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彼氏に旅行先で置き去りにされた私を、迎えに来てくれたのは高校時代の男友達でした

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/07

 トイレから戻ると、彼の車がなかった。


 白い車が停まっていた場所には、枯れ葉が二枚落ちていた。駐車場を見渡しても、見慣れたナンバーは見つからない。

 出入口のほうまで歩いてから、私はスマホを取り出した。


「今、どこ?」


 電話の向こうで、ウインカーの音がした。


『帰ってるけど』

「私、まだ道の駅にいるんだけど」

『帰りたいんだろ。自分で帰れば』


 一瞬、意味が分からなかった。

 冗談だと思いたかった。でも三浦雅也の声には、笑っている気配がない。


「待って。戻ってきてよ」

『俺の予定には付き合えないのに、自分のためには戻れって?』


 冷たい風が、薄手のカーディガンの袖に入った。


「そういう話じゃないでしょ。ここ、駅もないし」

『じゃあ、俺に何か言うことあるんじゃない?』


 謝れば戻ってくる。

 そのために私を置いていった。

 分かってしまって、口を開けなくなった。


『ちょっと頭冷やしなよ』


 電話が切れた。

 画面には、通話時間だけが残っていた。


 山あいの道の駅だった。建物の奥に食堂があり、その隣には野菜や土産物を売る店がある。駐車場を囲む山の影が、さっきより濃くなっていた。

 十六時五十二分。

 入口には、十七時閉店と書いてある。


 つい十分ほど前まで、私は雅也の助手席に座っていた。


「ここから展望台まで、四十分くらいだって」


 雅也がスマホを見せてきたのは、この駐車場に着いた直後だ。

 朝から温泉街を歩き、昼食を食べ、帰り道に立ち寄った道の駅。出発前には、ここで買い物をして帰ろうと話していた。


「もう遅くなるよ。今日は帰らない?」

「夜景きれいらしいよ」

「明日、仕事だし。帰ってから洗濯もしたいんだ」

「洗濯なんて明日でいいじゃん」


 明日は朝から、営業の人に頼まれた見積書を仕上げなければならない。週末にまとめるはずだった家事も残っている。

 でも、私が早く帰りたい理由を一つ言うたびに、雅也は一つずつ潰していった。


「せっかく連れてきてやったのに」


 結局、いつもの言葉が出た。

 私は窓の外を見てから、「少しトイレ行ってくる」と言って、足元のバッグを持って車を降りた。

 戻るまでに、彼も落ち着くと思っていた。


 付き合って一年になる。

 大学時代の友人が開いた食事会で知り合った雅也は、一つ年上で、話も店選びも上手だった。初めて二人で会った日には、私が好きだと言った魚料理の店を予約してくれた。

 帰りに送ってくれたときは、車があると頼もしいなと思った。

 いつからだろう。

 何かをしてもらうたびに、私が希望を言えなくなったのは。


 考えかけて、スマホを持ち直した。

 今は、帰る方法を探さないと。


 地図のアプリで駅を調べた。いちばん近い駅も、歩いて行ける距離ではない。道の駅に停まるバスは、もう最終便が出ていた。

 売店の人に教えてもらったタクシー会社では、配車まで一時間以上かかると言われた。そこから駅へ出て、電車を乗り継ぐ。

 帰れないわけではない。

 ただ、タクシーを待ち、駅へ出て、そこから乗り継いで帰る道のりを考えると、急に心細くなった。誰か知っている人の声を聞きたかった。

 いったん電話を切り、連絡先の画面を開いた。


『ごめん、今、電話できる人いる?』


 私を含め、高校時代の友人五人で使っているグループに送った。

 全員都内で暮らしている。仕事が忙しい時期には何週間も静かなままだけれど、誰かが変な写真を送れば、すぐに昔の教室みたいになる。


『どうした?』

『できるよ』


 続けて届いた返信を見て、私はようやくベンチに腰を下ろした。


『彼氏と車で出かけてたんだけど、喧嘩して置いていかれた』

『今、道の駅。駅までタクシーで出ようと思ってる』


