契約更新
郵便ポストに入っていた一通の封書をみて、思わずため息がでた。
「あー……もうそんな時期か」
なんてことはない。ただの賃貸更新確認通知だ。
「ああ、この時期なのか」
部屋に放り出したままの封書を見て、夏目さん……いや、秀人さんは呟いた。
付き合い始めて半年、ようやく名前で呼んでも挙動不審にならなくなってきたところだ。普通逆でしょう? と思ったことがないとは言わないけれど、そんなところも含めて秀人さんさんだから。
同じ不動産会社を通して賃貸契約しているので、封書の中身をみなくても内容はお見通しだ。
「そうなんですよ」
さっさと更新手続きをしてしまおう。こういうのは余裕があるから、と後回しにしているとあっという間に期限がやってくるから。
でもまずは食事の支度から。
基本は秀人さんの部屋でご飯を作るのだけど、珍しく今日はうちだ。理由は簡単で、秀人さんのところの鍋はおでんを仕込中だから。味しみしみの方が美味しいよね! ってことで一晩ねかせている。夏におでんは合わない? いやいや冷房をきかせた部屋で、アツアツのおでんを食べるのは幸せなのだ。明日が楽しみ。
明日がおでんなので、今日のお昼は夏らしく冷製パスタだ。もちろんそれだけでは秀人さんの胃袋は満足しないので、おかずにチキンのハーブソテーを作った。
食後にのんびりお喋りしている途中で、封書が秀人さんの目についたようだ。
「……どうするんだ?」
「どうって……更新するに決まってるじゃないですか」
更新せずに引越したら、秀人さんと離れてしまう。それは嫌だ。更新する、しか選択肢はないはずなのにどうして聞くのだろう。私が更新しなくてもいいのかな、とまでは思わないけれど。いや、思いたくないけれど。
「あー……そうか。そうだよな」
秀人さんは何か言いたそうに、でも言わずに視線をそらした。
もしかして、秀人さんは次の更新前に引っ越すつもりがあるのだろうか。
「秀人さん?」
「いや、なんでもない」
どこからどう見ても、何かありそうな態度だった。
なんだろう。少し引っかかる。いっそのこと凄く引っかかるなら聞いてしまえるのに。
「いち。更新せずに同棲したいなーって思ってたけれど、圭が更新して当然ですが何か、だったので言えなかった。……に。プロポーズしようと思ってたけれど以下略。さん。その他」
「さんが適当すぎる」
いつものごとくのランチタイム。新婚さんな恵美に「ため息ついて何悩んでるの」から誘導されて、週末の秀人さんの様子がおかしかったことを話したのだ。愚痴でも相談でもなく、こんなことがあって、レベルの話。
それを聞いた恵美は数秒考えてからさっきの三つ(……三か?)の候補をあげたのだ。
「で、圭はどれだと思うの? もしくはどれだったらいいなぁ、とか」
雑な選択肢への苦情はあっさりとスルーされてしまった。特に追及したいわけでもないからいいけどね。
例えば一だったら。あるいは二だったら。(三は論外。)それを言われたらどう感じるだろうか。
「……どれも微妙」
「へぇ。なんか意外」
「どうして?」
んー、と恵美は少し考えてから言った。
「せめて一だったら有かな、とか。だって一人より二人の方が家賃の負担も、水道ガス光熱費も安くなるのよ。今だってゼロ秒な距離で住んでるんだし、週の半分以上夕飯一緒に食べてるんでしょう。だったら、いっそ一緒に暮らせばいいのに」
恵美の言うことは一理ある。お金のことだけ考えたら、同棲も有なんだろう。でも……。
「結婚しないのに一緒に住むのはちょっと……」
呟いてから、恵美のところは入籍前に長く同棲していたのだったと思いだす。
「あの、恵美たちは幼馴染で、相手の家族のことも知ってて家族ぐるみのお付き合いしていたでしょう。だから有だと思うの。でも、私たちって、知り合って半年ぐらいの付き合いだし相手の家族にも会ったことないし……」
恵美たちと、私たちでは前提が違う。
「最近はお試し同棲って話も聞くわよ?」
「でも私にはあわないから」
「そっか」
恵美は柔らかくほほ笑んだ。
結婚してから、恵美の雰囲気は柔らかくなった。
「えっと?」
「ううん、圭らしいなって思って」
どこが私らしいのかよく分からない。
「人は人、自分は自分。他人の意見は否定しないけれど、だからといって自分をまげないところかな」
恵美さんや。それは褒め言葉なのでしょうか。頑固って言われてるような気がするんですが。いいけどね。
