9.一方その頃。
残酷な表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
それから、念のために。
エリュレアール → エル殿下
カークラント → カクさん
スケイアス → スケさん
カーヤと分かれシューミナルケア帝国の城へ帰還の途についていたエリュレアールは、隣国との国境に建設された要塞の正門に到着したところ、その場がいつも以上に騒々しいことに、訝しげに眉を寄せた。
普段は隣国からの商人や観光客、冒険者などでごった返しているはずの正門前の広場には、多くの兵士が集まり、軍馬や物資の乗せられた馬車が止められており、騒々しく行き交う兵士に、何事か問題が起きているのだと察せられる。足早にそばを通り過ぎる兵士を引き止めて事情を聞くも、まだ状況が説明されていないようで、自国の皇太子の姿に恐縮するばかりで何が起きているのか全く分からなかった。
ならばと城塞の司令室を訪ね、司令官に話を聞いたところ、国境近くの村を魔物が襲っているのだという。この城塞に居るのは仮にも辺境に位置する国境を守る兵士達であるので、他国の兵士やこの周辺にいる魔物を倒せるくらいの力量は持っている。そんな兵士達をしても未だに倒せていないほど、それは凶暴で強力な、しかも今まで見たことも聞いたことも無いような魔物だという。
その報せに、エリュレアールは自らも魔物討伐に向かう旨を司令官に伝えた。しかし、エリュレアールよりもずいぶんと年上で、長いことこの要塞を守り続けてきた老練の軍人である司令官は、相手の魔物が何ものであるかもよく掴めていない危険な場所へ皇太子が行くことを反対した。
けれど、エリュレアールは自らが光の属性を持っていることから、他の魔術師や兵達が苦戦する魔物でも、何とか対抗できるのではないかと主張した。何より国境の村が襲われている以上、一刻も早くその魔物を倒すなり追い払うなりする必要があるだろうと。
結果として、司令官はエリュレアールの説得に苦渋の思いで応じ、魔物の討伐隊に彼とその護衛達が加わることとなった。皇子自身も光属性の魔術に加え、剣の腕も国軍の上位に入るほどの腕前である。また、彼を護衛するカークラントやスケイアスをはじめとする近衛騎士達も、少数で皇子の身を守るためかなりの精鋭ぞろいであった。
そんな彼らが共に向かうことに、要塞の兵士達は羨望に目を輝かせ、またその心強さに安堵していた。
しかし、二百名ほどの兵士を連れて、魔物が現れたという国境付近の村に来たエリュレアールらは、その現状に驚きを隠せなかった。
所々破壊された村を囲む柵に、無残な残骸と成り果てている数件の家屋、他の潰れてはいない家も屋根や壁の一部が崩れ落ち家の内部が丸見えだった。村の傍にある畑は踏み荒らされ、土まみれになり折れ砕かれた農作物がそこかしこに転がっている。村の所々の地面は、大きなハンマーに強力な力で打ち叩かれたように陥没し、飛び散った血で変色していた。すでに村の住民の避難は済んでいるらしく、見回した限り、魔物とそれに立ち向かう武装した兵士の姿しか見えなかった。
そんな中、剣や槍を構えた兵士達が対峙していたのは、三メートルを超える大きな筋肉質の体に、真っ赤に血走った眼、口から鋭く突き出した牙は血に濡れ、その巨体を振り回しては周囲の兵を吹き飛ばしている、巨大なゴリラのような魔物だった。その全身の筋肉は軋むように盛り上がり、時折大きな口を開けては、耳を塞ぎたくなるほどの狂った咆哮を響かせる。だが、何より異質だったのが、影のように真っ黒な肢体と、その体からボコボコといくつも突き出す奇妙な形の瘤だった。まるでそれ自体が生きているかのように、時折全身をぎょろぎょろと動き回る瘤は、見る者に恐怖心を植え付けるほど奇妙で醜悪だ。もしこの場にカーヤがいたならば、魔物の全身に纏わりつく黒く凝った瘴気が見えたであろう。
そんな魔物が十体近く。すでに地に倒れ伏したものが二体居たので、残り八体ほどが今も切り掛かってくる兵士達を相手に暴れ狂っていた。
初めて見る凶悪なその姿に、目を瞠っていたエリュレアールや近衛騎士・兵士達も、次の瞬間には態勢を整え、エリュレアールの指示に従い魔物に攻撃を仕掛けていく。そして、エリュレアールも自身の魔力を練り、光の魔術を発動させた。
まずは、一番近くにいた魔物に“浄化”の魔術をぶつける。通常、光の魔術を受けた魔物は、光が触れたところから体を構成する瘴気が祓われ、ざらざらと小さな黒い粒になって消えて行く。エリュレアールの手から溢れた“浄化”の光を正面から受けた魔物も、呻き声を上げながら“浄化”の光から逃れようと樹の幹のような太い腕を振り回す。
(!?)