 打ち終えた直後、着信が入った。

 瀬戸修吾。

 このグループで、唯一車を持っている人だった。


『理央、どこ?』


 高校の頃と同じ声を聞いた途端、喉が詰まった。


「……場所、送るね」

『うん』


 通話したまま位置情報を送ると、少し間が空いた。


『分かった。迎えに行く』

「遠いよ。タクシー頼めば帰れるから」

『もう頼んだ?』

「まだ。一時間以上かかるって」

『こっちも、一時間半くらいは見てほしい。待てそう?』


「待てるけど、修吾も明日仕事でしょ」

『仕事だよ。今は家にいる。夕飯もまだだし、帰りに何か買おう』


 修吾が家まで送ってくれる。その声を聞いて、ようやく少し安心できた。

 それでも、片道一時間半を走ってもらうのは申し訳なかった。


「ほんとに、いいの?」

『うん。そこ、中で待てる場所ある?』


 売店のシャッターが下り始めていた。


「お店はもう閉まる。トイレの前は明るいし、人もいる」

『じゃあ、そこにいて。出る前にまた連絡する』

「ありがとう。ごめん」

『場所分かってよかった。あとでな』


 電話が切れると、グループにはいくつもメッセージが増えていた。

 充電はあるかと聞かれて、七十二パーセントと返す。別の友人が、近くに遅くまで開いている店がないか調べてくれた。


『修吾が迎えに来てくれる。私はここで待つね』


 そう送ると、友人が怒っている猫のスタンプを貼った。


『彼氏の話は、帰ってから聞く』

『今は私の夕飯選んで。冷蔵庫に卵しかない』


 冷蔵庫の写真まで送られてきた。

 卵の横には、なぜか大きな瓶のらっきょうがあった。

 それをほかの友人が突っ込み、いつもの会話が始まる。

 私はベンチに座ったまま、何度も画面を読んだ。


 雅也からは、何も来なかった。


 十八時を過ぎると、駐車場の車はさらに減った。自動販売機で買った温かいお茶を両手で包んでいたけれど、指先はすぐに冷えた。

 山から吹いてくる風は、都内で感じる秋の風よりずっと冷たい。

 駐車場に車が入ってくるたび、顔を上げた。


 十八時三十六分。

 見覚えのある紺色の車が、私の前をゆっくり通った。


 修吾が運転席から片手を上げた。

 駐車するまでの数秒さえ待ちきれず、私は立ち上がった。


「ごめん。ほんとに、こんな遠くまで」


 車から降りた修吾に頭を下げると、彼は助手席のドアを開けた。


「寒かっただろ。乗って」


 座席に座ると、修吾が後部座席から畳んだブランケットを取った。


「これ使って」

「……ありがとう」

「足元、暖房つけるから」


 膝に広げた布は、厚くて柔らかかった。

 修吾は運転席に戻り、暖房の向きを調整した。それから、私のお茶を見た。


「それ、もう冷めてる?」

「うん。ちょっと」

「途中でコンビニ寄ろう。夕飯、まだだよな?」


 うなずいたら、お腹が鳴った。

 修吾が口元を押さえたので、私は先に言った。


「笑っていいよ」

「許可が出た」


 声を出して笑った彼につられて、私も少し笑った。

 その拍子に涙が出て、慌てて下を向いた。


 修吾は車を出さず、助手席の前から箱のティッシュを取って、私の膝に置いた。


「……ごめん」

「うん」


 それ以上は聞かれなかった。

 私は何枚かティッシュを使ってから、自分でシートベルトを締めた。


「もう大丈夫。出して」

「了解」


 駐車場を出た車は、雅也と来た道を戻っていった。


 コンビニで私はおにぎりを二つ選んだ。修吾は大きな弁当を買い、駐車場で食べてから出発しようと言った。

 私が二人分払うと言うと、彼は弁当を持ち上げた。


「これ、俺の夕飯だけど」

「分かってる。今日は払わせて」

「じゃあ、ごちそうになります」


 無理に押し返されなくて、ほっとした。

 車に戻って、温かいスープを飲む。修吾は弁当の蓋を開けながら、私にウェットティッシュを渡した。


「私が、帰りたいって言ったんだ」


 最初に出たのは、そんな言葉だった。


「予定になかった展望台に行こうって。明日仕事だから、今日は帰ろうって言ったら」


