第4章 覚醒
久しぶりの投稿となります。
ちょっと書けなかった時期があったので、グダグダと書いていつもより長くなってしまいました。
主人公がちょっとウジウジしてますが、私の書く作品の特徴でもあるのでご了承ください。
第四章 覚醒
「はぁ…疲れた。」
ジェイドさんによる組織内の案内を終え、私はあてがわれた部屋のベッドに勢い良く倒れ込んだ。あの後連れていかれた地下一階には食堂と大入浴場、職員の仮眠室があり、一階から三階まではグリゴールの住居エリアとなっている。部屋割りが変わっていて、最上階から順に部屋番号が振られていた。ちなみに私は三階の部屋だ。
部屋はトイレ・バス・キッチンが完備されていて、家具も生活雑貨も一通り揃っていた。衣装ダンスを覗けば女物も服もいくつか入っていて、私が入る前提で用意されていたのが予想出来た。
「だから部屋を決め打ちしてたのね…。人が気を失っているうちに…用意周到ね…。」
これからどうしよう。食事も色々な事がありすぎて喉を通りそうもない。それ以前に、なにもする気が起きず、私は一人用にしては広いベッドの上で縮こまった。明日から私の体は徹底的に調べ上げられるのだ。自分が知り得ない境界の向こうまで…。
「…どんな検査なんだろう…。」
怖い事もするのだろうか。体を切り開かれたり、変な薬を投与されたりするのだろうか…。葉さんや神居さんからは、そんな怪しい様子は見受けられない。とても人の良い人達だ。けれど、今までの人生で経験したことの無いような事だけに、不安だけが膨らんで良からぬ事を考えてしまっていた。いや…、この不安感は決してそれだけではない…。綾の死、自分の得体の知れぬ力、グリゴール…。そして、これからの亡者の闘い…。頭でも心でも処理しきれない出来事が津波のように私を呑み込んだのだ。ここまで退路を断たれては、私の進む道は変えることは出来ない。だから私は、竦むこの足を踏み出さなければならない。その覚悟も持った筈だったのに…。
「…ダメだなぁ…私…。」
脆い自分自身の覚悟を抱きしめるように、私は膝を抱えて縮こまると、長い夜を耐えるように過ごした。
眩しい光が顔を照らし、その眩しさに私はゆっくりと瞳を開いた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。遂に恐れていた日がやってきてしまった…。私は深いため息を着くと燦々と空を照らす太陽を睨みつけた。
暫くして、部屋のチャイム音が響いた。いよいよその時が来たと、私は重い足取りで入口へと向かった。
「おはよう、サラちゃん。昨晩はよく眠れたかな。」
ドアを開くと、そこには白衣を身に纏った葉さんが立っていた。後ろには研究員と思しき人達が待機していた。やはり実験の為の迎えが来たようだ。
「…正直、あまり眠れなかったです…。」
「昨日の一件もあったもの。無理ないわよ。大丈夫、今日は検査しかやらないから。程度も一般的な人間ドックレベルだから安心して。」
その言葉に、私はホッと息をついた。一先ず、心配していた様な事はされないようだ。
「早速で申し訳ないけど、大丈夫かな?」
検査開始を促してくる葉さんに、私は頷くと彼女の後に続いた。
連れてこられたのは、地下三階の一番外れにある部屋だった。この部屋も訓練室同様、顔認証システムが設置されていて、葉さんの顔を認証してその扉は開かれた。
「ここからはグリゴールのみんなは無断で入れないんだ。絶対研究所の職員か特務機関の幹部が同伴しなきゃならないの。機密事項も多いからね。」
研究所内は早朝にもかかわらず、多くの職員が忙しそうに行き来していた。一体どんな仕事内容なのか…全く見当がつかない。
「あんまりジロジロ見ない方がいいよ。」
「あ、すみません。機密事項とかあるんでしたもんね…。」
さり気無く釘を刺されてしまい、私は咄嗟に視線を下に逸らした。つい物珍しくて無遠慮に見てしまったが、情報漏洩すると問題になるものもあるという事をすっかり失念していた。
「まぁ、それもなんだけど。あんまりキョロキョロされちゃうと、君が見たくないものも見えちゃうかも知れないってことよ。例えば、亡者による殺害事件の犠牲者は一度此処に集められ、研究の為の検死を行ったりもするのよ。嫌でしょ、遺体見るの。」
その言葉に私は顔が青くなった。そうか…。そういう可能性もあるんだ…。死んだ人には申し訳ないが、確かに遺体を見ることには抵抗があった。だけど、一人だけ…。
「…綾の遺体も…ここに居るんですか?」
親友である綾には手を合わせたかった。本当は生きて会いたかった…。けれど、それが叶わない今、せめて死に顔だけでもと思ったのだ。
「…上条 綾さん?…彼女ならもう昨日のうちに検死を終えて、今頃ご遺族の所に返されてるわ。」
「…そう…ですか…。」
「…見なくて正解だったわ…。あんな姿…。」
綾に会えなかった事はとても残念だった。けれど、肩を落とす私にそう意味深に言う葉さんの悲痛な顔に、私はそのまま言葉を無くした。亡者に食い殺された身体は、それ程酷いものなのかと…。確かに、まだ見ぬその姿は今の私には想像がつかなかったが、映画に出る様な綺麗なものとは程遠いという事だけは理解しているつもりだった。今は「見なくて良い」で片付く話だが、結果によってはいつか私もその惨劇を目の当たりにする日がやってくる筈だ。そして、それに慣れなければいけない…。昨日誓ったこの脆い覚悟がそれに耐えられるだろうか…。そんな不安がまた募り出した。
「はい、ここ座って。まずは採血からね。」
葉さんにつれてこられた部屋の中央に置かれた簡素な机と椅子が置かれていた。私は椅子に腰掛けると右腕の袖をたくし上げた。彼女が行っていた通り、本当に健康診断や人間ドックのような検査だ。グリゴールであるかの検査だという事を忘れてしまいそうだ。腕に注射の針が刺さり、チクリとした痛みが腕に響いた。血が抜かれている間、お互い無言で…、私はその沈黙に耐えかねて当たり障りのない話題を懸命に考えた。
「…あ、あの…。普段皆さんは何をなさってるんですか?」
やっと絞り出されたのは、そんな話題だった。そんなこと聞いてどうするのかというような内容だが、沈黙が続くよりはずっと良かった。
「え?みんな?…そうだなぁ…、幹部はみんなそれなりに仕事があるから忙しいけど、ジェイドや零は好きなことしてるよ。時々出かけたり、訓練室に籠ってることもあるみたい。葵や翼は平日は学校があるから、ある意味忙しいんじゃないかな。」