だが、魔物に対し“浄化”の魔術で攻撃をし続けているエリュレアールは、その奇妙な感触に眉根を寄せた。
(……堅い!)
今まで遭遇してきた魔物ならば、魔術が当たった瞬間に黒い砂の粒となって消え失せる。しかし、この魔物は妙に光の魔術に対し抵抗力があるのか、“浄化”の光が当たったところから、じわじわと解けていく感触しかしないのだ。まるで氷の塊をライターの火で溶かしていくかのように、思うように“浄化”が進まない。
これまで感じたことのない抵抗感に、エリュレアールは内心で焦りを覚えた。彼の魔力量は世界有数のものであり、また光属性の素質に関してもカーヤからお墨付きをもらいくらい強い。なので、エリュレアールの“浄化”の魔術の力が弱いというわけでは無いだろう。
ならば何故。
そんな戸惑いを表面には出さず、エリュレアールは“浄化”に込める魔力量を上げた。先ほどよりより一層強く、また大きくなった“浄化”の光に、今度こそ魔物は全身を飲み込まれ、断末魔の叫び声を上げながら砂の粒へと変じていった。
魔物一体に想像以上にてこずったことに息を調えながら顔を歪めたエリュレアールが、状況を確認するため周囲を見回せば、そこここで他の個体を兵士数十名が取り囲み、剣で切り付けたり魔術を放ったりと激しい戦闘を繰り広げていた。しかし、やはりどの兵士も魔物に苦戦しているらしく、その爪に切り裂かれるもの、巨体にふり払われ吹き飛ばされるもの、魔物が地面に拳を打ちつけた衝撃に巻き込まれるものなど、死傷者が続出している様子であり、魔物の足元には多くの兵士が倒れ伏していく。
その光景に、ギリッと歯を噛み締めたエリュレアールは、急いで次の魔物の傍へと駆け寄り、同じように“浄化”の魔術を発動させる。
魔物を一体倒すにも、これまでないほどの魔力が消費されていくのが分かった。そして、残りの魔物の数が三体にまで減った頃、エリュレアールは肩で息をし、足元がふらつくまでに消耗していた。
魔物の討伐に共に来ていた兵士達もかなり数を減らし、地面に倒れていたり、負傷して前線から遠ざけられている。辺りには砕かれた鎧や盾、折れた剣や槍などが散乱していた。
はあっと大きく息を吐き出して、エリュレアールは膝に力を入れた。目の前が少々歪んだが、残りの魔物は後三体にまで減っている。しかも、兵士や共に来た部下達のおかげで魔物もかなり負傷しているようで、動きも鈍くなっているようだ。
何とか気力を振り絞り、今カークラントが対峙している魔物に視点を定め、“浄化”の魔術を発動しようと魔力を込めている時だった。
ズズンと足元に地響きが伝わり、ぐらりと体が傾く。とっさに足を引いて踏ん張れば、僅かに離れた場所でスケイアスが相手をしていた魔物がこちらへと歩いてくるのが見えた。その魔物を囲み兵やスケイアス達が歩みを止めようとするも、魔物は彼らの攻撃を鬱陶しそうに払いながら、エリュレアールの方へと向かってくる。
この距離で“浄化”を使っても、相手が砂の粒となって消えるまでに物理的に攻撃を加えられてしまう。そう判断したエリュレアールは、いったん魔力を押さえて腰の剣を抜きはらった。
カーヤとの光魔術の練習の時に、特殊な剣でなければ魔術を通すことはできないと分かっていた。そのため、今手にしている剣に魔術を宿すことはできず、片手で魔物の攻撃に備えて剣を構え、もう一方の手に魔力を集中させていた、その時。
「殿下!!」
カークラントの叫ぶ声が聞こえたかと思うと、頭上に大きな影が出来た。想定していなかった方向に現れた影に、しまったと思いつつも、反射的に影の方へと顔を上げた。
そこには、片腕を失った魔物が、残ったもう一つの腕を振り上げていて、その腕の向こうから射し込む太陽の光が目を焼いた。あれほど騒がしかった周囲の喧騒が一瞬で遠ざかる。
握り締められた魔物の黒い瘤の浮き上がった拳が、自分へ向かって振り下ろされるのが、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
「殿下ああぁぁぁ!!」
そう叫んだのは誰だったのか。
――――――ゴッ