 修吾は箸を止めた。

 私は、雅也にかけた電話のことまで話した。


「謝ったら、戻ってきたと思う」

「……そうか」

「今までは、私が折れれば普通に戻ったから。でも今日は、謝らなきゃ迎えに来てもらえないんだって思ったら、何も言えなくなって」


 包みを開けたおにぎりを、しばらく持っていた。


「帰りたいって言っただけなのにね」


 修吾が低い声で言った。

 私はうなずいて、おにぎりを一口食べた。塩の味がした。


 スマホが震えたのは、半分ほど食べたときだった。


『頭冷えた?』

『迎えに戻ってほしいなら、ちゃんと言えば』


 雅也からだった。

 あれから二時間以上経っていた。

 私がどこにいるのか、帰れたのか、一度も聞かなかった人が、まだ迎えを餌にしていた。


『友達が迎えに来てくれたから、もう戻らなくて大丈夫』


 送ってから、スマホを伏せた。

 すぐに震えたけれど、見なかった。


「食べ終わったら、家までお願いしてもいい?」

「そのつもりだよ」


 修吾は、空になった弁当の蓋を閉じた。


 帰り道、彼は仕事で作り直している図面の話をした。私には細かいことは分からなかったけれど、金曜日の夕方に修正が来るのはつらい、というところには深くうなずいた。

 途中で少し眠ってしまい、目が覚めると、もう見覚えのある街だった。


「ごめん、寝てた」

「寝てたな」

「起こしてよ」

「起こしても、運転は代わってもらえないだろ」


 私は免許を持っていない。

 高校の頃、修吾が教習所の話をしていたのを思い出した。そのときは、車があったら海に行こうと、みんなで騒いでいた。

 今日も、いつもの五人で帰っているような気がした。

 ただ、助手席にいるのは私だけだった。


 二十時四十分頃、アパートの前に着いた。

 借りたブランケットを畳んで返そうとすると、修吾が首を振った。


「今日は持ってって。返すのはいつでもいいから」

「じゃあ、今度ちゃんとお礼させて」

「うん。また連絡して」


 車を降りてから、私は窓越しにもう一度礼を言った。

 修吾は、私が建物の中に入るまでそこにいた。


 部屋の明かりをつけて、グループに帰宅したと送る。

 それからブランケットを椅子に掛け、雅也とのトークを開いた。


『誰に迎え頼んだの?』

『俺への当てつけ?』

『男?』


 いくつも並んだ文字を読んで、返事を書くのをやめた。

 充電器につないだスマホを机に置き、洗濯機を回した。

 今日は、自分の服を洗いたかった。


 ◇


 翌日の夜、私は雅也に電話をかけた。

 営業事務の仕事を終え、帰宅して食事も済ませてからだった。

 言いたいことを一度、紙に書いた。電話がつながった瞬間に、全部忘れてしまいそうだったから。


『昨日、ちゃんと帰れたんだ?』


 雅也の声は、もういつも通りだった。


「帰れたよ。それで、もう付き合いを続けるつもりはない」


 短い沈黙のあと、彼が息を吐いた。


『置いてったこと、まだ怒ってるの?』

「怒ってる。でも、それだけじゃない。あなたと出かけるのが怖くなった」

『迎えに戻るつもりだったんだけど』

「私が謝ったら、でしょ」

『お前も言い方悪かったじゃん。こっちは運転して連れてってるんだよ』


 紙を押さえていた指に、力が入った。


「運転してくれたことは、ありがとう。でも、帰りたいって言っちゃいけない理由にはならないよ」

『だから、喧嘩したらお互い謝ればいいだろ』

「置いていかれると思ったら、喧嘩もできない」


 電話の向こうが静かになった。

 私は、書いた最後の一行を見た。


「私は、そういう付き合いはもうしたくない。別れよう」

『じゃあ、昨日迎えに来た男と付き合えば?』


 その声は大きくなった。


「誰に迎えに来てもらったかと、今の話は関係ない」

『分かったよ。勝手にしろ。あとで戻りたいって言っても知らないからな』

「分かった」


 電話を切った。

 紙には、書いたときより深い指の跡がついていた。

 しばらくその紙を見つめてから、丸めずに、二つに折った。


