前でないという事を突きつけられる。これって…まるで…。
「私ね、小児癌でずっっと入院してたの。」
「え?」
そういえば、ここに来た時に神居さんからグリゴールとなるのは身寄りのない子供、もしくは病気や障害のある子供達が選ばれるって説明されたっけ。
「それじゃあ、治すためにグリゴールに?」
「うん。もう全身に転移してて、助からないって言われてたの。だから、その頃の私は…ホスピスでなんの夢も希望も持てないまま、病に体が蝕まれて死ぬ日を…ただ待つしか出来なかった。でもね、そんな時に神崎さんに出会ったの。」
あまりにも壮絶な過去に、私は言葉が出なくなってしまった。幼くして終末医療のホスピスに入れられ、死の恐怖と戦っていたなんて…。
「ベッドの上でただ死を待つか、生き残る可能性に縋ってみるか。どちらかを選択しなさいって言われた時、私は迷い無く生きたいと言ったの。どんなリスクを背負ってでも私は生きたいっていう思いだけで無我夢中だったな…。アダム・カダモンの投薬と適応までの時間は凄く辛かったけど…、今はこの選択をして良かったって思ってる。」
「…強いね、葵は。…私とは全然違うや…。」
葵の壮絶な過去を聞き、ポツリと私はそう呟いた。なんだか私は、頑張れば頑張る程空回りしている気がする。だから壮絶な過去を抱えながらもきちんと生きているのが、なんだか羨ましかった。
「…葉さんから聞いたよ…。訓練あまりうまく進んでないって。」
「知れ渡っちゃってたか…。恥ずかしいなぁ…。…力も制御出来るようになったから上手くいくって思ってたんだけど…なかなか思うようにいかないね…。」
本当なら私だって、みんなと同じように討伐に参加してなきゃならないのに…。
「本当に…不甲斐ない…。」
「そんな事ないよ!…私もね、訓練から実戦まで凄く時間がかかったの。みんな私の事、グリゴールの劣等生だって噂してた…。今だって失敗する事もあるし…。あの頃…私も今のサラちゃんと同じ事考えてた。周りのみんながどんどん任務に出て…死んでいってるのに…私だけのうのうと生きてる…。ずっと悔しくて、焦れば焦る程、上手くいかない…。たぶん、サラちゃんも今そんな感じなんじゃない?」
葵の指摘は的確だった。この子にはきっと私は、過去の自分と重なって見えるんだろう。けれど、少し驚いた…。葵も私と同じように苦しんでたなんて…。
「…葵は…どうやって克服したの?」
「うーん。深く考えることを辞めたから…かな。だって、私は零さんやジェイドさんじゃないもの。私は私。それに気づいた時、なんだか胸がスッと楽になったの。」
そう微笑みながら言う葵に、私は首を傾げた。「私は私」それは至極当たり前のことだ。それが訓練の成功とどう結びつくのだろう。
「サラちゃんって、悩めば悩む程、どんどん深みにはまって他人と自分を自分で比べちゃうでしょ。」
「え?そうかなぁ…。」
「絶対そうよ。きっと、『本当なら自分も』って思ってるでしょ。」
まるでこころを見透かされたかのように確信を突かれ、私は思わず言葉を失った。そんな私の反応に、葵は「やっぱりね。」と、また笑みを浮かべた。
「良いんだよ、サラちゃん。サラちゃんにはサラちゃんペースがある。焦っても転んじゃうだけなんだから。期待とか、重たいモノは全部捨てちゃって良いの。やらなきゃ、成功しなきゃ、みんなに追いつかなきゃ…。そんな気持ちだけ抱いてても能力は力を貸してくれないわ。一度肩の荷を下ろして挑戦してみて。そしたらきっと上手くいくよ。」
葵の言葉に、私の心を縛っていた鎖が少しずつほどけていくのを感じた…。そういえば…ずっと肩に力を入れて、頑張ろう…頑張らなきゃダメだって…、ずっそうやって自分を鼓舞し続けてた。先を進むみんなの背中ばかり羨んで…、隣に立つ事しか考えてんかった。
