彼氏に旅行先で置き去りにされた私を、迎えに来てくれたのは高校時代の男友達でした
トイレから戻ると、彼の車がなかった。
白い車が停まっていた場所には、枯れ葉が二枚落ちていた。駐車場を見渡しても、見慣れたナンバーは見つからない。
出入口のほうまで歩いてから、私はスマホを取り出した。
「今、どこ?」
電話の向こうで、ウインカーの音がした。
『帰ってるけど』
「私、まだ道の駅にいるんだけど」
『帰りたいんだろ。自分で帰れば』
一瞬、意味が分からなかった。
冗談だと思いたかった。でも三浦雅也の声には、笑っている気配がない。
「待って。戻ってきてよ」
『俺の予定には付き合えないのに、自分のためには戻れって?』
冷たい風が、薄手のカーディガンの袖に入った。
「そういう話じゃないでしょ。ここ、駅もないし」
『じゃあ、俺に何か言うことあるんじゃない?』
謝れば戻ってくる。
そのために私を置いていった。
分かってしまって、口を開けなくなった。
『ちょっと頭冷やしなよ』
電話が切れた。
画面には、通話時間だけが残っていた。
山あいの道の駅だった。建物の奥に食堂があり、その隣には野菜や土産物を売る店がある。駐車場を囲む山の影が、さっきより濃くなっていた。
十六時五十二分。
入口には、十七時閉店と書いてある。
つい十分ほど前まで、私は雅也の助手席に座っていた。
「ここから展望台まで、四十分くらいだって」
雅也がスマホを見せてきたのは、この駐車場に着いた直後だ。
朝から温泉街を歩き、昼食を食べ、帰り道に立ち寄った道の駅。出発前には、ここで買い物をして帰ろうと話していた。
「もう遅くなるよ。今日は帰らない?」
「夜景きれいらしいよ」
「明日、仕事だし。帰ってから洗濯もしたいんだ」
「洗濯なんて明日でいいじゃん」
明日は朝から、営業の人に頼まれた見積書を仕上げなければならない。週末にまとめるはずだった家事も残っている。
でも、私が早く帰りたい理由を一つ言うたびに、雅也は一つずつ潰していった。
「せっかく連れてきてやったのに」
結局、いつもの言葉が出た。
私は窓の外を見てから、「少しトイレ行ってくる」と言って、足元のバッグを持って車を降りた。
戻るまでに、彼も落ち着くと思っていた。
付き合って一年になる。
大学時代の友人が開いた食事会で知り合った雅也は、一つ年上で、話も店選びも上手だった。初めて二人で会った日には、私が好きだと言った魚料理の店を予約してくれた。
帰りに送ってくれたときは、車があると頼もしいなと思った。
いつからだろう。
何かをしてもらうたびに、私が希望を言えなくなったのは。
考えかけて、スマホを持ち直した。
今は、帰る方法を探さないと。
地図のアプリで駅を調べた。いちばん近い駅も、歩いて行ける距離ではない。道の駅に停まるバスは、もう最終便が出ていた。
売店の人に教えてもらったタクシー会社では、配車まで一時間以上かかると言われた。そこから駅へ出て、電車を乗り継ぐ。
帰れないわけではない。
ただ、タクシーを待ち、駅へ出て、そこから乗り継いで帰る道のりを考えると、急に心細くなった。誰か知っている人の声を聞きたかった。
いったん電話を切り、連絡先の画面を開いた。
『ごめん、今、電話できる人いる?』
私を含め、高校時代の友人五人で使っているグループに送った。
全員都内で暮らしている。仕事が忙しい時期には何週間も静かなままだけれど、誰かが変な写真を送れば、すぐに昔の教室みたいになる。
『どうした?』
『できるよ』
続けて届いた返信を見て、私はようやくベンチに腰を下ろした。
『彼氏と車で出かけてたんだけど、喧嘩して置いていかれた』
『今、道の駅。駅までタクシーで出ようと思ってる』
打ち終えた直後、着信が入った。
瀬戸修吾。
このグループで、唯一車を持っている人だった。
『理央、どこ?』