 ◇


 三日後の木曜日、二十時過ぎに通知が届いた。


『今、家の前。降りてきて』


 箸を置いた。

 窓の外を、すぐには見られなかった。

 雅也は何度かこの部屋に来たことがある。建物の入口にオートロックはない。鍵を渡したことはないけれど、ドアの前まで来ようと思えば来られる。


『会わない。帰って』


 送ったあと、鍵とドアチェーンを確かめた。

 スマホが鳴った。

 私は高校のグループに、短く事情を送ってから電話に出た。


『顔見て話そうよ。ここまで来たんだから』

「来てって頼んでない」

『十分だけでいいから。電話で終わりとか、ないだろ』

「会わない。電話で言った通り、もう別れてる」


 スマホを持つ手が震えた。

 落とさないように、両手で持った。


『人がわざわざ来てやったのに、その態度?』


 道の駅の駐車場で聞いた声だった。

 私は座っていた椅子の背に、肩をつけた。


「帰って。これから来るのもやめて」

『理央』

「もう会わない」


 電話を切り、連絡先をブロックした。

 ドアのすぐ向こうに、彼がいる気がした。冷蔵庫の音も、廊下の物音も、いつもより大きく聞こえた。


 グループの友人が、通話をつないでくれた。

 自分の住所を伝え、いざとなったら警察に連絡すると話した。友人は、私が窓を確かめに行く間も、そのまま電話を切らずにいてくれた。

 修吾からも「今から行こうか」と届いたけれど、私は待って、と返した。

 窓から少し離れた場所で、カーテンの隙間を見た。

 雅也の車は、道の向かいに停まっていた。


 二十分ほど経って、その車が動いた。

 角を曲がって見えなくなっても、私はしばらく立ったままだった。


『帰った。話聞いてくれてありがとう』


 グループに送ると、ようやく肩から力が抜けた。

 大学時代の、雅也を紹介してくれた友人にも連絡した。別れたこと、突然家に来たこと、仲裁を頼まれても私につながないでほしいこと。

 友人は事情を聞き、勝手に居場所や予定を教えないと約束してくれた。


 食卓に戻ると、ご飯も味噌汁も冷めていた。

 電子レンジの前で待っていると、修吾から個別にメッセージが来た。


『今夜は鍵かけたままで。何かあったら電話して』


『うん。ご飯あっため直してる』


『食べられそうならよかった』


 返信を読んで、温まった茶碗を取り出した。


 ◇


 理央のアパートを訪ねた翌日の夜、雅也は友人の男性一人、女性一人と、三人で食事をしていた。

 向かいの男性は、雅也に理央を紹介した大学時代の友人だった。隣の女性とも、以前からこの仲間の集まりで顔を合わせている。

 雅也は昨夜の話を持ち出した。


「直接話そうと思ったのに、出てこないんだよ。電話で別れるって、一方的じゃない?」


 向かいの男性が箸を置いた。


「その前に、旅行先に置いて帰ったんだろ」

「ああ、それ聞いた? ちょっと反省してほしかっただけだって。結局、友達が迎えに来たらしいし」

「来なかったら?」

「タクシーだってあるだろ」


 誰も笑わなかった。

 隣の女性も、グラスを静かに置いた。

 隣の女性とは趣味も合う。雅也が冗談を言えば、いつも笑ってくれる人だった。


「雅也、もう家には行くなよ」


 向かいの男性の言葉に、雅也は顔をしかめた。


「別に、何もしないって」

「会わないって言われてるんだろ」


 雅也は水を飲み、別の話を振った。

 そのうち理央の機嫌も直るはずだった。今までも、翌日か翌々日には、何事もなかったように連絡が来た。

 今回は周りを巻き込んで、大げさにしているだけだ。


 翌週の土曜日、この仲間の一人の誕生日で、また集まる予定があった。

 理央も当初は一緒に来るはずだったが、もう参加しないと幹事に連絡していた。

 雅也は一人で店へ行き、先週隣に座っていた女性を見つけた。


「この前話してた映画、来週どう?」


 彼女は、少し困った顔をした。


「二人では、ちょっと」

「じゃあ、みんなで?」

「そうだね」


 雅也は笑ってうなずいた。