「…そっか…、そうだね…。私、自分らしさってのずっと忘れてたかもしれない…。あらいがとう、葵。なんかスッキリしたかもしれない。」
「よかった。サラちゃんならきっと大丈夫だよ。サラちゃんらしく頑張って。」
「うん、ありがとう。」
葵の言葉で色々吹っ切れたのか、次の日からの訓練は実に調子が良かった。ホログラムに一本取られる回数も減り、私が勝利する回数も多くなってきた。
ホログラムの首元を光の剣が切り裂くと、戦闘訓練の終了を知らせるブザーがけたたましく鳴った。
『お疲れ様、一度上がってきてくれる。』
「あ、はい。」
管制室にいる葉さんからマイク越しに呼び出され、私は急いで管制室へと上がる階段を駆け上がった。
管制室に入ると、葉さんはパソコンのディスプレイを満足げに見つめていた。少し前までの表情とはえらい違いだ。その表情だけでも、最近の自分の訓練が順調なのだと理解できる。
「最近すごいね。本当によく頑張ってるよ。特に今週に入ってからは勝率が100%だ。もうそろそろ、敵の数を一人から複数人に増やしても良いかもしれない。」
「本当ですか⁈ありがとうございます!」
良かった。少しづつだけと、やっと認められるようになってきた。それが嬉しくて堪らなかった。
「ところでさ、なんでこんなに急に変わったの?なんか良い事あった?あ、もしかして例の彼氏君のおかげかなぁ?」
「ち、違います!それに、翼君とはフリですから!…まぁ、ちょっと訓練についての考え方を変えてみたんです…。それだけですよ。」
「ふーん。まぁ、調子がいいならそれで良いわ。明日からはホログラム増やして二対一での訓練をしてみましょう。」
「はい、よろしくお願いします。」
「え?委員会?」
訓練が様になって来た頃、HRが終わり、帰宅の準備をしていると、翼君が不機嫌な顔でまだ帰れないと告げてきた。
「ああ、いつのまにか体育委員になってたみたいでな…。体育祭の会議があるから出ろって言われてさ。」
「ああ、そっか。四月の委員会決めの時、翼君いなかったたから。確か運動神経良いからって体育委員にされてたね。」
「…くそ…、面倒な仕事を押し付けやがって…。任務で休んでさえなければ…。」
どうやら、夏休み明けに本格的に準備が始まる体育祭の準備の為、委員会での会議が行われるらしい。任務の為に休んでいた彼にとっては体育委員を押し付けられた感は否めないのだろう。
「三十分くらいで終わるから、悪いけど待っててくれないか。」
「え、いいよ。一人で帰るから。早く帰って訓練続けたいんだ。」
訓練の結果が上向いている今は少しでも訓練を重ねたい。それに、あの一件以降は特に亡者との接触はない。一人で帰ったとしても特に問題はないだろう。
「ダメだ。亡者に襲われでもしたらどうするんだ。」
「大丈夫だよ。力だってだいぶ使いこなせるようになってきたし…。今まで亡者と鉢合わせた事もないでしょ?」
「それもそうだけど…。でもな、サラー」
「結城ー、そろそろ始まるぞ。」
一人で帰れると言う私に翼君は食い下がろうとしたが、廊下から彼を呼ぶ声に遮られ、言葉を飲み込んだ。
「ほら、始まるって。早く行かなきゃ。」
「…なんかあったらすぐに電話しろよ!俺もなるべく早く終わらせて追いつくようにするから。いいな。」
私達のやり取りを見ている友人達が後ろでからかう声が聞こえてきた。正直、このやり取りは凄まじく恥ずかしい。
「分かったってば。」
私はそう言うと、翼君の背中を押して教室から出すと深く溜息をついた。まったく、付き合うって言ってもフリだと言うのに…、翼君の彼氏役の徹底ぶりは凄いものだ。見事に女の子が望む彼氏像を演じきっている。かと言ってベタベタし過ぎていなくて、然りげ無く隣にいて、適度な距離感と言うやつを良く分かっている。…まぁ、ほんの少し心配性過ぎる所もあるけれど…。おまけに文武両道、容姿端麗だ。正直、私の気が持たなそう。