高校の頃と同じ声を聞いた途端、喉が詰まった。
「……場所、送るね」
『うん』
通話したまま位置情報を送ると、少し間が空いた。
『分かった。迎えに行く』
「遠いよ。タクシー頼めば帰れるから」
『もう頼んだ?』
「まだ。一時間以上かかるって」
『こっちも、一時間半くらいは見てほしい。待てそう?』
「待てるけど、修吾も明日仕事でしょ」
『仕事だよ。今は家にいる。夕飯もまだだし、帰りに何か買おう』
修吾が家まで送ってくれる。その声を聞いて、ようやく少し安心できた。
それでも、片道一時間半を走ってもらうのは申し訳なかった。
「ほんとに、いいの?」
『うん。そこ、中で待てる場所ある?』
売店のシャッターが下り始めていた。
「お店はもう閉まる。トイレの前は明るいし、人もいる」
『じゃあ、そこにいて。出る前にまた連絡する』
「ありがとう。ごめん」
『場所分かってよかった。あとでな』
電話が切れると、グループにはいくつもメッセージが増えていた。
充電はあるかと聞かれて、七十二パーセントと返す。別の友人が、近くに遅くまで開いている店がないか調べてくれた。
『修吾が迎えに来てくれる。私はここで待つね』
そう送ると、友人が怒っている猫のスタンプを貼った。
『彼氏の話は、帰ってから聞く』
『今は私の夕飯選んで。冷蔵庫に卵しかない』
冷蔵庫の写真まで送られてきた。
卵の横には、なぜか大きな瓶のらっきょうがあった。
それをほかの友人が突っ込み、いつもの会話が始まる。
私はベンチに座ったまま、何度も画面を読んだ。
雅也からは、何も来なかった。
十八時を過ぎると、駐車場の車はさらに減った。自動販売機で買った温かいお茶を両手で包んでいたけれど、指先はすぐに冷えた。
山から吹いてくる風は、都内で感じる秋の風よりずっと冷たい。
駐車場に車が入ってくるたび、顔を上げた。
十八時三十六分。
見覚えのある紺色の車が、私の前をゆっくり通った。
修吾が運転席から片手を上げた。
駐車するまでの数秒さえ待ちきれず、私は立ち上がった。
「ごめん。ほんとに、こんな遠くまで」
車から降りた修吾に頭を下げると、彼は助手席のドアを開けた。
「寒かっただろ。乗って」
座席に座ると、修吾が後部座席から畳んだブランケットを取った。
「これ使って」
「……ありがとう」
「足元、暖房つけるから」
膝に広げた布は、厚くて柔らかかった。
修吾は運転席に戻り、暖房の向きを調整した。それから、私のお茶を見た。
「それ、もう冷めてる?」
「うん。ちょっと」
「途中でコンビニ寄ろう。夕飯、まだだよな?」
うなずいたら、お腹が鳴った。
修吾が口元を押さえたので、私は先に言った。
「笑っていいよ」
「許可が出た」
声を出して笑った彼につられて、私も少し笑った。
その拍子に涙が出て、慌てて下を向いた。
修吾は車を出さず、助手席の前から箱のティッシュを取って、私の膝に置いた。
「……ごめん」
「うん」
それ以上は聞かれなかった。
私は何枚かティッシュを使ってから、自分でシートベルトを締めた。
「もう大丈夫。出して」
「了解」
駐車場を出た車は、雅也と来た道を戻っていった。
コンビニで私はおにぎりを二つ選んだ。修吾は大きな弁当を買い、駐車場で食べてから出発しようと言った。
私が二人分払うと言うと、彼は弁当を持ち上げた。
「これ、俺の夕飯だけど」
「分かってる。今日は払わせて」
「じゃあ、ごちそうになります」
無理に押し返されなくて、ほっとした。
車に戻って、温かいスープを飲む。修吾は弁当の蓋を開けながら、私にウェットティッシュを渡した。
「私が、帰りたいって言ったんだ」
最初に出たのは、そんな言葉だった。
「予定になかった展望台に行こうって。明日仕事だから、今日は帰ろうって言ったら」
修吾は箸を止めた。
私は、雅也にかけた電話のことまで話した。