そうか…。二人はまだ高校生だから学校行ってるのが当たり前か…。
「ん?学校……。あぁあああああ!」
私はある事を思い出して思わず声をあげて立ち上がった。咄嗟の行動だったが、注射針が既に抜けた後だった事は不幸中の幸いだ。いや、今問題になっているのはそんな事じゃない。あぁ…すっかり忘れていた。
「なになに、どうしたの?」
「わ…私、学校に何も連絡してなかった…。どうしよう…学校の存在がすっぽり抜けてて…。」
高校の授業は置いていかれたら一貫の終わりだ。無断欠席となると内申にも響く。養護施設を高校卒業と共に出たら私は自分の力だけで生きなければならない。こういった悪い印象を残すような事は非常にマズイのだ。
「あぁ、大丈夫大丈夫。そこん所は神居がしっかり根回ししてるわよ。…施設の園長さんを言いくるめたのと一緒…。君は亡者に襲われて大怪我を負って休学中って事にしてるから。それに、ノートくらい翼が取ってきてくれるでしょ。だから安心して。」
「ごめんね、言っとくの忘れてた」と、茶目っ気に言う葉さんに私は安心しつつも、別の意味で気が抜けてしまった。この人は良い意味でも悪い意味でも子供っぽい。大人としてきちっと仕事をこなす反面、お茶目な部分もよく顔を出す。特に自分の探究心には子供のような純粋さを持っているようだ。昨日会った私がわかるほど分かる程、亡者研究にご執心のようだ。それがマッドサイエンティストと云われる所以なのかも知れない。
「暫く学校いけないと思うけど、辛抱してね。君は今、非常に危険な存在なんだから。」
「危険…ですか?」
「そう。君の能力は未知数だ。亡者に狙われる可能性もあれば、その力で誰かを傷つける事もあるかもしれない。悪い言い方をすれば、我々としても亡者としても、君は危険因子なの。だから全てが分かるまで…、いや…、その力が制御できるまでは帰らせてあげることもできないし、外に出す事も出来ない。」
先程までの茶目っ気のある笑顔から、突然真面目な顔になってそう告げる葉さんに、私はただ頷くことしかできなかった。中途半端なままに比べたら、その方がずっと良い。自分の事なのに何も知らないのは辛いだけだ。自分の故郷も、親も知らぬ私にとっては、自分の事で分からない事があるのは酷く耐え難かった。
あれから様々な検査をさせられ、私は夕方になってやっと解放された。たかが検査とはいえ、疲労は溜まるものだ。私は部屋に戻るなり、昨日と同様に勢いよくベッドに倒れ込んだ。葉さん曰く、徹夜で調べて、明日の午後には結果が出せるとのことだ。明日には自分の力について何か分かるのだ。そう思うと明日が待ち遠しかった。
ふと、私は自分と共にベッドに投げ出されたカードケースを見つめた。これはは別れ際に葉さんから手渡されたものだ。中のカードには私の写真と名前が載っている。写真は学生書のものと同じで、最初に逢った時に身分を確認する名目で学生書を見られていたのをすぐに思い出した。なんというか…、ここの人達は抜け目ない人ばかりな気がする。葉さん曰く、これが此処での身分証になるそうだ。私のカードには「グリゴール」と記されていて、末尾にテプラシールで「(仮)」と貼られていた。中にはICタグが入っているそうだが、詳しくは教えてもらえなかった。いや、正確には葉さんの興味がその話題から私から採取したデータの解析に移っていて、充分な説明を受けられる状態じゃなかった。基本的には抜け目無いが、変な所はだいぶ抜けているようだ。
暫くすると、突然色んな緊張の糸が切れたせいか、私の腹の虫は途端に元気になりだした。
「…そういえば…お腹へっったな…。」
考えてみれば、昨夜から何も食べていなかった。とは言っても、部屋に完備された冷蔵庫にはミネラルウォーターが数本あるくらいだ。調味料はあっても肝心の食材が一切なかった。ふと、昨日案内された地下一階の食堂を思い出した。ジェイドさんにお茶を勧められたが、昨日はそれどころじゃなくて断ってしまったんだった。今思えば、あの時無理にでも誘いを受けておけばよかった。
「行ってみようかな…。ていうかお金いるのかな…。幾らくらいするんだろう…」
バイトは禁止されているから、私の所持金は施設から渡されるお小遣いだけだ。無駄遣いは禁物だった。食べに行くか、水だけで済ますべきか悩んでいると、チャイムの音が部屋に響き渡った。
「あれ、結城くん。」
「悪いな。今いいか?」
訪問者は結城くんだった。私が大丈夫だと告げると、結城くんはカバンから数冊のノートを出して私に差し出した。
「ノート。授業遅れたら困るだろ?貸してやるから復習しとけよ。」
「え、良いの?ありがとう!」
思い掛けない好意に、私は思わず頰が緩んだ。実は少し期待していた自分がいたのだけれど、実際こうやって手助けをしてくれる事はとてもありがたかった。
「クラスの奴ら、怪我したって聞いて心配してたぞ。」
そうか。学校では私は亡者に襲われて怪我したということになっているんだった。ズル休みではないが、心配してくれて嬉しい反面、嘘をついているのが少し申し訳なかった。
「検査はどうだった?」
「うん、思ってたよりも普通で安心した。明日のお昼ぐらいには結果も出るみたい。葉さんが張り切ってたよ。」
「そっか。…じゃあ俺、もう行くな。ノートは学校行くまでに返してくれれば良いから。」
「うん。本当にありがー」
もう一度きちんと結城君にお礼を言おうとした瞬間、私の腹の虫がタイミング悪くけたたましく鳴り響いた。自分でも聞いた事の無いほどの大きな音に、思わず私は声を失った。恥ずかしいっ…。絶対、今顔が真っ赤になってる。
「…ぶっ!はははははっ!おま…どんだけ腹減らせてるんだよ。」
結城君に爆笑され、顔から火が吹くのではないかと思った。なにもそんなに笑わなくても良いのに。
「だ、だって…昨日ここに来てから何も食べてなくて…。もう、そんなに笑わないでよ!」
「悪りぃ悪りぃ。でも、昨日も今朝も飯誘いに来たんだせ?なのに幾ら呼んでも出やしねぇ。」
「え⁈そうだったの…?ごめん…私…昨日は凄く疲れてて…全然気づかなかった。今朝も早くから葉さんに呼ばれちゃって…。」
まさか結城君が私を食事に誘いに来てくれていたなんて…。全然気が付かなかった。
「あぁ、いいよ。そしたらさ、今から一緒に食いに行くか?ついでに今日の授業の復習手伝ってやるよ。」
快く許してくれた結城君から、今度は願っても無い言葉をもらった。確かに、復習は一人でやるより今日の授業を一度聞いている結城君がいた方が捗るだろう。だけど、財布事情を考えると素直に首を縦に触れない。