「うーん…。完璧主義な性格なのかなぁ…。」
そんなほのかな疑問を抱きながら、私は帰路についたのだった。
一人で通学路を歩くのはあの日の事件以来だ。隣に翼君が必ずいる生活が長かったからか、一人でこの道を歩く事に対して少しづつ恐怖心が私の心に襲いかかっていた。心配してくれる翼君に、あんな自信満々で大丈夫だと豪語していたのに、情けない話だ。
「早く帰らなきゃ…。」
肥大していくばかりの恐怖心から逃げる様に、アジトへ向かう歩を早めようとすると、突然肩に何かが触れた。ひんやりとした感覚に思わず叫び声を上げて振り返ると、そこには真っ白な着物に身を包んだ黒髪の女の人が立っていた。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。そんなつもりじゃなかったんだけど…。」
どうやら、私の肩に触れたのはこの人のようだ。それにしても、本当に驚いた。音も気配も感じられなかった。まるだ幽霊みたいな人…。
「いえ、すみません…。こっちこそ大きな声出して…。それで…私になにか?」
「ええ。さっきこれを落としていったので。」
そう言って彼女が私に差し出したのは、紐の千切れたお守りだった。私の鞄に付けられていたのと同じモノだ。鞄を確認すると、あるはずの御守りがなく、千切れた紐だけがぶら下がっていた。
「あ、ほんとだ…。千切れちゃってる…。すみません。ありがとうございました。」
「いいえ、渡せて良かったわ。」
そう言って御守りを差し出す彼女にペコリと頭を下げると、私は無惨に紐の千切れたそれを受け取った。
それにしても、なんて不吉な切れ方なんだろう。千切れた箇所は特に劣化しているわけでもなく、まるで鋭利な刃物で切ったような切り口だった。
「なんだか不吉だな…。」
「不吉?それはどうかしら…。もしかしたら、貴女を悪いものから守ってくれたのかもしれないでしょう?」
気味悪がる私に、彼女は細く微笑みながら私にそう告げた。
「古来より、御守りというものは所持者に災いが降りかからないように守る魔除けとして使われていたの。魔除けが壊れた場合、それは所持者の身代わりになった事を表すのよ。きっと、この御守りは貴女を何かから守ったんじゃないかしら。」
そう饒舌に説明をする彼女の声に、私は思わず聴き入ってしまった。不思議な人だ。初対面だと言うのに耳も目も…全ての意識が彼女へと一点に向けられている。こんなの初めてだ。なんだろう…。すごく懐かしい…。
「…どうされました?私の顔に何か?」
「え?あ!ごめんなさい!そ…そうだったんですね。ずっと悪い事が起きる前触れだと思ってました。」
彼女の声で意識が全て持ってかれた状態から覚醒すると、私は誤魔化すように会話を続けた初対面の誰かと話して懐かしく感じるなんて、初めての経験で少し戸惑いはしたが、この時は特に気に留めはしなかった。
「御守りはそのまま大事に持ち歩いて大丈夫よ。不安なようなら年始に神社に返してお焚き上げしてもらうといいわ。」
「そうなんですね。ありがとうございます。…それにしても、お詳しいんですね。こういうの。」
「職業がらね。どうしても詳しくなってしまうの。それにしても、切れた御守りから繋がる縁なんて、なんだか運命的ね…。」
「え?あぁ…、そうですね。偶然に運命的な出逢いをするなんて事もありますからね。」
何の脈絡もなく運命だと告げられ、正直驚きを隠せなかった。普通、落し物を拾ったとしても、それ以上踏み込んでくる事はない。厄介な人に拾われたなと思いながら、私は当たり障りのない返事を返した。
「偶然…?可笑しなことを言うのね。偶然なんてありはしないのに…。この世界で起きる事は偶然ではなく、必然的に起きているのよ。」