会議室の机に突っ伏しかけて、やめた。化粧がおちる。
「……秀人さん、引越するのかなぁ」
「聞いてみたらいいのに。ここで推測したところで、正解かどうかなんて分からないんだし」
正論すぎる。正論は、時々痛い。
「うん……そうね」
別に秀人さんから聞いてくれるなオーラが出されたり、言葉を濁されたりした訳ではない。
恵美の言う通り、気になるんだったら聞けばいいのだ。
どうしても気になる、気になって夜も眠れない、ではないから次に会った時にでも聞いてみようかな。
……そう決めたのに。
タイミングが悪く、秀人さんの仕事でトラブルが発生したとかでしばらく夕飯は別、と連絡がきた。もしかしたら週末も休日出勤になるかもしれないとか。自分のことは気にせず予定をいれてくれとも。
早く帰れる日もあるけれど、当日の夕方にならないと分からないそうだ。残業になる場合、夕食は職場で食べると聞いて、どうせコンビニ弁当が多いだろうから体に悪いのに、と心配になった。
二日に一度は会っていただけに、途端に会えなくなると寂しい。
一度、帰宅する音は聞いた。そろそろ日付もかわろうかという時間でこっちはパジャマだったので顔を見ることは出来なかった。ただ『おかえりなさい』とメールだけは打った。すぐに『ただいま』と返ってきたのが、嬉しかった。
なまじ住んでいる場所が近いだけに、毎日意識してしまう。
さすがに毎日足音チェックしているわけではないけれど、なんだかストーカーじみてないだろうか。いやいや、心配してるだけだから大丈夫。……の、はず。
それにしても。
「秀人さん成分が足りない」
ベッドに寝転がりながら呟く。
結婚して、雰囲気も言動も柔らかくなった恵美だけど、さすがにこれは言えなかった。言ったら、呆れられる自信がある。「サプリメントじゃないんだから」とか言われそうだけど……サプリメントに近いかもしれない。元気のでるサプリ。
とりとめなく考えていたら、携帯が着信を告げて……しかもそれが秀人さんからだったので、ドキっとした。
「も、もしもし」
「いきなりで悪い。あのさ、今って、部屋にいるか?」
久しぶりに声が聞けた! と浮かれる前に、やけに慌てた声が届いた。
「います、けど」
今は夜の九時だ。花金(死語)なので、飲みに行く選択肢もあったけれど、恵美を独占するのは三宅さん(って、恵美も『三宅さん』になったんだった)に悪いし、そんな気持ちにもなれなかったので大人しく帰宅したのだ。
もしかして、今日は早く帰れそうだから、という話かな。だったらいいな。
「もう少ししたらうちの前で騒ぐかもしれない女がいるけど、相手にしなくていいから!」
浮かれる気持ちに、冷水がかけられた。
焦っているのだろう。いつもより早口で伝えられた内容は欠片ほども予想したものではなくて。
「放っておけば帰るかもしれないし、しつこく粘るかもしれないけど、とにかく圭は近づかないでくれ」
「……秀人、さん」
「あの女に関わるとロクなことに」
「一応確認なんですけど。私たちってお付き合いしてるんですよね?」
秀人さんの言葉を遮って問う。淡々とした口調にひるむ気配が伝わってきた。
「も、もちろん」
「だったら。普通に考えてみてください。お付き合いしてる人のところに訳ありな女性がやってくるって聞いて、無視出来る女はいません」
「……女? あ、いや、そういうんじゃなくて」
少し間があった。
じゃあどうだというの。
今まで一度たりとも秀人さんの周りに女性の気配はなかった。そもそも私たちが交流を持つきっかけになった事情からして、秀人さんに親しい女性がいないからこそだった。私はそれに甘えていたのだろうか。
「大丈夫です、私たちお互いにいい年した大人ですから、過去にお付き合いした人の一人や二人いて当然です」
だとしても、存在をにおわせないで欲しかった、というのは甘えだろうか。
ああ、でも私は男運が悪いとか言ってたから、お前が言うなのブーメランでしかないか。ちょっとだけ過去の自分を呪いたくなった。
「ただ、ちょっと、綺麗に別れておいてほしかったなっていうか」
「違うから!」
どう違うんですかー、って聞こうとしてさすがにみっともなくてやめた。
「そういうんじゃなくて」
二度めの『そういうのじゃない』だ。だからどういうのなのってば。
「姉なんだよ!」
「…………………………………………は?」
予想外の単語に、頭が真っ白になった。
お姉さま?




