夕暮れのカラス
学校からの帰り道で見たんだ。僕は中学校を出て、川沿いに自転車を走らせていた。
夕焼けだった。カラスが飛んでいた。
橙色に染まった空に灰色の雲がとろけていた。
見渡す限り橙色の、夕方という一つの世界。
熟れた果実の色が世界を満たして、風のない川辺の上空で、太陽も雲も、なにもかもが夕方五時で停止する。
そんな不動の背景の中を、黒い塊が飛びすさぶのが見えた。
頭上、遥か上を一羽のカラスが羽ばたいている。
ぱたぱたと羽を動かしながら、旋回してみたり宙返りしてみたり。ちょこまかと五時の中空で遊んでいる。
あの暮れ方の小宇宙が自分のために存在するかのように。
僕は自転車を止めていた。僕の視線は一羽の鳥に釘付けだった。
生きている、と思った。胸に痛みすら感じた。
この世界の中で、あいつこそが生きていた。
自由だとか、気ままだとか、自信とか傲慢とか傍若無人とか、なにかそういう単語が脳内でパンパンになるまで膨らんで、爆ぜるように萎む。
いつしか僕は涙を流していた。
理由は知らない。無理やりとってつけるなら、「あいつが生きていたから」? 意味不明だ。
ただ確かなのは、僕はあのカラスを見て衝撃を受け、「あいつのようになりたい」と思ったこと。それが強く強く、心に刻み込まれたこと。
そして次の日、学校を休んだことだ。
水曜の授業をずる休みして、僕は絵を描いた。
絵が趣味なわけでもなければ、得意なわけでもない。ただ何か、描きたいと思ったのだ。
美術の授業のために買ったスケッチブックを取り出して、パレットに絵の具を乗せた。
竜の絵でも描いてやろうかと思ったのだが、たまたま無意識に橙色をパレットに乗せたところだったので、夕方の絵を描くことにした。
橙を水で薄め、スケッチブックにぺたぺたと斑点をつけていく。
でも何か違うと思った。もっと、あの夕焼けの色はこんなものじゃなかった。あの空を焦がすような濃密な暮れ時の空気感はこんなものじゃない。違うのだ。
パレットに赤を混ぜ、黒を混ぜた。分量を間違えたのか橙色ですらなくなってきたので、橙を追加投入し、それなりに満足のいく色を作り上げた。
太陽は描かなかった。あの時、僕の視界に太陽はいなかったから。
橙色をスケッチブックの一面に塗りたくり、白、灰色、黒をないまぜにして雲を描いた。
絵が完成に近づく頃には、日が傾きはじめていた。半開きの窓から生ぬるい風と赤く焼けた日差しが侵入した。
橙の背景に溶け込んだいくつもの雲。絵はほとんど完成していた。
そして最後の最後に、スケッチブックの中央に黒い鳥を描きこんだ。
欠席の連絡を入れなかったので、翌日に担任の先生にこっぴどく叱られた。学校をさぼって絵を描いていました、と馬鹿正直に喋ったからだ。
なんとなく、嘘はつかなかった。つく必要などないような気がした。もともと大して優等生というわけでもなかったし、きちんと嘘をついて休んだこともあったのだが。
呆れながら怒る先生に、大事なことだったので、と言い続けていたら、呆れ果てたのか、そのうち解放された。
特に反省の気持ちは起きなかった。
しかし、結果的に言えば、僕はそれ以降一度もずる休みをせず中学を卒業した。叱られたのが効いたのかもしれない。
絵はホームセンターで二千円ほどかけて買った額縁に入れて、今でも部屋に飾ってある。
早いもので、もうあの日から十年以上が経った。僕は社会人になり、社会の荒波というやつに現在進行形で揉まれている。
でもなぜか、あまり不満という気はしない。
働くことには辛さもあるが、そういう時こそ、生きている、という感じがするからだ。
絵を見るたびにあの日の夕焼けを思い出す。いや、思い出しているのはカラスの方かもしれない。
夕暮れ時の異世界の中でただ一匹、空を飛び回っていた名もなきカラス。それでも確かに、あの空間の誰よりも生命を全うしていたカラス。
それに衝撃を受けながら、あの日、中学生の僕は負けん気を起こしたのだ。
僕だって生きているのだ、と。
そうして絵を描いた。それは称号であり、証明だった。
ほら、僕も生きているじゃないか。
中学生の僕はそう主張したのだ。その主張を刻み込んだこの絵が、今も僕に勇気をくれる。
生きた証というものがあるとしたら、僕のはこれだ。この絵だ。この絵を描いたという事実がそうだ。
確かに僕は存在していた。生きていた。今だって生きているんだ。ざまあみろ。ざまあみろってんだ、神。
不安なんてどこにもないぞ。僕を見てみろ。あの絵を、あのカラスを見てみろ。
今日も僕は川沿いを帰宅する。蒸し暑い夏の時分には、午後七時の残業後の空にも橙の光が散っている。
赤橙の小宇宙をカラスが舞う。今日は二匹、つがいのようだ。風のない夕焼け空をすいすいと交差するように飛びすさぶ。
見慣れる程に思う、なんてことのない景色だ。
だが、これほどまでに希望的な光景を僕は知らない。
夕暮れの空にカラス。見かけるたびに僕は無性に叫びたくなる。
おい、神とやら。聞こえているか。僕を見ろ。あのカラスを見ろ。
僕らは生きているんだ。
この人生は、僕のものだ。
誰にも渡さない。僕のものなんだ。ざまあみろ!




