さっちゃんと源爺
早矢香がそのまましばらく軒先で本を読んでいると、誰かが近づいてくる気配がした。本から視線を上げると、目の前にセルロイドの丸渕の眼鏡をかけた青年が早矢香の顔をのぞき込んできた。
「さっちゃん。昔はこんなに小さかったのに大きくなったなぁ。それにやっぱり思った通り美人さんになった」
その青年は学生のようなのだが、服装を見るとどこか今風ではなかった。学生帽に詰め襟の制服という出で立ちだった。
もしかしてと思って青年の足下をよく見ると、普通ならあって当たり前の影法師が全くなかった。「やっぱり」と早矢香は思った。この青年は間違いなく誰かの幽霊だ。人は幽霊になると自分の一番幸せだった頃の姿になる。だから幽霊が誰だか解らないことも多い。
「あなた、誰」
早矢香がそう問いかけると青年はにこやかにほほえみながら答えた。
「やっぱり、さっちゃんには、わしの姿が見えるんだな。この格好じゃあ解らなくてもしょうがないな。向かいの家の源爺だよ」
源爺と言えば、今年確かちょうど百歳になったはずだ。ただこの数年間は寝たきりになっていると大人たちが話していた。源爺がまだ元気だったころ、おばあちゃんに連れられて家に遊びに行ったことが度々あった。
「源爺、死んじゃったんだね」
「ああ、ついさっき死んだみたいだ。家族のみんなはどこかほっとした顔をしていたよ。無理もないな。ここしばらく寝たきりでみんなに苦労をかけたからな」
源爺は複雑な表情を浮かべた。早矢香は話題を変えた。
「源爺、よく私が幽霊が見えるってわかったね」
「さっちゃんにはどこか他の人と違う雰囲気があるんだよ。そういえば、死んだおまえのばあちゃんも幽霊が見えるみたいだったな。さっちゃんは、ばあちゃんに似たんだな」
早矢香は幼かった頃のことを鮮明に思い出した。
まだ、早矢香が五歳くらいの頃だっただろうか、おばあちゃんと一緒にお散歩していると、早矢香に言った。
「さっちゃん、あの青い服を着た女の人が見えるかい」
早矢香は頷いた。おばあちゃんは女の人の足下を指さした。
「こんな良い天気なのに、影法師が無いだろう。そういう人は幽霊なんだよ」
「幽霊、怖い」
早矢香はおばあちゃんの足下にしがみついた。
「大丈夫、怖くなんて無いよ。あの人は困っているだけさ」
おばあちゃんは早矢香の手を引き、女の人の元へ向かって声をかけた。
「どうかなされましたか」
「私が見えるんですか。私、ここで車にひかれて死んでしまって、どうしたら良いか解らなくて」
近くの電信柱の根元には近所の人が供えたのか、花が手向けられていた。
「ご家族や大事な方は供養をなさってくれないのかい」
「両親を早くに亡くして、天涯孤独の身なんです」
「それじゃあ、私たちが代わりに祈ってあげよう。さっちゃんもこのお姉さんが天国に行けるようにって目をつぶってお祈りしなさい」
早矢香とおばあちゃんは目をつぶり、手を合わせ、祈りを捧げた。しばらくして、目を開けると女の人の姿は消えて無くなっていた。
「さっちゃん、よく覚えておくんだよ。これから先もきっと幽霊達と出会う、そういう運命に生まれたんだよ、だからね、行き場がわからない幽霊を見つけたら、話を聞いてあげなさい。必ず天国に行く方法があるから。この事は、さっちゃんとおばあちゃんとの秘密だよ。指切りしようね」
その後も、おばあちゃんは、折に触れて早矢香に幽霊についていろいろなことを教えてくれた。
早矢香は源爺の目を見て言った。
「源爺、家族のみんなに最後のお別れを言った方がいいよ、姿が見えなくても、声が届かなくても想いは伝わるから」
「ああ、そうするつもりだよ」
源爺はにっこりと笑った。
「さっちゃん、そろそろご飯にしようか」
おじさんが早矢香を呼ぶ声が居間の方からした。
「さっちゃん、行きなさい。わしはそろそろ帰るよ。しばらくぶりに出歩いたらあたりの様子も大分変わっておった」
「じゃあね、源爺」
源爺の姿は夏のまだ明るい夕空の下、向かいの家へと消えていった。
「さっちゃん、これも食べなさい」
おばさんが小皿にのった夏野菜の漬け物を勧めてくれた。早矢香は箸で皿をひょいとたぐり寄せると、「早矢香。マナーが悪いでしょ」とお母さんに注意された。
「姉さん。まあ、いいじゃないか。別によそ様の前でやった訳じゃないんだし」
おじさんが言った。
おじさん夫婦には子供がいない。だから早矢香はおじさん達から実の娘のように扱われている。
夕食も取り終えた頃、家の電話が鳴った。おじさんが電話を受けてしばらくして居間に戻ってくると、ため息をついてから口を開いた。
「向かいの源爺が死んだってさ」
「源爺ってお義母さんのいとこだったわよね。お葬式はどうするの」
おばさんがおじさんに尋ねた。
「もう、親しい友人もみんな亡くなってるから家族だけの密葬にするって言ってたよ」
「少し昔なら、大きなお葬式をあげただろうにね」
「時代の流れってやつだよ」
おじさんは自分に言い聞かせるように言った。
「早矢香、向かいの源爺のこと覚えてるかい」
お母さんが早矢香に尋ねた。早矢香は「さっき合って、話もしたし」と言うわけにもいかずに「うーん、何となく覚えてるかな」とお茶を濁した。
「源爺が元気だったのって、まださっちゃんが小さな頃だものな。覚えていなくて無理もないさ」
おじさんが笑った。
「源爺が『さっちゃんはきっと美人さんになる』なんて言ってたって、お義母さんがよく言ってたわ」
おばさんも昔を思い出し笑った。
「葬儀が終わったら、俺が代表して源爺に線香をあげに行ってくるよ」
おじさんがそう言うと、おばさんは「それがいいわ」と返した。