 まだ理央と別れたばかりだから、気を遣っているのだろう。そう思った。


 食事の途中、トイレに立った。

 戻る途中、通路の曲がり角の向こうから、女性二人の話し声が聞こえた。

 自分の名前が出て、雅也は歩調を緩めた。


「雅也に誘われてたよね。付き合うとか、考えないの?」

「絶対無理」


 雅也は足を止めた。


「私も、わがまま言ったら置き去りにされちゃうんでしょ?」

「あの話、びっくりした」

「しかも、悪いことしたと思ってないじゃん。怖くて二人で出かけられないよ」


 席へ戻っていく足音が遠ざかった。

 雅也は、二人から見えない曲がり角の手前で立ち尽くしていた。


 彼女の笑顔を思い返した。

 映画の話をしたときも、飲み物を頼むときも、普通に話していた。それなのに、二人で出かけるのは怖いと思われていた。

 理央があの話をしたせいだ、と考えかけた。

 でも彼女に置き去りの話をしたのは、自分だった。


 席へ戻ると、友人がケーキを取り分けていた。

 彼女は雅也にも皿を渡した。ほかの人にするのと、同じように。


「ありがとう」


 返事をしても、次の言葉が出なかった。


 帰宅して、理央に電話をかけた。

 つながらなかった。

 翌朝、二人を紹介した友人に連絡し、謝りたいから取り次いでほしいと頼んだ。


『取り次がないって、理央に約束したから』

「謝るだけだって」

『家まで行って、断られたんだろ。もうやめなよ』


 電話を切ったあと、雅也は理央とのトークを開いた。

 最後に届いていたのは、短い一文だった。


『会わない。帰って』


 その下に自分が送った言葉には、既読がついていなかった。


 ◇


 修吾と二人で飲んだのは、あの日から三週間近く経った金曜日だった。

 洗ったブランケットを返すのと、お礼をしたいのと。誘う理由は、二つあった。

 待ち合わせの駅に現れた修吾は、小さな紙袋を見て笑った。


「そこまできれいに包まなくても」

「紙袋に入れただけだよ」

「俺なんか、後ろに放り込んでるのに」


 袋を渡してから、予約した居酒屋へ歩いた。

 雅也を紹介してくれた友人から、もう連絡を取り次いでほしいと頼まれても断っていると聞いた。その後、家に来ることもなかった。

 まだ帰宅するときに周りを見る癖は残っている。でも、今夜の店を探している間は、久しぶりに楽しみでスマホを触れた。


 向かいの席に修吾が座った。

 平日の仕事帰りだから、襟のあるシャツを着ている。高校の友人たちと会うときは、たいてい休日だった。

 注文を決める横顔を、私は少し長く見てしまった。


「何飲む?」

「梅酒のソーダ割り」

「じゃあ、俺は生」


 店員を呼び、飲み物と料理を頼む。

 私が辛そうな名前の炒め物を指すと、修吾が眉を上げた。


「それ、辛いやつだろ。俺は無理」

「じゃあ私、一人で食べる」

「どうぞ。俺は唐揚げ頼む」

「唐揚げは私も食べたい」

「そっちだけ両方食べるのか」


 笑いながら、もう一皿、二人で食べるものを選んだ。

 料理が来ると、修吾は私の炒め物の皿を見て、やっぱり頼まなくてよかったと言った。

 私は一口食べた。


「……結構辛い」

「だろ」

「おいしいんだけど」


 修吾が自分の水を、私のほうへ寄せた。

 私は礼を言って飲んだあと、唐揚げに箸を伸ばした。


「そっちも食べるなら、一個は交換条件」

「炒め物、食べる?」

「無理。次に頼む卵焼きは、俺にもよこせ」


 そんなことを話していたら、あっという間に皿が空いた。


 高校の頃、修吾は数学の小テストの前だけ人気があった。休み時間に彼の机を囲んで、解き方を聞いたことがある。

 その話をすると、彼は嫌そうな顔をした。


「教えたあとで、お前らのほうが点よかったの、忘れてないから」

「修吾、最後の問題だけ計算間違えてたんだよね」

「そこも忘れてないのか」


 修吾も笑って、懐かしそうに私を見ていた。

 私は笑いすぎて、目の端が湿った。

 あの日、助手席でもらったティッシュを思い出したけれど、今は使わずに済んだ。


 仕事の話もした。