「で…でも…。恥ずかしい話、あまり手持ちが…。」
恥を忍んで素直にそう言うと、結城君はきょとんと目を丸くさせていた。
「なんだ。お前聞いてないのか?」
「え…?なにを?」
「あぁ…成る程。そういう事か。とりあえずそこはあんまり気にしなくて良い。先に行ってるからお前もすぐ来いよ。あ、もらった身分証は忘れるなよ。」
結城君は一人で何か納得すると、私に食堂に来るように告げ、颯爽と立ち去ってしまった。彼はお金は気にしなくて良いと言ったが、正直不安しかない。そしてお金もない…。だからといって同級生に奢ってもらおうなんて安易に考えられない。私は腹を括って、勉強道具以外になけなしのお金が入った財布も持っていく事にした。
「あ、そうだ。」
結城君に言われた身分証も持っていかなければ。危うく忘れるところだった。ベッド投げ出されたままの身分証を手に取ると、果たしてなぜこれが必要なのかと思わず首を傾げた。
「ご飯食べるのにもグリゴールかそうじゃないかって重要なのかな…。」
「お待たせ。」
「おう」
支度を済ませて食堂へ向かうと、結城君は入り口のところで待ってくれていた。今まで挨拶程度しか話さなかったクラスメイトの男の子とこうやって待ち合わせるなんて、なんだか新鮮な感覚だ。
「じゃあ、まずは飯だな。メニュー見に行こうぜ。俺も腹減った。」
結城君はそう言って私の背中をポンと叩くと、壁に掛けられたメニューの方へと向かい、私は慌ててその後を追った。
電子版には豊富なメニューが表示されていて、食事に飢えていた私には酷く唆られるものばかりだった。しかし、その横に表示された金額が私を否応なしに現実へと引き戻して行った。別に決して高いわけではない。どれも千円未満で一般的には良心的な金額だ。けれど貧しい私にとってはそれでも高価にしか見えなかった。
「お前、これについて葉さんから殆ど話聞いてないだろう。」
目の前に身分証を突きつけられ、私は素直に頷いた。私の反応を見た結城君は「やっぱりな。」とため息をついてしまった。これが身分証以外のなんだというのだろう。
「実は俺たちグリゴールは、他の職員同様に賃金が与えられてる。亡者討伐も仕事だからな。それはグリゴールの可能性を秘めてるお前も同様だ。一応ここで生活する期間は日当が出るらしい。」
「え⁈それ本当⁈」
「ああ、神居からそう聞かされたぞ。」
これからの食生活がどうなるのだろうと不安になっていた矢先の朗報に、私は嬉しさを隠しきれなかった。恐らく検査や実験協力に対する賃金だろうけど、首の皮一枚がなんとか繋がった感じだ。
「ここは国公認の特殊軍事組織だからな。やっている事がグレーな分、福利厚生は他よりはしっかりしてるんだ。ちなみにこの施設内なら身分証のICタグをスキャンする事で組織で用意した個人口座から引き落とされて会計されるぞ。残高の確認できるから便利だぜ。ちなみに、一般企業の銀行口座だからカードを使えば外でも現金をおろせるんだ。」
成る程。簡単に言うとこの身分証はここでのクレジットカードになるらしい。この施設内での現金のやりとりは不要のようだ。
「じゃ…じゃあ…。」
「そう。お前のその薄っぺらい財布はここではお役御免ってことだ。」
結城君のその言葉に私は胸を撫で下ろした。正直、心配して損した気分だ。葉さんは研究材料を目の前に全部吹っ飛んだんだろうけど、出来る事なら忘れないで欲しかった。
「俺が神居さんと葉さんの話を側で偶然聞いてて良かったな。ほら、せっかく金の心配も無くなったんだ。早く飯にしようぜ。ここ、案外美味いんだ。」
そう結城君に背を押され、私は安心した気持ちで改めてメニューを見つめた。
食事をオーダーすると、料理は案外早く出てきた。結城君に教えてもらった通りに身分証を設置されていた機械にスキャンすると液晶に私の顔が表示された。機械にはカメラが取り付けられていて、それで撮影している映像を表示しているらしい。暫くすると、「顔認証OK。決済完了しました。」と音声が流れた。ちょっとしたハイテク技術を目の当たりにして、私は思わず「便利な世の中になってきたなぁ」と独り言ちた。
久しぶりの食事はサラダとスープが付いたオムライスのセットだ。食に飢えていた私にとってはかなりのご馳走で、その美味しさに思わず笑みが溢れた。
「にしても、驚いたよ。まさか神宮寺がここに来るなんて。」
「ほんとね。私もビックリした。」
こんな所で会うなんて、お互い夢にも思っていなかっただろう。それにしても、彼はどういう経緯でグリゴールになったんだろう。神居さんが言うには、身寄りがなかったり、致命的な障害を抱えた子供が覚醒薬を投与されるみたいだけど…。考えてみれば、私は彼のことをよく知らない…。少し休みがちで運動神経の良いクールなクラスメイトという勝手な印象だけしか、彼の情報は持ち合わせていなかった。
「ねぇ…聞いても良い?その…結城君がなんでここにいるのか…。」
私がそう恐る恐る聞くと、結城君はピタリと箸を止めた。あぁ、まずい質問だったのかもしれない…。
「あ…あの…。無理に聞きたいわけじゃなくて…。その…。」
「いや、いいよ。もうずっと前の話だし…。でも、今のお前には言わない。」
結城君の意外な予想外の回答に私は思わず目を伏せた。別に聞かれたくないわけではないのに教えてくれないなんて…。彼の『今の私』という言葉が心に引っかかった。やっぱりまだ不確定要素の多い私は信用ならないのかも…なんて、悪い事ばかりが頭を巡った。
「誤解するなよ。別にお前を信じてないとかそんなんじゃねから。ただ…、もしお前がグリゴールでなく一般人だった時、俺がお前を拒絶してしまいそうで怖いんだ…。お前はそんな奴だって思ってないけど…。きっと俺がお前との間に一線を引く…。」
真っ直ぐ切なげな目で結城君にそう見つめられ、私は顔中の血管が沸騰したように熱くなった。どうしてしまったんだろう。まるで大事な人に秘密を悟られたくないような言い方だ。今までこんな事を言い合う中じゃなかったのに…。むしろこんなに話したのが初めてなくらいだ。だけど、きっと彼の過去はそれほど複雑なんだろう。だからこそ私は、言葉を飾り立てずにただ本心を告げることにした。
「だ…大丈夫だよ!私、昨日今日で色々耐性付いたし!…私…過去なんかで人の人格を計ったりしないよ…。」
「…そうだな…。お前はそういう奴だよ。でも今はまだ言わない。…そうだな。恩義があるからここにいる…とだけ言っとくよ。いつか時が来たら、必ず言うから。」