「謝ったら、戻ってきたと思う」
「……そうか」
「今までは、私が折れれば普通に戻ったから。でも今日は、謝らなきゃ迎えに来てもらえないんだって思ったら、何も言えなくなって」
包みを開けたおにぎりを、しばらく持っていた。
「帰りたいって言っただけなのにね」
修吾が低い声で言った。
私はうなずいて、おにぎりを一口食べた。塩の味がした。
スマホが震えたのは、半分ほど食べたときだった。
『頭冷えた?』
『迎えに戻ってほしいなら、ちゃんと言えば』
雅也からだった。
あれから二時間以上経っていた。
私がどこにいるのか、帰れたのか、一度も聞かなかった人が、まだ迎えを餌にしていた。
『友達が迎えに来てくれたから、もう戻らなくて大丈夫』
送ってから、スマホを伏せた。
すぐに震えたけれど、見なかった。
「食べ終わったら、家までお願いしてもいい?」
「そのつもりだよ」
修吾は、空になった弁当の蓋を閉じた。
帰り道、彼は仕事で作り直している図面の話をした。私には細かいことは分からなかったけれど、金曜日の夕方に修正が来るのはつらい、というところには深くうなずいた。
途中で少し眠ってしまい、目が覚めると、もう見覚えのある街だった。
「ごめん、寝てた」
「寝てたな」
「起こしてよ」
「起こしても、運転は代わってもらえないだろ」
私は免許を持っていない。
高校の頃、修吾が教習所の話をしていたのを思い出した。そのときは、車があったら海に行こうと、みんなで騒いでいた。
今日も、いつもの五人で帰っているような気がした。
ただ、助手席にいるのは私だけだった。
二十時四十分頃、アパートの前に着いた。
借りたブランケットを畳んで返そうとすると、修吾が首を振った。
「今日は持ってって。返すのはいつでもいいから」
「じゃあ、今度ちゃんとお礼させて」
「うん。また連絡して」
車を降りてから、私は窓越しにもう一度礼を言った。
修吾は、私が建物の中に入るまでそこにいた。
部屋の明かりをつけて、グループに帰宅したと送る。
それからブランケットを椅子に掛け、雅也とのトークを開いた。
『誰に迎え頼んだの?』
『俺への当てつけ?』
『男?』
いくつも並んだ文字を読んで、返事を書くのをやめた。
充電器につないだスマホを机に置き、洗濯機を回した。
今日は、自分の服を洗いたかった。
◇
翌日の夜、私は雅也に電話をかけた。
営業事務の仕事を終え、帰宅して食事も済ませてからだった。
言いたいことを一度、紙に書いた。電話がつながった瞬間に、全部忘れてしまいそうだったから。
『昨日、ちゃんと帰れたんだ?』
雅也の声は、もういつも通りだった。
「帰れたよ。それで、もう付き合いを続けるつもりはない」
短い沈黙のあと、彼が息を吐いた。
『置いてったこと、まだ怒ってるの?』
「怒ってる。でも、それだけじゃない。あなたと出かけるのが怖くなった」
『迎えに戻るつもりだったんだけど』
「私が謝ったら、でしょ」
『お前も言い方悪かったじゃん。こっちは運転して連れてってるんだよ』
紙を押さえていた指に、力が入った。
「運転してくれたことは、ありがとう。でも、帰りたいって言っちゃいけない理由にはならないよ」
『だから、喧嘩したらお互い謝ればいいだろ』
「置いていかれると思ったら、喧嘩もできない」
電話の向こうが静かになった。
私は、書いた最後の一行を見た。
「私は、そういう付き合いはもうしたくない。別れよう」
『じゃあ、昨日迎えに来た男と付き合えば?』
その声は大きくなった。
「誰に迎えに来てもらったかと、今の話は関係ない」
『分かったよ。勝手にしろ。あとで戻りたいって言っても知らないからな』
「分かった」
電話を切った。
紙には、書いたときより深い指の跡がついていた。
しばらくその紙を見つめてから、丸めずに、二つに折った。
◇
