第1話 命の恩人は鬼畜魔女様
まだ日が昇り始めたばかりの早朝、ひんやりと涼しい森の中で彼は両手に桶を持ちながら歩いていた。
その側には人の形をした紙がふわふわと漂い、彼の歩く速度に合わせて森の中を器用に進んでいる。
しばらく進むと彼の目に小さな小屋が見えてきた。
小屋の入り口に桶を置くと、側にあった空の桶を持ちまた水を汲むために小川へと足を運ぶ。
その道中でまるで彼を守るかのように、人形をした紙がくるくると森の中を見渡すかのように動き回りながら彼についていく。
往復を繰り返し水が十分な量貯まったところで、彼は小屋の中の台所に立ち1つの桶を使い料理をし始めた。
野菜や肉は彼の護衛担当の人形が台所へと持ってきてくれるので、その材料を見ながら彼は食材を切る。
料理は得意ではなく、レパートリーはかなり少ない上に味付けも微妙で、毎日家主に不味いと叱られるのだが。
それでもやらねば、不味いと文句言われる事が可愛いと思えるほどの目にあうことは身を以て知っている。
あぁでもないこうでもないと試行錯誤しながら、どうにか料理を作り終え、料理をを小さな居間のテーブルに置くと、次は洗濯物の入った桶を持って外に出る。
水をあまり無駄にしないように、慎重に洗い、干し終える頃には、陽は随分と昇ってきてしまっていた。
小屋の中に戻ると、すでに起きていたこの家の主人が、不機嫌そうな顔を隠さず彼を睨みつける。
「相変わらず不味いね。この下手くそ」
「す、すみません」
そう毎日言ってくるのだが、必ず全て完食してくれるその主人に、思わず彼は笑みを浮かべた。
すると、さらに顔を不機嫌にさせ、ふんっとそっぽを向く。
「何笑ってるんだい!あんたもさっさと食べないとまたご飯抜きだよ!」
「はい、いただきます」
そうして彼はようやく朝ご飯にありつけるのだ。
彼には記憶がない。
それが判明したのはドロシアが彼を拾った次の日のことだった。
まず、意識が戻った彼に、ドロシアは質問責めをした。
名前や住んでいた所、年齢や両親のこと。
今までどんな仕事をしていたのか、何があってこの森で倒れてたのか。
ドロシアは思いつく限り質問をしたが、彼からは一つも答えが返ってくることがなく。
ならばとステータスを開いて名前を確認しろと言うと、ステータスとは、と尋ねられ、ドロシアは溜息をつくしかなかった。
彼は常識から自分自身のことまで、全て忘れてしまっていたのだ。
「ステータスと心で念じてみな」
やれやれ、と言わんばかりにそう言われ、彼は首を捻りながらも実践する。
そして空中に表れたその表示に驚愕した後、顔を残念そうに歪めた。
「・・・よめないです」
まさかの答え。
それにはドロシアも苛立ちを隠せなくなったようで、声を荒げ始める。
「ステータスの文字は赤ん坊の頃から親に教わるもんだ!なぜ読めないんだい!!」
「す、すみません・・・」
彼にとっては全てが初めてのもので、思考はショートする寸前まできている。
が、そんなことは御構い無しとドロシアは文句を言いつづけ、彼がすっかり縮こまったところでまた溜息をついた。
よめないものは仕方がない。
ドロシアは彼の寝ているベッド傍の机から白紙とペンを取り出すと、彼に差し出してステータスの写しを書かせることにした。
彼はその紙とペンを受け取り、また文句を言われないようにと必死に写しを取り始めた。
「汚い字だね」
彼の写し終えたステータスを見た瞬間のドロシアのセリフである。
彼の文字はまるで子供のような酷い字体で、丁寧には書いてあるのは伺えるがお世辞にも綺麗な字とは言えない。
まぁステータスが読めない時点で分かっていたことなので、ドロシアはゆっくりとそれに目を通した。
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名前:
性別:男