結城君はそれだけ言うと、再び箸を口へと運び出した。これ以上詮索は良くないだろう。そう思い、私も食事を再開した。
「良いわねぇ、若いって。青春真っ盛りで羨ましいわ。」
しかし、突然真横から聞こえた声に、私はスプーンで掬ったオムライスをを口に含む前に、ぼとりと皿の上に落下させた。
「沙苗さん⁈い…いつからそこに…。」
いつのまにか私の隣に沙苗さんが座っていた。沙苗さんは少し考えてから「『にしても、驚いたよ。』あたりからかしら。」とにこやかに答えた。その答えに、結城君は「ほぼほぼ最初からじゃないか。」と小さくツッコミを入れていたが、むしろ私はそんな早くからここにいた事に驚いた。誰かが隣に座ったような気配なんて一切なかったのに…。なんとなく、この人も只者ではないんじゃないかと思わずにはいられなかった。
「盗み聞きなんて趣味悪いっスよ。」
「あら、人聞きの悪い。堂々と聞いてたんだから、盗み聞きじゃないわ。それにしても、あの翼君がねぇ。うふふふふ。」
「な…なんですか?」
「いいえ。…良く見てるのね、サラちゃんの事。」
「なっ!」
沙苗さんの言葉に、結城君と私は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。ちょっと待って。結城君が私を良く見てるってどう言う事?まぁ、確かに…元々の関係の割には私の事を良く分かってるような口振りだけど…。
「…違う…。違う!良く見てるって言うか…その…こいつはクラスで目立つから、だから自然と視線が行くっていうか…。」
「ふーん。ならそういう事にしといてあげるわ。私、もう行かないと。葉ちゃんにお夜食持って行かなきゃならないの。…サラちゃん。」
パタパタと手で顔を扇いで火照りを冷ましていると、さっきまでのおちゃらけたものでなく、少し改まった声で名を呼ばれ、私はその手を止めた。
「明日の結果、あなたにとっては運命が左右されるものかもしれないけど…、結果がどうあれ、私達はあなたをちゃんとサポートするわ。色んなことがあって少し怖いかもしれないけど…信じて。」
真っ直ぐな眼差しでそう告げられ、私は微笑んで「はい」と答えた。彼女のその眼差しは疑う余地などない程に透き通っている。だからだろうか。安心してそう答えることができた。
「良かった…。それじゃあ、私はもう行くわね。…翼君、頑張って。」
「なっ!だからっ…違うって!」
結城君の怒号を背に、沙苗さんは笑いながら行ってしまった。
「まったく…。…ち…違うからな。別に意識して見てたんじゃ…。」
そう弁解する結城君の頰は少し赤かった。大人っぽいイメージだったけど、ああやって頰を染めながら声を荒げる彼はなんだか可愛いくて、私は思わず笑みが込み上げた。
「…な…なんだよ。」
「ううん、別に。ただ…ちょっと期待したのにって思っただけ。」
悪戯っぽくそう告げると彼の頰は更に赤くなって、冗談抜きで期待してしまうところだった。
「もうこの話は良いだろ?早く飯食って授業の復習するぞ。」
「そうだった。ご教授お願いします。結城先生。」
「ああ、みっちり仕込んでやる。覚悟しとけよ。」
連日の亡者討伐の任が終わり、俺達は自室に戻る為に施設の長い廊下を歩いていた。俺も零も明日は久しぶりの休暇だ。それだけでこの時の俺の心は浮き足立っていた。そのせいか亡者との戦いの最中も、なんだか足取りが軽やかだった。
「なぁ、零。明日はお前もオフだろ?これから久しぶりにサシで呑まないか?近くに良い店見つけたんだ?」
絡むように零の細い肩を抱きながらそう言うと、零は振り払う事もせずに俺の顔を見つめ返した。零の大きく艶やかな黒目に自分の姿が映るだけで、俺は心の昂りを感じずにはいられなかった。自分でも至極単純な男だと思う程だ。
「これから?そうね、特段用もないし…別に良いけど。」
「まじ?やったね!」
「そのかわり、ジェイドの奢りね。」
ニヤリと笑みを浮かべながらそう言う零に、俺は「マジかよ、あまり飲みすぎないでくれよ。」と、苦笑いで返した。零は所謂、『ザル』というやつだ。いくら呑んでも全く酔わないのだ。俺自体も強い方だと自負しているのだが、いつも零を酔わせる前に俺がダウンしてしまう程だ。
「それで?どんな店なの?」
「結構洒落たバーなんだぜ。店内にはジャズが流れててさ、マスターが好みの酒を出してくれるんだ。」
「珍しい店選んだわね。そんなの柄じゃないじゃない。あんたも私も。」
「たまには良いだろう?」
危ない…。零に図星を突かれ、俺は冷や汗をかいた。確かに、そういったタイプの店はいつも選ばない。どちらかといえば、静かに呑むよりも騒ぎながら呑むほうが楽しいと思う。でもたまに二人で呑むときくらいはお洒落な大人の雰囲気漂う場所の方がロマンチックだとか思ったんだ。俺だって零の前ではカッコ良くありたい。
「嫌よ。第一に、こんな格好で行ったら場違いだわ。」
「ええー、行こうぜ。それに、服は俺が前にやったワンピースがあるだろう。まだ一回も着てくれてねぇじゃねぇか。」
前に一度だけ、俺は零に洋服をプレゼントしたことがあった。いつも動きやすいようにレザーのジャケットとホットパンツというスタイルだ。まぁ、ある意味色っぽいのだが…。でも、たまにはエレガントな姿も見たいと思って真っ黒な体のラインが綺麗に出るタイトスカートのワンピースを送ったのだ。
「嫌よ。好みじゃない。」
「そこをなんとか!今夜だけ!な?」
懇願するように手を合わせて頼み込むと、零は困ったように眉を顰めた。
「…一回着たら…満足する?」
「もちろん!」
「…一度だけよ…。」
観念したようにそう答えた零に、俺は感謝の言葉を告げながら彼女の細い体を抱きしめた。付き合いが長いせいか、零は少し俺に甘い。そこにつけ込んだのは自分でも些かズルイと思うが、この際致し方ない。
「準備するから少し時間くれる?」
零はするりと俺の腕からすり抜け、そう告げるとまた長い廊下を進み出した。
「分かった。一時間後に部屋に迎え行くよ。」
なんとか約束を取り付けて安心しきってると、突然一歩先を歩いていた零がピタリと歩みを止めた。
「零?」
「…ごめん…やっぱり今日はパス…。」
小さな声で俺にそう告げた零は、少し切なげな眼差しで前を真っ直ぐ見つめていた。その視線の先を追うと、ある人物がそこに立っていた。その人物を見た瞬間、俺は今回は諦めざるを得ないと…悔しいがそう思ってしまった。
―神崎 護―