三日後の木曜日、二十時過ぎに通知が届いた。
『今、家の前。降りてきて』
箸を置いた。
窓の外を、すぐには見られなかった。
雅也は何度かこの部屋に来たことがある。建物の入口にオートロックはない。鍵を渡したことはないけれど、ドアの前まで来ようと思えば来られる。
『会わない。帰って』
送ったあと、鍵とドアチェーンを確かめた。
スマホが鳴った。
私は高校のグループに、短く事情を送ってから電話に出た。
『顔見て話そうよ。ここまで来たんだから』
「来てって頼んでない」
『十分だけでいいから。電話で終わりとか、ないだろ』
「会わない。電話で言った通り、もう別れてる」
スマホを持つ手が震えた。
落とさないように、両手で持った。
『人がわざわざ来てやったのに、その態度?』
道の駅の駐車場で聞いた声だった。
私は座っていた椅子の背に、肩をつけた。
「帰って。これから来るのもやめて」
『理央』
「もう会わない」
電話を切り、連絡先をブロックした。
ドアのすぐ向こうに、彼がいる気がした。冷蔵庫の音も、廊下の物音も、いつもより大きく聞こえた。
グループの友人が、通話をつないでくれた。
自分の住所を伝え、いざとなったら警察に連絡すると話した。友人は、私が窓を確かめに行く間も、そのまま電話を切らずにいてくれた。
修吾からも「今から行こうか」と届いたけれど、私は待って、と返した。
窓から少し離れた場所で、カーテンの隙間を見た。
雅也の車は、道の向かいに停まっていた。
二十分ほど経って、その車が動いた。
角を曲がって見えなくなっても、私はしばらく立ったままだった。
『帰った。話聞いてくれてありがとう』
グループに送ると、ようやく肩から力が抜けた。
大学時代の、雅也を紹介してくれた友人にも連絡した。別れたこと、突然家に来たこと、仲裁を頼まれても私につながないでほしいこと。
友人は事情を聞き、勝手に居場所や予定を教えないと約束してくれた。
食卓に戻ると、ご飯も味噌汁も冷めていた。
電子レンジの前で待っていると、修吾から個別にメッセージが来た。
『今夜は鍵かけたままで。何かあったら電話して』
『うん。ご飯あっため直してる』
『食べられそうならよかった』
返信を読んで、温まった茶碗を取り出した。
◇
理央のアパートを訪ねた翌日の夜、雅也は友人の男性一人、女性一人と、三人で食事をしていた。
向かいの男性は、雅也に理央を紹介した大学時代の友人だった。隣の女性とも、以前からこの仲間の集まりで顔を合わせている。
雅也は昨夜の話を持ち出した。
「直接話そうと思ったのに、出てこないんだよ。電話で別れるって、一方的じゃない?」
向かいの男性が箸を置いた。
「その前に、旅行先に置いて帰ったんだろ」
「ああ、それ聞いた? ちょっと反省してほしかっただけだって。結局、友達が迎えに来たらしいし」
「来なかったら?」
「タクシーだってあるだろ」
誰も笑わなかった。
隣の女性も、グラスを静かに置いた。
隣の女性とは趣味も合う。雅也が冗談を言えば、いつも笑ってくれる人だった。
「雅也、もう家には行くなよ」
向かいの男性の言葉に、雅也は顔をしかめた。
「別に、何もしないって」
「会わないって言われてるんだろ」
雅也は水を飲み、別の話を振った。
そのうち理央の機嫌も直るはずだった。今までも、翌日か翌々日には、何事もなかったように連絡が来た。
今回は周りを巻き込んで、大げさにしているだけだ。
翌週の土曜日、この仲間の一人の誕生日で、また集まる予定があった。
理央も当初は一緒に来るはずだったが、もう参加しないと幹事に連絡していた。
雅也は一人で店へ行き、先週隣に座っていた女性を見つけた。
「この前話してた映画、来週どう?」
彼女は、少し困った顔をした。
「二人では、ちょっと」
「じゃあ、みんなで?」
「そうだね」
雅也は笑ってうなずいた。