 私が見積書の修正で慌てた話をすると、修吾は「それは大変だったな」と言ったあと、自分も寸法を一か所直したら、ほかの部分まで直すことになったと話した。

 聞いているうちに、どちらの修正のほうが厄介かという、妙な競争になった。


「次は、高校のみんなとも飲みたいね」

「うん。誰かまた、店決めてって言うだろうな」

「修吾が決めると、唐揚げがある店になる」

「必要条件だから」


 私たちは二度目の飲み物を頼んだ。

 そろそろ帰る時間なのに、私は時計を見たくなかった。


「あの日、本当にありがとう」


 改めて言うと、修吾はジョッキを置いた。


「無事に帰れてよかった」

「私、ずっとごめんって言ってたよね」

「言ってた」

「車で寝たし」

「それはいいよ。俺も、助手席だったら寝る」


 ふっと笑ってから、私は梅酒のグラスを持った。


「迎えに来てもらえて、ほっとしたんだ」

「うん」

「でも今日も、誘ってよかった」


 修吾が私を見た。

 その顔を見ていたら、急に恥ずかしくなった。私はグラスを口へ運んだ。

 氷が唇に触れた。


 会計は私が払った。修吾は一度だけ「いいの?」と聞いて、それから「ごちそうさま」と言ってくれた。

 店を出ると、金曜日の街はまだ賑やかだった。

 二人で駅へ歩き、途中の信号で止まった。


「また二人で飲もうよ」


 青になる前に言った。

 修吾がこちらを向く。


「もうお礼は十分もらったけど」

「お礼じゃなくて。また会いたいから」


 言い終えてから、靴の先を見た。

 返事までの数秒が、長かった。


「俺も、二人で会いたい」


 顔を上げると、彼も少し照れた顔をしていた。


「来週、金曜は?」

「空いてる」

「今度は俺が店探す」

「辛い料理は?」

「一人で食べてくれ」


 信号が青になった。

 笑いながら歩き出した修吾の隣へ、私は追いついた。


 ◇


 次の金曜日、修吾が選んだのは、卵焼きの写真が大きく載った居酒屋だった。

 注文した卵焼きは四つに切られていた。

 私が二つ目に箸を伸ばすと、彼が皿を見た。


「今日はちゃんと半分なんだな」

「前の唐揚げ、まだ言う?」

「あれ、俺が二個で、理央が三個だった」

「数えてたんだ」


 私は笑って、卵焼きを一つ食べた。

 帰り際、彼が「少し歩く?」と聞いた。

 駅とは反対の道へ曲がり、人の少ない歩道を並んで歩いた。


「この前の、また会いたいって話なんだけど」


 修吾が切り出した。


「友達として、って意味だったら、先に言ってほしい」


 私は立ち止まった。

 彼も一歩先で止まり、こちらを向いた。


「先週、家に帰ってからも、また理央と二人で会いたいと思ってた」


 修吾は私の顔を見て、続けた。


「だから今日は、友達として誘ったつもりじゃない」


 背中を、自転車が一台通り過ぎた。

 私は肩からずれたバッグを掛け直した。何かしていないと、顔を見ていられなかった。


「私も、友達としてじゃないよ」


 修吾の口元が、ゆっくり緩んだ。


「じゃあ、付き合ってほしい」

「うん。私も」


 彼が息を吐いた。


「よかった。今日、何回言いそびれたか」

「卵焼きの数はすぐ言ったのに」

「あれは簡単だから」


 笑ったあと、彼が手を差し出した。

 私はその手を取った。

 少し冷えていた指が、握り返してきた。


 駅までの道で、修吾が今度の日曜の話をした。


「昼、どっか行く?」

「行きたい。夕方には帰って、洗濯したいけど」

「じゃあ、近場にしよう。何食べたい?」


 私は二つの候補を挙げた。

 修吾も一つ挙げたので、どこにするか、すぐには決まらなかった。

 つないだ手を揺らしながら、改札が見えるところまで相談を続けた。

 結局、彼の候補は再来週に行くことになった。


「じゃあ日曜、十一時に迎えに行く」

「うん。待ってる」


 今度は出かける前から、楽しみに待てる。

 私は手を離す前に、もう一度だけ、彼の指を握った。


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