この特務機関Metatron・日本支部の支部長を務めている男だ。どうやら長い海外出張からやっと戻ってきたようだ。この男と零の間には、俺すら張り込む余地のない絆があった。どんなに俺が彼女の傍にいても、二人だけが共有する事の出来る領域には居られない。
「…それじゃ…。おやすみ…。」
零はそう言って踵を返してその場から立ち去ってしまった。その腕を掴んで引き留めたいと…そう思ったのに…。思いの外、俺は意気地がないようだ…。寸でのところで自分の手を引っ込めてしまった。
「……くそっ…。」
「やぁ、おはよう!悪いねぇ。朝からまた呼び出して!」
翌日の朝、テンションの高い葉さんが突然私の部屋を訪れ、話があるからと別室へと呼び出された。目の下にはくっきりと濃い隈が浮き上がっていた。恐らく寝ていないんだろう。
「いえ…。話があるって事は…結果が出たんですが?」
「うん、終わったわよ!夢中になってやってたから思いの外早く終わったの。いやぁー、民間の施設よりも設備が充実してるとこういう時助かるねぇ。」
「…それで…結果は?」
「それは私から言えないわ。まぁ、着いてきてよ。」
恐る恐る私が結果を伺うと、葉さんからはそれだけしか答えは帰ってこなかった。暫くして、葉さんはとある部屋の前で立ち止まった。地下三階の一番際奥の部屋で、そこが幹部の執務室なのだという事はなんとなく察する事が出来た。葉さんは数回ノックをすると、「入るよ。」と一言告げると、重厚な扉をゆっくりと開いた。
「やぁ、待っていたよ。君が神宮寺サラ君だね。私は神崎 護。この特務機関Metatron・日本支部の支部長を務めている。」
日本支部の支部長だというこの人は、きっちりとスーツを着込み、部屋の中央に置かれた机に座していた。他の人達とは違って、彼と目があっただけで重苦しい威圧感が私を襲った。真意の見えぬ笑みが少し怖くて、私は思わずたじろんでしまった。
「神崎。あまり彼女を怖がらせないでくれ。」
すかさず側に立っていた神居さんが釘を刺したが、本人は特に悪びれもなく一言謝罪を入れると、また私を見て目を細めて微笑んだ。
「朝早く呼び出して申し訳なかった。」
「…いえ…。」
「今朝方、葉から君の検査結果を受け取ったよ。とても興味深い結果だった。こんな稀なケース見た事がない。…いや…、回りくどい言い方はやめて単刀直入に言おう。君は正真正銘、グリゴールだった。それも生まれつきの力だ。」
神崎さんの口から告げられた言葉は、半分は予想通りだった。信じたくなかったが、本能的にそう感じていた。けれど、私は正直亡者との接触し、何らかの作用が働いて力を得たのだと思っていた。だから生まれつきの力と言われたのは予想外だったのだ。
「生まれつきって…どういう事ですか?」
「サラちゃんの血液を調べた結果、亡者特有の遺伝子が含まれていたの。それは力を覚醒させたグリゴールと同じものよ。念のため、国内で管理されてる血液情報のデータベースも見てみたんだけど、君が施設に預けられた直後に行われた血液情報があってね。その頃のものと血液情報の差異は無かった。つまりは、あなたは生まれつきのグリゴールであるって事が証明されたんだ。」
葉から流暢に説明する内容は、私の思考を停止させるには十分だった。『生まれながらのグリゴール』だなんて…。生まれつき亡者と同じ遺伝子を持つ事などありえるのだろうか。他のグリゴールですら人工的に作られているというのに…。私は尚更、自分の出自がよく分からなくなった。はっきりと言える事は、まともに産まれた訳ではないという事だ。そして、嫌な思考が私の頭をグルグルと回り出した。私はー
「私は…亡者だなんて事ないですよね…。」
ぽろりとこぼれ落ちた私の言葉に、神崎さんは目を細め、葉さんと神居さんはきょとんとした顔をした。そして、すぐに葉さんの爆笑する声が部屋に響き渡った。
「なるほど!そう発想したか!安心してよ。貴女はちゃんとした人間よ。成長してるし、月経だってちゃんと来てるでしょ。」
「この間説明しただろう?亡者に生殖機能は無いと。それに、奴らの時は死んだ瞬間から止まるんだ。そして、体の一部が必ず腐敗している。君にそんな要素はないだろう?」
葉さんと神居さんにそう説明され、私はほっと胸を撫で下ろした。
「何故そう思ったんだい?」
「ふぇ?」
突然、神崎さんに予想外の事を問われ、私は思わず素っ頓狂な返事をした。その瞳は、ただ興味があって聞いているというよりも、もっと私の心理の根深いところを探ろうとしていて、私はどう答えるべきか少し悩んだ。少しだけ間を空けて、私はまとまりきらない言葉をゆっくりと吐き出した。
「あの…私…、自分がどこの誰で…何者かも分からないので…。もしかしたらグリゴールの子供で…、敵が何かの作戦の為に…意図的に人間の中に紛れ込ませたんじゃ…って…。あ、すみません!私変な事考えちゃって!」
「いや、良いんだよ。それに…なかなか面白い事を考えるんだな、君は…。」
ニヤリと怪しく微笑む神崎さんの笑みに、私は仄かな恐怖を覚えた。何を考えているのか、読めない笑みだ。そして何より、鋭く私を見つめる瞳が私自身の知らぬ部分を探られているようで怖かった。この人には、まだ心を開いてはならないと…。私は警戒を緩める事はなかった。
「サラ君の状態も分かった事だし、次のステップに進もう。一応、俺と葉でプランを考えてみたんだ。これならまだ実戦経験のない彼女でも問題ないと思うんだが…。」
神居さんがそう言って神崎さんへと書類を差し出すと、神崎さんは片手でそれを征し、相変わらずの瞳で私をじっと見つめていた。
「神崎?」
「神居。あくまでも私の仮説だが、グリゴールの能力とは、能力者の肉体が危険に晒された際に、無意識に防衛術として引き出されるのではないかと思うんだ。」
神崎さんは私の瞳から視線を外す事なく淡々とそう告げた。その言葉を聞いた瞬間、神居さんと葉さんは驚いたように神崎さんの顔を見つめた。私はというと、全く話についていけず、三人の顔を見ながらキョロキョロさせるしかなかった。
「ちょっと、それって!」
「神崎、それは少し急過ぎやしないか。戦闘なんて…まだ戦い方も分からないのに。」
「だからこそ良いんじゃないか。…サラ君、君には明日から訓練室での戦闘訓練を始めてもらうよ。」
思いも知らぬ言葉に、私は思わず目を見開いた。戦闘訓練なんて…神居さんが言うように、私は戦い方も武器の扱い方も分からないと言うのに。それに訓練って…、零さんやジェイドさんが戦ってたようなものでしょう?そんなのできないに決まってる!