しまった…。返事を失敗したかもしれない…。そう後悔した時にはもう遅く、完全に彼女のペースに嵌められていた。
「よくお聞きなさい。全ての事象には必ず意味が存在するの。私と貴女がここで出会った事も。…そうね…、例えば…死者が亡者と化すのも…。全てね…。」
「…え?」
「私はキリエというの。近い将来、きっとまた貴女と会う事になるわ。…その時に…またね、サラ…。」
最後にキリエと名乗ったその人は、真っ白な着物の袂を翻し、颯爽と立ち去ってしまった。私はというと、突然の事過ぎて頭の整理が付かず、その場で呆然と立ち尽くしていた。キリエは一体何者なんだろう。考えすぎだろうか…。彼女との会話の要所で、意味深な発言が目立った。何故…亡者の真理について触れたのか…。なによりー
「…なんで…私の名前…知ってるの…?」
とある退廃したビルへと、私は下駄の音を響かせながら入った。その廃ビルは、先日亡者達に占拠させた町の中心に建てられていた大手企業の本社ビルだったものだ。
そもそも亡者には、政府から指定された居住地区が存在していて、そこは人間の侵入は許されず、逆に人間達の生存領域に私達侵入する事は許されていなかった。しかし、一部の亡者達が『人間を捕食する』という潜在的に持ちあわせていた衝動に従い、レジスタンスとなって人間に反旗を翻した事によって、徐々に人間の活動領域を侵食し始め、今では各都市にこういったレジスタンスのアジトも作られていた。
「よぅ、お早いおかえりだな。計画の準備は上々かい?キリエ。」
「ええ。さっきはご苦労だったわね、大河。」
私をアジトで出迎えたのは顔に大きな腐敗痕を持った亡者だ。私が亡者の中から選び抜いた優秀な部下の一人だ。
「お安い御用だ。にしても…御守りの紐だけを切れだなんて、随分と回りくどい事を依頼するな。俺の力であのまま小娘ごと斬り刻んでやったのに。」
「あら、そんなのダメよ。彼女はまだ生かしておかないと…。今日は挨拶がてら会いに行っただけなんだから。それより、香苗を私の部屋に呼んでちょうだい。貴方達に話があるの。」
「わかった。」
大河にそう指示をすると、私は最上階にある社長室へと向かった。そこは現在は私と私のお人形の私室として使われていた。
「ただいま、まりあ。良い子にしてた?」
その人形はまりあという。人形といっても、生ける屍という意味だ。この子に心は存在していない。だから話す事も、感情を露わにする事はないのだ。いつもただ虚ろな瞳で虚無を見つめるだけ…。今だって私が帰ってきたというのに、私に見向きもせず、くまのぬいぐるみを抱いて椅子に腰掛けていた。
「これから大河と香苗に大事な話をするの。あなたもちゃんと聞いているのよ。」
私がそう言って頰を撫でると、まりあは返事をするようにゆっくりとまばたきをした。
「キリエ様、香苗です、」
暫くすると、扉の向こうから部下の声が響いた。部屋の中へ入るように促すと、大河と香苗が揃って入ってきた。すると、部屋に立ち込める亡者特有の死臭の密度が高くなり、私の鼻腔に広がった、。あぁ、なんて香しいのだろう。私の愛しい同胞であり…子供達の…美しき死の香りだ…。
「お待たせして申し訳ありません。御用件は何でしょうか。何なりとお申し付け下さい。」
そう言って頭を垂れる香苗という亡者は、誰よりも私に酔倒する忠義に熱い娘だ。恐らく、私が死ねと言えば喜んで命を捧げるだろう。私にとっては実に信頼の置ける部下だ。
「貴方達をここに呼んだのは他でもない…。遂に訪れた戦いの始まりを告げるためよ。期は熟したわ。古より迫害され続けていた私達の積年の憎しみを、今こそ人間共に思いらせるのよ。」
「遂にその時が来たのですね。これでやっと…積年の恨みも果たせますわ…。」