まだ理央と別れたばかりだから、気を遣っているのだろう。そう思った。
食事の途中、トイレに立った。
戻る途中、通路の曲がり角の向こうから、女性二人の話し声が聞こえた。
自分の名前が出て、雅也は歩調を緩めた。
「雅也に誘われてたよね。付き合うとか、考えないの?」
「絶対無理」
雅也は足を止めた。
「私も、わがまま言ったら置き去りにされちゃうんでしょ?」
「あの話、びっくりした」
「しかも、悪いことしたと思ってないじゃん。怖くて二人で出かけられないよ」
席へ戻っていく足音が遠ざかった。
雅也は、二人から見えない曲がり角の手前で立ち尽くしていた。
彼女の笑顔を思い返した。
映画の話をしたときも、飲み物を頼むときも、普通に話していた。それなのに、二人で出かけるのは怖いと思われていた。
理央があの話をしたせいだ、と考えかけた。
でも彼女に置き去りの話をしたのは、自分だった。
席へ戻ると、友人がケーキを取り分けていた。
彼女は雅也にも皿を渡した。ほかの人にするのと、同じように。
「ありがとう」
返事をしても、次の言葉が出なかった。
帰宅して、理央に電話をかけた。
つながらなかった。
翌朝、二人を紹介した友人に連絡し、謝りたいから取り次いでほしいと頼んだ。
『取り次がないって、理央に約束したから』
「謝るだけだって」
『家まで行って、断られたんだろ。もうやめなよ』
電話を切ったあと、雅也は理央とのトークを開いた。
最後に届いていたのは、短い一文だった。
『会わない。帰って』
その下に自分が送った言葉には、既読がついていなかった。
◇
修吾と二人で飲んだのは、あの日から三週間近く経った金曜日だった。
洗ったブランケットを返すのと、お礼をしたいのと。誘う理由は、二つあった。
待ち合わせの駅に現れた修吾は、小さな紙袋を見て笑った。
「そこまできれいに包まなくても」
「紙袋に入れただけだよ」
「俺なんか、後ろに放り込んでるのに」
袋を渡してから、予約した居酒屋へ歩いた。
雅也を紹介してくれた友人から、もう連絡を取り次いでほしいと頼まれても断っていると聞いた。その後、家に来ることもなかった。
まだ帰宅するときに周りを見る癖は残っている。でも、今夜の店を探している間は、久しぶりに楽しみでスマホを触れた。
向かいの席に修吾が座った。
平日の仕事帰りだから、襟のあるシャツを着ている。高校の友人たちと会うときは、たいてい休日だった。
注文を決める横顔を、私は少し長く見てしまった。
「何飲む?」
「梅酒のソーダ割り」
「じゃあ、俺は生」
店員を呼び、飲み物と料理を頼む。
私が辛そうな名前の炒め物を指すと、修吾が眉を上げた。
「それ、辛いやつだろ。俺は無理」
「じゃあ私、一人で食べる」
「どうぞ。俺は唐揚げ頼む」
「唐揚げは私も食べたい」
「そっちだけ両方食べるのか」
笑いながら、もう一皿、二人で食べるものを選んだ。
料理が来ると、修吾は私の炒め物の皿を見て、やっぱり頼まなくてよかったと言った。
私は一口食べた。
「……結構辛い」
「だろ」
「おいしいんだけど」
修吾が自分の水を、私のほうへ寄せた。
私は礼を言って飲んだあと、唐揚げに箸を伸ばした。
「そっちも食べるなら、一個は交換条件」
「炒め物、食べる?」
「無理。次に頼む卵焼きは、俺にもよこせ」
そんなことを話していたら、あっという間に皿が空いた。
高校の頃、修吾は数学の小テストの前だけ人気があった。休み時間に彼の机を囲んで、解き方を聞いたことがある。
その話をすると、彼は嫌そうな顔をした。
「教えたあとで、お前らのほうが点よかったの、忘れてないから」
「修吾、最後の問題だけ計算間違えてたんだよね」
「そこも忘れてないのか」
修吾も笑って、懐かしそうに私を見ていた。
私は笑いすぎて、目の端が湿った。
あの日、助手席でもらったティッシュを思い出したけれど、今は使わずに済んだ。