種族:人間
年齢:16
LV:1
体力:22
魔力:41
筋力:18
敏捷:19
知力:26
精神:31
運命:68
スキル
成長補助lv1・旅人lv1・魔導才能lv3・言語翻訳
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「レベル1?16でかい?」
「はい?」
ドロシアはまず年齢に対してのレベルの低さに驚きを隠せなかった。
16にもなれば少なくとも10レベルくらいは到達しているのが普通であるにも関わらず、彼のレベルは1。
明らかに異常である。
そしてステータス。
ドロシアが記憶している限りでは、レベル1ではどのステータスも1桁だ。
しかし彼のステータスはどれも2桁であり、運命に関しては68という驚異的な数字だ。
レベルでは決して上がることがなく、高くても20程度がやっとだというのに。
そしてスキルに関しては4つのうち3つは初めて見るスキルだ。
ドロシアは、世界で数冊しかないスキル全典を持ち、それを全て頭に入れているが、そんなドロシアですら見たことのないものが3つだ。
しかも見たことのある1つ、魔導才能に関しては、魔術を使うものなら喉から手が出るほど欲しがる最高峰のスキルだ。
しかもlv3。
あまりの異常なステータスに何度も何度も同じ場所を読んでは、読み間違いではないのかと自分に問いかける。
暫くその紙から目を離さないドロシアに、彼は恐る恐る声をかけた。
「あの・・・、名前、わかりましたか?」
「ん?」
すっかり忘れていた。
暫く沈黙が続いた後、ドロシアは大きく咳払いをして彼に向き合った。
「あんたに名前はないみたいだね。適当に名乗ったらどうだい」
「名前が、ない」
名前がない。
その言葉が彼の心に突き刺さる。
名前とは両親が産まれてきた子に必ずつけるものと彼は記憶している。
だというのに、自分には名前すら存在しない。
では今までなんと呼ばれて生きてきたのだろうか。
一人、だったのだろうか。
名前すら呼んでもらえないような、そんな環境にいたのだろうか。
心にぐるぐると冷たい風が吹き抜ける。
どうして、どうして、どうして。
やり場のない、答えのない疑問が彼の心に表れては更に心に棘を刺していく。
「ふん。決まらないならルディアとでも名乗るんだね」
そのドロシアの言葉に、冷たい風がぴたりとやんだ。
(ルディア。それがこれからの、俺の名前・・・?)
それはほんの少し温かみを持つ波紋。
それが徐々に心に広がり、彼は嬉しくなった。
(ルディア、ルディア。それが俺の名前)
顔にほんの少し笑みが浮かび、ドロシアはそれを見て肩をほっと下ろした。
今のは失言だった。
ドロシアは表情を凍らせたルディアを見て、内心焦った。
記憶がないということは、想像以上に心に負担がかかる。
誰よりも自分を疑い、誰よりも自分を不審に思い、そして誰よりも自分を責める。
これまでの人生で見てきた中で、どんな人間も記憶を失うと心にヒビが入る。
分かっていたはずなのに、ドロシアは彼を責め立てるような発言をしてしまった。
自身の口が非常に悪いことは理解しているが、心を壊したくてそんな話し方をしているわけではない。
取り敢えず、何とか心が壊れることは防げたみたいだ。
そうドロシアは判断すると、ルディアに向き合う。
「あんたね、ひどく弱ってたの」
「・・・はい?」
「何かの病気持ちだったみたいだね。そのままいけば死んでたのをとーーってもっ、高級な薬を使って治してあげたのさ」
ルディアは顔を青くさせて喉を鳴らした。
ドロシアはとても笑顔なのに、なぜか物凄く嫌な予感がする。
「もう一生手に入らないかもしれない薬をねぇ、かわいそーなあんたに使ってあげたんだよ?」
「は、はい」
「一生、働いて返してもらうよ」
そのドロシアの言葉に、ルディアはついに気を失った。