ウミガメのスープってやつ :約3500文字
「ほお、いい店じゃないか」
夜、作家の男は雑誌の記者を名乗る女に誘われ、とあるレストランを訪れていた。
店は小ぢんまりとしているが、落ち着いた色合いの照明が柔らかく空間を包み込み、木の床やテーブルからはほのかに樹脂の甘い香りが漂っている。少し歩けば海があるため、波が砕ける音がかすかに届いてくる。
席に着くと、男は無意識のうちに目を閉じ、耳を澄ませた。その顔にはどこか遠い日々を懐かしむような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
と、そこへウェイターが音もなく近づき、そっとメニューをテーブルに置いた。男ははっとして目を開けた。向かいに座る女が少し困ったような笑みで小首をかしげていることに気づくと、男は照れくさそうに笑った。
「いやあ、すまないね。つい波の音に聞き入ってしまったよ」
「ふふっ。気に入っていただけたならよかったです」
二人は軽く笑い合い、それぞれメニューに視線を落とした。ページをめくる音が店内に溶けていく。しばらくして、男が小さく「ほおっ」と感嘆の声を漏らした。女は顔を上げ、男の表情を覗き込む。
「どうなさいましたか、先生?」
「ああ、いや、珍しいものがあるなと思ってね」
「珍しいもの、ですか?」
「そう。ほら、ウミガメのスープだよ」
男はメニューを女のほうへ向け、指さした。
「あ、本当ですね。わあ、すごーい」
「懐かしいなあ……」
男は目を細めてメニューの文字をじっと見つめる。その視線は、遠い過去へと伸びているようだった。女はそんな様子を見て、静かに微笑んだ。
「ふふっ。じゃあ、私は何にしようかな……」
「いや、せっかくだから君、これにしたらどうだい?」
「えっ、いえ、私はビーフシチューにしますね」
「そう? じゃあ、僕もそれにしようかな」
「えっ……いや、せっかくですし、先生はウミガメのスープにしましょうよ。ほら、さっき懐かしいとおっしゃってましたよね? 何か思い出がおありなんでしょう?」
「ああ、まあね……」
「記事にもなりますし、それにしましょうよ、ね?」
女に勧められ、男は肩をすくめるように笑うと、結局ウミガメのスープを注文した。
談笑しながらしばらく待つと、やがて料理が運ばれてきた。男の前に置かれたのは、深皿に注がれた琥珀色のスープ。表面には細やかな脂がきらめき、湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「ほほう……いやあ、懐かしいなあ……」
「ふふっ。さっきもおっしゃっていましたよね。どんな思い出があるんですか?」
「ん? ああ、そうだな……そろそろ話してもいい頃かもしれないな」
男は椅子にもたれ、天井を仰ぐように視線を上げた。遠くでかすかに響く波音が耳の奥で徐々に大きくなり、記憶を呼び起こした。
数十年前――。男は友人たちと小型の船で海へ出た。しかし嵐に遭い、船は転覆。命からがら、とある孤島に流れ着いたという。
救助を呼ぶ術はなく、かろうじて持ち出した食料はすぐに底をついた。島に食べ物らしいものはなく、溜めた雨水をすすり、空腹と渇きに耐えながら、ただ通りかかる船を待つしかなかった。
だが日ごとに体力は奪われ、全員、立ち上がれないほど衰弱していった。
もう駄目だ――そう死を覚悟したある日、友人の一人が浜辺でウミガメを捕まえたのだ。自分も手伝い、震える手で甲羅を割り、即席の鍋でスープを作った。といっても、ただ煮ただけのものだったが、その温かさと旨味は今も忘れられない。
おかげで命を繋ぎ、数日後、通りかかった漁船に救助されたのだった。
「……素敵なお話。友情って、本当に尊いものなんですね」
「ふふっ、そうだね。彼、元気にしているかな。あんな体験を一緒にしたのに、数十年も経つといつの間にか疎遠になってしまうものだな」
「そうなんですねえ……あっ、先生。スープ、冷めてしまいますよ」
「おおっ、そうだった、そうだった。どれどれ……」
男は軽くおどけてみせながら、スプーンを手に取った。スープをすくい、ゆっくりと口へ運ぶ。その瞬間――。
「うっ」
「先生?」
「……ウェイター、そこの君!」
男は一口飲んだ瞬間に声を漏らし、さらにもう一口確かめるように含むと、振り返ってウェイターを呼んだ。
その声にはわずかに緊張が混じっており、店内の空気をひりつかせた。ウェイターが小走りで駆け寄ってきた。
「お客様、いかがなさいましたか?」
「君……これは本当にウミガメのスープなのかい」
「えっ、ええ。間違いございませんが……」