仕事の話もした。
私が見積書の修正で慌てた話をすると、修吾は「それは大変だったな」と言ったあと、自分も寸法を一か所直したら、ほかの部分まで直すことになったと話した。
聞いているうちに、どちらの修正のほうが厄介かという、妙な競争になった。
「次は、高校のみんなとも飲みたいね」
「うん。誰かまた、店決めてって言うだろうな」
「修吾が決めると、唐揚げがある店になる」
「必要条件だから」
私たちは二度目の飲み物を頼んだ。
そろそろ帰る時間なのに、私は時計を見たくなかった。
「あの日、本当にありがとう」
改めて言うと、修吾はジョッキを置いた。
「無事に帰れてよかった」
「私、ずっとごめんって言ってたよね」
「言ってた」
「車で寝たし」
「それはいいよ。俺も、助手席だったら寝る」
ふっと笑ってから、私は梅酒のグラスを持った。
「迎えに来てもらえて、ほっとしたんだ」
「うん」
「でも今日も、誘ってよかった」
修吾が私を見た。
その顔を見ていたら、急に恥ずかしくなった。私はグラスを口へ運んだ。
氷が唇に触れた。
会計は私が払った。修吾は一度だけ「いいの?」と聞いて、それから「ごちそうさま」と言ってくれた。
店を出ると、金曜日の街はまだ賑やかだった。
二人で駅へ歩き、途中の信号で止まった。
「また二人で飲もうよ」
青になる前に言った。
修吾がこちらを向く。
「もうお礼は十分もらったけど」
「お礼じゃなくて。また会いたいから」
言い終えてから、靴の先を見た。
返事までの数秒が、長かった。
「俺も、二人で会いたい」
顔を上げると、彼も少し照れた顔をしていた。
「来週、金曜は?」
「空いてる」
「今度は俺が店探す」
「辛い料理は?」
「一人で食べてくれ」
信号が青になった。
笑いながら歩き出した修吾の隣へ、私は追いついた。
◇
次の金曜日、修吾が選んだのは、卵焼きの写真が大きく載った居酒屋だった。
注文した卵焼きは四つに切られていた。
私が二つ目に箸を伸ばすと、彼が皿を見た。
「今日はちゃんと半分なんだな」
「前の唐揚げ、まだ言う?」
「あれ、俺が二個で、理央が三個だった」
「数えてたんだ」
私は笑って、卵焼きを一つ食べた。
帰り際、彼が「少し歩く?」と聞いた。
駅とは反対の道へ曲がり、人の少ない歩道を並んで歩いた。
「この前の、また会いたいって話なんだけど」
修吾が切り出した。
「友達として、って意味だったら、先に言ってほしい」
私は立ち止まった。
彼も一歩先で止まり、こちらを向いた。
「先週、家に帰ってからも、また理央と二人で会いたいと思ってた」
修吾は私の顔を見て、続けた。
「だから今日は、友達として誘ったつもりじゃない」
背中を、自転車が一台通り過ぎた。
私は肩からずれたバッグを掛け直した。何かしていないと、顔を見ていられなかった。
「私も、友達としてじゃないよ」
修吾の口元が、ゆっくり緩んだ。
「じゃあ、付き合ってほしい」
「うん。私も」
彼が息を吐いた。
「よかった。今日、何回言いそびれたか」
「卵焼きの数はすぐ言ったのに」
「あれは簡単だから」
笑ったあと、彼が手を差し出した。
私はその手を取った。
少し冷えていた指が、握り返してきた。
駅までの道で、修吾が今度の日曜の話をした。
「昼、どっか行く?」
「行きたい。夕方には帰って、洗濯したいけど」
「じゃあ、近場にしよう。何食べたい?」
私は二つの候補を挙げた。
修吾も一つ挙げたので、どこにするか、すぐには決まらなかった。
つないだ手を揺らしながら、改札が見えるところまで相談を続けた。
結局、彼の候補は再来週に行くことになった。
「じゃあ日曜、十一時に迎えに行く」
「うん。待ってる」
今度は出かける前から、楽しみに待てる。
私は手を離す前に、もう一度だけ、彼の指を握った。