「無理です!戦いなんて…私どうしたら良いのか…。」
「大丈夫だ。グリゴール候補生が戦うレベルに設定するし、もしもの時の為に医療班や技術班、それから零とジェイドの監視の元で行おう。相手はホログラムだ。死ぬ事はまず無い。では、神居、葉。その手筈で進めてくれ。これは決定事項だ。…さて…君の能力、とても楽しみにしているよ、サラ君。」
神崎さんは誰の声にも耳を貸さず、鶴の一声で私のグリゴールとしての今後の待遇を決定してしまったのだった。
唖然としたまま、私は葉さんと共に神崎さんの執務室を後にした。あまりの事態に私が口を閉ざしていると、葉さんは少し困ったように声を上げた。
「…いやぁ…困ったね…。神崎も突拍子も無い事をいうんだもん。サラちゃんも困っちゃったよねぇ!まぁ、候補生レベルの亡者のホログラムだから、そんなにビビんなくても大丈夫って!彼が言ったように死ぬ訳じゃない……―いや…、ごめん。怖いよね…。そりゃそうだ…。」
「…できるでしょうか…。私に…」
相手がホログラムとはいえ、けしてこれはゲームでは無い。色々な不安要素が私の頭の中をグルグルと巡っていた。私は零さんやジェイドさんのような身体能力もない。能力だって本当に出るのかも謎だ。
「そうね…。私が手伝える事は技術的なサポートだけど、提案する事はできるわ。とりあえず、サラちゃんは戦い方を覚える必要がある。突然だからきちんと身につくかどうか分からないけど…なにも知らないよりはいいでしょう?今日ならジェイドはオフだろうから、色々教えてくれるんじゃないかしら。」
葉さんにそう提案され、私は素直に頷くと、葉さんに手を引かれながら食堂へと向かった。葉さんが食堂内をキョロキョロと見回すと、隅の席で珈琲を啜るジェイドさんの姿を捉えた。
「おーい、ジェイドー。」
「…ん?あ…葉姐さん、サラちゃん。おはよう。」
少し覇気の無いジェイドさんの返事に、私と葉さんは思わず顔を見合わせた。いつもは元気いっぱいで、一緒にいるだけでこちらも元気にするような存在なのに、少し様子がおかしい。何か思い悩んだような…そんな感じがした。
「ちょっと、どうしたのよ。元気ないじゃない。」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事しててさ。…それより、どうしたんだ?」
「ちょっとジェイドに折り入ってお願いがあるんだ。」
葉さんがジェイドさんに今朝の神崎さんから言われた内容を簡単に伝えると、案の定ジェイドさんも驚いた声を発した。
「明日から戦闘訓練って…無謀にも程があるだろうが。あの人の考えてる事…俺よく分からねぇわ…。」
「でしょ?私もびっくり。だから今日、彼女に戦い方を教えてあげて欲しいの。可能な限りでいい。武器の使い方や攻撃の避け方とか、基本的な事を。」
「そうだな。それぐらいならお安い御用だ。ちょっくら厳しく行くけど、頑張ってくれよ。」
ジェイドさんはそう言って、私の頭をくしゃりと撫でてくれた。気が付くとジェイドさんもいつもの優しく穏やかな表情で、私は少し安堵した。
「はい、よろしくお願い致します。」
その後は無我夢中だった。ジェイドさんの訓練は丁寧だったけれど、流石は戦闘のスペシャリストだ。厳しく、そして的確に戦いのコツを支持され、初心者の私にとってはそれについて行くだけで精一杯だった。
「…明日からどうなっちゃうんだろう…。」
未だ私の中に居座り続ける不安感に苛まれながら、私は眠れぬ夜を過ごした。
そして、運命の日は訪れたー
『さぁ、記念すべき最初の訓練を始めようか。』
ステレオから流れる神崎さんの一声で、訓練には緊張した空気が流れた。私は一人、広い戦闘フロアに残り、手には一本のサバイバルナイフが握らされていた。管制室には神崎さん以外にも医療班や技術班の人が目を光らせていた。その視線が少し怖くて、私は思わず視線を逸らした。戦闘フロアに降りる前に、葉さんによって両方のこめかみに貼られたチップが気になって、思わず剥がしたい衝動に駆られたが、実験の際に必要だと言われていたので、弄るように触れるだけに留まった。話によると、ホログラムとの戦闘において、擬似的な痛覚を体に与えるものだそうだ。痛みを伴わなければならないというのが不安だが、痛みがあるからこそ実践に近い訓練になるのだと説明された。
『サラちゃん。こっちの準備はOKだよ。始めるけど、リラックスして頑張って。昨日ジェイドに教えてもらった事思い出しながらやれば大丈夫だから。』
葉さんの優しい声が私を落ち着かせようとしてくれていたが、サバイバルナイフを握る手の震えが止まる事はなかった。心臓が破裂してしまうのでは無いかと思う程、バクバクと煩いくらい鼓動していた。
暫くして、けたたましいブザーが鳴り響いた。そしてホログラムの亡者が現れ、私の顔を見るとニタリと怪しい笑みを浮かべた。その笑みに私は顔を青ざめた。それは初めて亡者に襲われた時の感覚と同じで、まるで地に足が食い込んでしまったかのように動けなくなってしまった。
亡者はすぐに隙だらけの私目掛けて飛び掛かってきた。亡者は腕を剣に変形させ、私の脳天目掛けてそれを振り下ろした。既の所でなんとか避ける事が出来たが、あまりの恐怖に私の戦意はどんどん削がれていった。
『サラちゃん!相手はホログラムだ!本物じゃない!怖がらずに立ち向かうんだ!』
ジェイドさんの声が聞こえたが、彼の指示が頭に入ってくる余裕は無かった。執拗に私を襲う亡者から逃げ惑う無様な自分に、私は心底自分が嫌になった。覚悟するだなんて…口先ばかりだったんだ。本当は覚悟なんて出来てない。グリゴールになるのも本当は嫌なんだ。自分の運命だとか…そんな簡単なもので片ずけて無理やり納得させるものではなかったんだ。
亡者の攻撃が当たる度に、こめかみに付けられたチップのせいで体に激しい痛みが走った。ホルグラム故に攻撃された箇所は傷ひとつ付いていないというのに、じくじくと本当に斬られたのではないかと思う程の痛みだ。
『実験を中止して!このままじゃ危険よ!』
『却下だ。実験は続行しろ。』
『神崎!無茶言わないで!』
管制室からはとめどなく誰かの怒号が煩いくらいに響いていた。けれど、亡者はいくら待っても消える事なく、絶えず私を攻撃し続けた。体の痛みが限界に達し、私は遂に床に膝をついてしまった。
「無理よ…。こんなの…。私…戦えない…。」
いつの間にか手にしていたナイフも私の手元を離れ、遥か遠くに投げ出されていた。今の私には闘うための武器も戦意も何も無くなってしまった。もう、亡者の手に落ちるだけだ。恐怖で震える手には止めどなく涙が滴り落ちた。
私はどうなってしまうんだろう…。とても怖い…。だけど…もう体が動かない…。全てを諦めるように、私は静かに瞳を閉じた。
「サラちゃん!」
頭上からジェイドさんの声が響き、その声の方へ視線を送ると、管制室から飛び出してナイフを構えたジェイドさんの姿が視界に入った。
「避けろ!」
「…え…?…!」
彼の叫び声と同時に自身の体に落ちた影に私は息を飲んだ。恐る恐る顔を上げると、私を追い詰めていた亡者が目の前に立ちはだかり、剣に変形させた腕を振り上げていた。『やられる』…と、そう思った時には既に遅く、今まで経験した事のない痛みと衝撃を受けて私の意識は遠のいていった。