亡者はその存在故に、古来より人々に迫害された続けていた。近年になって平和条約が結ばれても、それは表面的だけで、実際は何も変わっていない。ここにいる香苗もその内の一人だ。私が彼女と出会った時は、とても酷い状態だった。だからこそ、彼女の人間への憎悪は並々ならぬものだ。
「まぁ、俺は恨みとかどうでもいいんだけどよ。…楽しませてくれるんだろう?殺し合いをさ…。」
「もちろん。」
其れに引き替え、大河は亡者化してすぐに私の下に就いた為、人間への憎悪は微塵も持ち合わせていなかった。彼がその胸に抱くのは、私への尊崇とサイコパス的欲求を如何に満たすかという事だけだ。私が出す命において、彼はその欲求を満たし、私は目的を果たす。実に良い利害関係だ。
「ひとまず、あの忌まわしき組織を潰す必要がありまうね。」
「…機関って…Metatoronか?」
大河の問いに香苗が頷くと、二人は眉を顰めた。
「奴らは厄介な敵ですわ…。奴らは私達亡者を模して特殊能力を持つ人間を作り出しています。何度同胞を奴らに殺されたことか…。」
「はっ!それはお互い様だろう?」
「なによ。えらく奴らの肩を持つのね。」
「本当の事だろうが。」
「くだらない事で言い争いはお辞めなさい。」
私が言い争いを始める二人を制すと、二人は口を噤み、互いの視線を逸らした。良い部下ではあるけれど、どうも香苗と大河はウマが合わないようだ。
「これからは私達の結束力が必要となるわ。上に立つ貴方達がそう仲が悪くては示しがつかないわ。…これからは今までような低レベルな争いとは比べ物にならない闘いになるでしょう。強力な力を持った仲間が必要となるわ。」
「それならばお任せください。この香苗が、各地におります腕利きの同胞達を集結させますわ。主命ですもの。皆喜んで力を貸すでしょう。」
「ならとっととおっ始めようぜ。早速俺は宣戦布告の計画でも立てるか。奴らの絶句した顔は見ものだぜ。」
優秀な部下達は私が命じるまでもなく、自ら計画の為に動き出した。確かに、大河の言う通りあの子達の驚嘆した顔は見ものだろう。さて…、その宣戦布告を受けて彼らはどう切り込んでくるかしら。
「キリエ様。奴ら…宣戦布告を受けて、人間との条約を守っている亡者達を襲うなんて事しないでしょうか。私、そこだけが心配で…。」
「…普通の亡者達が生活する地区への人間の介入は条例により禁止されているわ。貿易ですら間接的にしか行われない程よ。組織のトップの…あの男でも、余程のことがない限り条約を無視するような事はしないでしょう。もしもの時は…その時は皆を守るまでよ。」
そう答えると、香苗は安心したように顔を綻ばせた。
「さて、やる事は決まった。早速取り掛かるか。色々と準備出来たら連絡するぜ、キリエ。」
「大河!いい加減『様』をつけろ!それではキリエ様。私も行ってまいります。」
慌ただしく出て行く二人を見送ると、部屋は静けさを取り戻した。まりあへと視線を送ると、香苗と大河が部屋へ来る前と変わらず、人形のように椅子に座ったままだ。
「…これからが楽しみね、まりあ。貴女にも大事な仕事をしてもらうわ。いい働きを期待してるわよ。ふふふ…あっははは!…言ったでしょう、サラ。…偶然などありはしないと…。貴女を成形した事の全てが…意味を成し、必然的に起きた事なのだから…。全て筋書き通りだわ。…人類最初の亡者であるこの私の…。」
続く
ご拝読頂きありがとうございました。
タイトルをギリシャ語にすると、キリエ・エレイソンとなります。キリエさんの由来はこの言葉でしたので、タイトルに使ってみました。
キリエの登場により、今までのサラのグリゴール入門編は終了となります。
次章からはもうすこし深い所のお話となります。次章も楽しみにしていただけると幸いです。