「そうか……そうなのか……!」
「せ、先生、どうなされたんですか?」
女が身を乗り出すようにして訊ねた。
「うう……」
「先生……」
「……うまい!」
「え?」
「実にうまい。さすがはプロの腕前だ。島で食べたものとは格が違うよ、格があ!」
「そ、そうですか……」
男は腕を組み、満足げに何度も頷いた。その様子に、ウェイターと女は顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。
「あの、先生。一つ伺ってもよろしいですか?」
「うん? なんだい?」
男はスプーンを口元に運びながら、上機嫌に応じた。
「そんなに違うんですか? 先生が島で飲んだスープと……」
「ああ、違うね。全然違う。まったくの別物だよ」
「どう違うんです?」
「そりゃあ君、まずコクが違うよ、コクが」
「コク……」
「口に含んだ瞬間に広がる芳醇な旨味。舌の上で層になってほどける風味。そしてその奥に潜むかすかな甘み。絡み合うスパイスは実に絶妙なバランスで、それに――」
「ま、まあ、あの島にスパイスなんてありませんでしたものね」
「それだけじゃない。素材そのものが違うんだよ」
「素材……」
「質だよ、質。ウミガメの質がまるで違う。このスープに使われているのは栄養をたっぷり蓄えた上等な個体に違いない。それに比べたら、あのときのウミガメなんてミドリガメ、いや出歯亀だよ、出歯亀! はははは!」
「あ、あはは……」
「いやあ、本当にうまいなあ……。あっ、君も一口飲んでみるかい?」
「いえ……あの、先生?」
「ん?」
「その、何かお気づきになったりしませんか……?」
「んー? 何のことだい? いやあ、実にうまいなあ……」
「そのスープですけど……島で飲んだものと決定的に違うな、と」
「だから君、言っているだろう。違うのは当然。素人とプロの料理を比べちゃ失礼だよ」
「いえ、そういう意味ではなくて……。あのとき、先生が食べたのは本当にウミガメだったのかな、なんて……」
「んん? どういうことかな?」
「ウミガメじゃなかったんじゃないか、なんて……」
「……哲学か?」
「違います」
「じゃあ、クイズか?」
「違います」
「とんちだな」
「違います」
「禅……か」
「だから、違いますって!」
女はテーブルを叩いて勢いよく立ち上がった。カチンとスプーンが皿の縁で跳ね、男は思わず仰け反った。
「先生があの島で食べたのは、衰弱した仲間の肉で作ったスープだったんじゃないかって言ってるんですよ! もおおおう!」
女はそう言い切ると肩で荒い息をした。
男は呆然と見上げ、やがて唇をわずかに震わせた。
「君……どうして、それを知っているんだ……?」
「……なぜだと思います?」
「あいつの……関係者なのか……?」
「ええ」
「恋人……?」
「いいえ」
「じゃあ……まさか、身内か……?」
「はい。兄には年の離れた妹がいました。覚えていませんか?」
「……弟もね」
静かな声が背後から落ちた。ウェイターはいつの間にか男のすぐ後ろに立っていた。男が振り返ろうとしたその瞬間、ウェイターの手が男の首筋へそっと伸びた。
「うっ……」
ちくりと鋭い痛みが走った。男は短く呻き、反射的に首元を押さえる。振り向いた視界の端に細い注射器のようなものが見えた。
「あなたたちが殺したんでしょう。私たちの兄を」
「父も今、厨房にいますよ。そのスープを作ったのは父ですから」
「なぜ……殺したと……」
「兄の葬式のあと、私たちは毎年あの島に通っていたんです。そして、ある年にこれを見つけました」
女は懐から小さな手帳を取り出した。湿気で波打ち、角は擦り切れ、全体的にひどく痛んでいる。あるいは何度も握りしめたのかもしれない。
「兄の手記です。岩の隙間に挟まっていたから、あなたたちは気づかなかったんでしょうね」
「な、なんて……」
「なんて書いてあったか、ですか。あなたたちが兄を殺す相談をしていたことについてですよ」
「違う、違うんだ……本当に、あいつは……彼は衰弱して先に……」
「無駄ですよ。もう一人のお友だちから全部聞きましたから」
女は淡々と告げ、テーブルのスープを指さした。男がテーブルに手をついた。琥珀色の表面がわずかに揺れ、脂の膜の下から白い肉がふわりと浮かび上がった。それは淡い光沢を帯びて艶やかだった。
「もう一度聞きます。そんなに味が違いましたか?」
男は答えなかった。ただ崩れるようにしてテーブルへ額を押しつけた。
ウェイターが背後から男の体を抱き上げ、厨房へと運んでいく。
だらりと垂れた手足がゆらゆら揺れる。
まるでウミガメのヒレのように。