けたたましいブザーが鳴り響き、管制室で待機をしていた医療班が慌ただしく戦闘フロアへと降りていった。耐久性ガラス越しに戦闘フロアを見下ろすとジェイドや沙苗が小娘を甲斐甲斐しく介抱していた。
「…やっぱりこんなものか…。」
思った通り、呆気ない終わり方だ。つい先日まで生温い世界で生きていたんだ。突然戦うなんて出来るわけがない。あの男も何を考えているのか…。
「なんで中止しさせてくれなかったの⁈今回は明らかに失敗よ!やっぱりもっとシュミレーションとか基礎的な訓練をしてからが妥当だったんだ!」
葉は今回の事に大分憤慨しているようだ。確かに、彼女が言うように一般的には戦いの基礎と亡者の戦闘パターンを頭に叩き込むのが先だ。私も物心着く頃にはそういった訓練を行なっていた。
「多少無理をさせる事も必要だよ。特に彼女は十七歳。幼少の頃から訓練を積んでいる他のグリゴールよりも飲み込みは遅いだろう。」
「だからって!これがトラウマになって彼女が戦う事を恐れたら元も子もないじゃない!」
「…零…。お前はどう思う?」
突然神崎から意見を求められ、私は思わず体をビクつかせた。何故私に意見を求めるのだ。出来るだけ関わらないようにしたかったのに…。
「……私は……あんたの意見が…正しいと思う…。」
この男に賛同なんてしたくなかったが、奴の言う事は至極真っ当だ、あの子に今必要なのは恐怖の先にあるものだ。だが、ホログラムごときでの戦闘訓練ではどうにもならない…。
「…ねぇ、次の訓練、私に任せてもらえる?」
「え?零が?なにするつもりなのよ。」
「さぁ…。見ててくれれば分かるわ。」
特に手を出すつもりはなかったのだが、あの程度でグリゴールになられたらこちらが困る。私達と同じ駒になるのであれば、それなりのレベルになって貰わなければいけない。
「…少し手荒にはなるけど……。さて…どれくらいの玉かしら…。」
瞼の向こうから微かに入る光に、私は意識を取り戻した。目を開くと見知らぬ天井が広がり、照明の明かりが酷く眩しくて目が眩んだ。ホログラムの亡者との戦闘訓練の後…私はどうしたんだっけ。思い出そうとすると頭が酷く痛んだ。
「…ここは…。」
「お、起きたか。ここは組織内にある病室だ。気分はどうだ?」
「…結城…君…。…あれ…私…。」
結城君の声が聞こえ、声の方へ顔を向けようとしたが、体がビクともしない。指先ひとつ動かす事もままならなかった。いったい私の体はどうしてしまったんだろう…。
「あぁ、体動かないか。それはホログラムの亡者との戦闘訓練のせいだ。こめかみにチップを貼っただろう?あれは脳神経に直接痛みを伝えるものなんだ。勝てば問題ないが、負けた場合は身体中の神経が麻痺する事があるんだ。でも二、三日でいつも通り動けるようになるから、安心しな。」
擬似的な痛みを与えるとは聞いていたが、まさかこんな体になるとは…。ジェイドさんが前に負けた時は大変だというのはこういう事だったのかと理解できた。
「私…、失敗したんだよね。」
そうだ…。私は戦う事も出来ずに戦闘訓練に失敗してしまったんだ。思い出しただけで情けない気持ちでいっぱいになった。せっかく昨日ジェイドさんに協力してもらって戦い方の基礎を教えてもらったのに、それも無駄にしてしまった。
「ああ…、話は葉さんから聞いたよ。俺も最初の戦闘訓練は上手くいかなかった。」
「でも…私みたいに無様に逃げ惑ったりなんかせずに…きっと戦えたんだよね…。」
「そうでもないぜ。まだ子供だったしな…。亡者に対しての恐怖心も強かった。…神宮寺。ここからがお前にとって、ある意味勝負になるぞ。」
結城君はいつもより少し低い声音で、私にそう呟いた。ある意味勝負になるとは…どういう意味なのか。彼の表情を見たくても、体が動かない為、それは叶わなかった。
「亡者に一度でも恐怖を覚えてしまったら、それはトラウマとして残る事がある。それを抱えて再び亡者に立ち向かう事が出来るようになるか…。それは自分自身との戦いで変わるんだ。」
「…自分の中の恐怖と…戦うって事?」
「ああ、俺や葵…戦いで散った仲間達も、みんな経験してきた。自分自身との戦いだからな…。手を貸してやることは出来ないけど…お前がグリゴールとしての人生を望んでいるのであればけして自分から逃げるな…。でも、強制されてここにいるのであれば無理することはない。しっかり体を寝ませながらゆっくりと考えてみろ。」
結城君は私にそう助言すると、任務があると行ってしまった。一人になって、私は結城君の言葉を思い返した。そもそも、私は何のためにここにいるのだろう。それすら曖昧な状態であると今更ながらに気づいてしまった。だからあの時、戦いながら後悔してしまったのだ。グリゴールになるという選択を…。確かに最初は自分の力について知りたいという思いからここに残ったが、昨日の検査結果が解ってからは言われるがままに戦闘訓練に臨んでしまった。
「見せかけの覚悟なんて…何の意味もなかった…。」
目が覚めてから二日程で結城君が言った通り体はきちんと動くようになった。結城君やジェイドさん達が代わる代わる見舞いに来てくれたが、その間も私の中での恐怖との戦いは続いていた。私はどうなりたいのだろう。本当にこのままグリゴールになってしまっていいのだろうか。まだなにか…結論を出す為のきっかけが足りないように思えて仕方なかった。
「入るわよ。」
もやもや悩んでいると、突然零さんが私の元へやってきた。彼女が私の所にやって来るなんて初めての事だ。
「体は動くようになったようね。」
「…はい…。」
「…浮かない顔ね。まぁ、どうせくだらない事でも考えてるんでしょ…。」
零さんは相変わらずの口調でそう言い放ち、その言い草に私は思わず目を顰めた。私の事をなにも解っていないくせに、「くだらない」なんて言葉で簡単に言わないでほしかった。
「あなたにとってくだらなくても…私にとっては大事な事なんです。あなたに言われた通りだった…。中途半端な見せかけだけの覚悟でなれるものじゃなかった。それに…戦う事が…亡者が怖い…。私は…自分がどうすればいいのかわからない…。」
頭の中がぐちゃぐちゃで言葉がまとまっていなかったが、私はつい怒りに任せて零さんへ心の中でもやもやしていた思いを吐露していた。きっと、呆れた顔して突き放されるだけだ。ただ不甲斐ない自分が情けなくて、私はベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。
「…あんたが抱えてるものは…考え抜いて出した答えなんかじゃ解決なんかしない…。戦いの場で野垂れ死ぬのが目に見えてるわ。」
「じゃあ…貴女は私にどうしろって言うんですか⁈」
まるで出口のない迷路に迷い込んでしまったようだ。生まれながらのグリゴールである以上、安易な気持ちでスタートに戻る事も出来ない。答えを求めてゴールへ向かおうとしても、色んな思いが行く手を阻むのだ。
「…知りたければ着いてくることね。」
零さんはそう言うと、病室から出て言ってしまった。彼女は何かこの迷路から脱する為の術を知っているのだろうか。その瞳には迷いは一切感じられなかった。
…知りたい…。私は…本当の自分を知りたい…。グリゴールの力を本当に持っているのか…。自分が何者なのか…。自分が…なにをするべきなのか。
その感情が芽生えた時、私の中の四方八方を壁で覆われていた迷路に、一つの道が現れた。その瞬間、気がつくと私は腕に付いた点滴の針を無理矢理引き抜き、裸足のまま零さんの後を追って病室を飛び出していた。ただ、本能のままに…。
零さんに連れて来られたのは訓練室だった。部屋に入った瞬間、恐怖が蘇り、手が震えだした。しかし、零さんはそんな私を気にもせず、下の戦闘フロアへと降りていってしまった。正直、とても逃げ出したい気分だ。でも、ここで逃げ出したら本当にダメになってしまう。そう思い、意を決して零さんの後を追いかけた。
「…なにをするんですか?」
「…そうね…。説明するよりも始めてしまった方が早いわ。」
零さんはそう言って、腰に手を回すと目にも止まらぬ速さでホルスターから銃を引き抜くと、私へと向けた。耳の鼓膜を引き裂くような激しい衝撃音がフロアに響き、私は呆然と立ち竦んだ。腕にピリッとした痛みを感じ、恐る恐る視線をやると、病衣が破れ、そこから真っ赤な血が流れ出していた。これは演習用の弾じゃない…。実弾だ…。
「言っとくけど、外れたんじゃなくて外してあげたんだからね…。さて、次はどうなるかしら…。」
「…どうして!きゃっ!」
零さんは話す間も無くまた銃を放った。まるで私を弄ぶかのように降り注ぐ弾丸に、私はまた逃げ惑うしかなかった。弾を掠める度、あの時のような疑似的な痛みではなく、本当の痛みが体に走った。どうしよう…このままじゃ…。
「いつまで逃げてるつもりなの?それでもグリゴールの端くれでしょう。私を殺す気で掛って来なさいよ。それとも、死にたいの?」
違う…。死にたくない…。でも…どうしたらいいのかわからない…。だって…。
「…戦うなんて…出来ない…。本当に力があるのかもわからないのに…。」
光で亡者を皆殺しにしたなんて…。そんな事実知らない…。零さんだってジェイドさんだって見てもいないのに…どうやって戦えというの⁈
「…それよ…。あんたが恐怖を乗り越えない限り…あんたが自分の力を信じない限り…、一生力なんて覚醒するわけないのよ!それはどんなに頭で考えたって答えなんて出てきやしない。そんなグリゴール、ただのお荷物でしかないの。選びなさい…。ここで私に撃ち殺されるか…、恐怖を乗り越えて、自分の奥底に眠る本当の力を信じるのか。」
零さんに叱咤され、私ははっとなった。私は…ここにきてから何を考えていただろう。自分の力を知りたいと…そう願ってはいたけれど、それを信じる事は決してなかった。この間の失敗だって…ただ恐怖を言い訳に逃げていただけだ。そんなんじゃ答えなんて見つかる筈ない。覚悟するとはそんな簡単なものじゃない。
「…賭けてみることね。あんたの本当の力に…。」
零さんはそう言うと、再び私へと銃口を向けた。今度は逃げる事なく、私は彼女の瞳をじっと見つめ返した。不思議な事にもう手は震えていなかった。
ああ、もう大丈夫だ。もう怖くはない…。信じよう…。この命に変えてでも…他の誰でもない、自分自身を…私の為に!
―パンッー
激しい銃声が鳴り響き、私は前へ手をかざしてギュッと目を閉じた。しかし、いくら待てども体に痛みは感じない。恐る恐る目を開くと、目の前には驚くべき光景が広がっていた。
「…光の…盾…。」
私の手から放たれた光は、眩い輝きを発しながら私の身を守る盾となっていた。零さんが放った弾丸は光の盾にめり込み、もう殺傷能力を失っていた。
「…やれば出来るじゃない。」
零さんの言葉に思わず手に込めた力を緩めると、弾丸はカランと音を立てて床へと落ちた。本当に止めたんだ…。私の力が…。そう呆然と自分の手を見つめていると、葉さんの声と共に慌ただしい足音がフロアに響いた。
「零!あんた私の許可無く何してるのよ!」
「なによ、私に任せろって言ったでしょ。」
「だからってねぇ!…サラちゃん、大丈夫⁈怪我してるじゃないか…。まさか、零がやったの?」
怒りを露わにしながら零さんを怒鳴る葉さんの白衣を、私は握りしめた。
「…出たんです…。私…光の力…。」
「…ちょっと、それ本当!」
見せて見せてと鼻息を荒くさせながら訴える葉さんの勢いに、私は後ずさりつつも小さく頷いた。リラックスさせる為、一度深呼吸をすると私は壁へ向けて手をかざした。なんとなく、出し方は分かっている。目を閉じると、自分の中で煌めく何かを感じる。これが本当の私の力なのだ。その力を解き放つように、私は力を込めた。すると翳した掌が光りだし、勢いよく放たれると頑丈な壁に焦げ跡を残した。
「うわぁ!すっごい!検査の結果通りだ!やったじゃない、サラちゃん!」
「いえ…私の力じゃなくて…零さんのおかげなんです。ありがとうございました。」
「別に…。賭けに勝ったのはあんたなんだから…。」
零さんに頭を下げてお礼を言うと、彼女は素っ気なく顔を逸らした。
『素晴らしい。上出来だよ、サラくん。』
スピーカから突然流れた神崎さんの声に視線をあげると、管制室からこちらを見下ろしていた。満足げなその顔は、自分の思い通りに進んだと言わんばかりだった。
医務室で簡単に手当てを済ませると、私はすぐに神崎さんの執務室へと呼ばれた。これから何を言われるか予想出来てしまっているせいか、少し憂鬱だった。力について知る事が分かった事は喜ばしいが、まだ結城君に言われた事に関しては答えは出ていなかった。これからグリゴールとしての人生を歩むのか、能力を活用せずに元の生活に戻るのか…。
「やぁ、怪我は大丈夫だったかい?」
「はい。擦り傷ですので。」
「単刀直入に言おう。先程の一件で君がグリゴールである事は証明されたわけだ。これからは保護対象から外れる事となる。君にはここへ残り、グリゴールとして力を貸して欲しい。」
案の定、神崎さんからはグリゴールになるようにと命じられた。私は思わず身を固くし、口をを噤んだが、神崎さんは書類にサインをしながら尚も話を続けた。
「正式に我が組織の人間となるわけだ。この数日間、この組織内から出る事を禁じていたが、晴れて自由の身だ。学校へも通っても構わない。あぁ、そうだ。君の住んでいた養護施設から引っ越してくる必要があるね。いつ君も出動があるかわからないからな。」
「待ってください!そんな…急に…。」
どんどん進んでいく話に、思わず私は声を上げた。もうこの人の中で私がグリゴールとなる事が決まっているような口ぶりだ。私が断るという事は考えないのだろうか。
「不服かい?」
「だって…まだ私…。」
「決心していないと?だが、考えてもみなさい。その生まれながらに持つその素晴らしい力を世のために活用しないでどうするというのだ。確かに、それ相応のリスクは生じるが…、なにより、君の中には既に『自分はグリゴールになるだろう』と感じている部分が存在しているんじゃないか?」
神崎さんに痛い所を突かれ、私はドキリとした。ここに来てからずっと感じていた漠然とした本能が、私がグリゴールであると…グリゴールになるべきだと叫んでいる。だからこそ、中途半端にできもしない覚悟をしようと思ってしまったのだ。全てが見透かされていて、私は動揺を隠し切れなかった。
「…では、改めて…。ようこそ、特務機関Metatornへ。神宮寺サラくん…。」
続く
いかがでしたでしょうか。
ちょっと詰め込み過ぎてしまいましたが、楽しんで頂けたのであれば幸いです。
また次回をお楽しみに!