引き金を引いて
僕の目の前にいる女性はとても悲しそうな目をしていた。
「何かあったんですか」
問いかけたのだが彼女は依然として僕を見つめたまま答えようとはしない。
「どうして、そんな顔してるんですか」
居た堪れずに再度質問をするとやっと彼女が口を開く。
「あなたに会えたから」
表情は変わらないのに声がどこか嬉しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。しかし、僕は目の前の女性との面識を持っていなかった。
「誰かと勘違いされているんじゃありませんか?」
「いいえ、私が会いたかったのは確実にあなたよ」
そう断言されてしまうと僕が記憶違いをしているのかと自身の記憶に自信が無くなってしまう。
「そうね、あなたの右脇腹に幼い頃の傷跡があるでしょう?」
「な!どうしてそれを!」
その話は事実だった。確かに僕は幼少期に木登りで高所から落下した時に木の枝に脇腹を打ちつけてしまい何針も縫う怪我をした。そして今も傷跡が残っている。だがこの事実を知っているのはせいぜい親かその場にいた同級生ぐらいしかいないはずだった。
「もしかして僕の同級生ですか?」
「いいえ、違うわ。傷跡の件はあなたが思ってるよりずっと前の話よ」
僕は訳がわからなくなった。どんなに記憶を掘り起こしても彼女のような人物は該当しないし、傷跡の話は僕も思いつかないであろう過去の話だという。
「目的は何ですか?」
半ば彼女の得体の知れなさに恐怖を覚え少々剣呑な言い方になってしまったが彼女はこともなげに優しく言った。
「あなたが幸せになるところを見に来たの」
「僕が?うーん、でも僕は人並みの生活を送れているのである意味もう幸せですよ」
「そうじゃないの。きっとこの会話は記憶に残らないから言うけれどあなたには近々恋人ができると思うわ」
先程もそうだが話の展開がかなり跳躍した気がする。確かに最近気になっている人ができたことは事実だった。もしかしたらその人と恋人になるのかもしれない。
「つまり、僕がその恋人とゆくゆくは結婚して家庭を築くことが幸せだというのですか?」
「概ねそうね。私はそれを見届けに来た」
「それでその、あんたに何のメリットがあるんですか?」
「心置きなく引き金を引ける」
彼女はまたもや訳のわからないこと言い出し僕は思わず頭を抱えた。
「申し訳ないんですけど、言ってる意味がわからないです」
「わからなくて良いわ。これは私の自己満足だもの」
「あと、薄々勘づきましたけどこれって夢か何かですよね?」
「あぁ、気づいちゃったのね。じゃあそろそろお話し出来なくなっちゃうかも」
僕は急に焦り始めた。もしかしたらもう二度と姿を現さないかもしれない彼女に後悔のないような会話をしないといけない気がしたのだ。
「あんたは、僕のことが好きだったんですか?」
言って早速後悔した。僕はナルシストではないはずだが今の発言は完全に自惚れている。恥ずかしくなり俯いていると近くで声がした。
「うん。今でも好きよ」
いつの間にか距離を詰められており咄嗟に後退る。
「びっくりした!不意打ちは良くないですよ」
「ごめんね?とても久しぶりに会えたから嬉しくてつい…」
何だか憎めない人だなと思いながらふと疑問に思う。
「僕のこと好いてくれるのはこちらも嬉しいんですが、僕に恋人ができても良いんですか?」
「なかなか鋭い質問ね。とても正直に言ってしまうと嫉妬でどうにかなってしまいそうなくらいには引き止めたいわ」
「本当に正直に言いますね」
「でも、やっぱりあなたには幸せになってもらいたいの」
彼女は僕に優しく微笑みかける。いまいち彼女の心情が読めず暫し閉口してしまったがやがて口を開く。
「あんたはそれで幸せになるんですか」
どうやら思いがけない質問だったようで彼女は一瞬目を見開いたが少し思案する素振りを見せた。
「きっと幸せなんじゃないかしら。好きな人が幸せになるところを見れるんですもの」
「歯切れが悪いですね」
「仕方がないわ、こういう経験したことないもの」
彼女は困ったように眉を寄せる。何となくもう目が覚めてしまいそうな気がしたので最後に彼女に質問を投げかける。
「さっきは告白をさせてしまったみたいで申し訳なかったです。それで、今から僕と付き合うというのはなしでしょうか?」
「それは私にとっては嬉しい申し出だけれどあなたとは付き合えないの」
僕は納得がいかず少し眉間に皺を寄せる。
「確かに僕にとってあなたは初対面ですし好きな食べ物も好きな色も何もわからない。でもこれからあなたを知っていけば好きになるかもしれないし、僕はもっとあなたのことが知りたいです」
僕は自分で思うよりも必死になって捲し立ててしまったが、彼女は寂しそうに笑いかける。
「私は狡いから、こんな特殊な環境を作り出してあなたにそんなことを言わせてしまった」
彼女は再度、僕に近づき手を取る。
「あなたの幸せを願っているはずなのに、あなたに私の事を知りたいと言われてとても嬉しかった」
彼女の手が僕の手を両手で優しく包み込む。
「だから、こんな私があなたのそばにいてはいけないのよ」
ゆっくりと手が離されていき彼女も僕から遠ざかろうとする。
このままだと一生会えなくなってしまいそうで僕は咄嗟に彼女の手を掴み体を引き寄せた。
「あんた、めんどくさい人ですね」
少々直球に言いすぎたのか彼女はムッとした顔になる。
「でも僕はそういう人好きですよ」
今度は顔がみるみる紅くなっていく。僕は表情の変化に内心面白さを感じていた。
「揶揄わないで!あなたはいつでもそうやって私の心を乱していく」
「その口ぶりだと過去にも僕があんたにちょっかいをかけたみたいですね?」
「そうね、でも私が一方的に好きになっただけよ」
「今度はあんたを好きになるかもしれません」
「残念だけど、あなたの運命は決まっているの。さっきも言ったでしょう?あなたはゆくゆくは結婚して幸せな家庭を築くの」
必死に僕から離れようと彼女がもがいているが力が弱くびくともしない。
「それに今のあなたには気になっている娘がいるはずよ」
「確かにいます。でも気になっているレベルでまだ恋かもわかりません」
彼女は掴まれた手を振り解こうとしていたので僕は手を絡めて握りこむ。
「どんなにあなたが口説いても、この記憶は残らないわ」
「なら、また夢に出てきてくださいよ」
「悪いけど無理よ。そもそも会えたこと自体奇跡のようなものなの。本当は会うことすら許されないから」
僕は俯く彼女の頬にそっと触れる。
「ならせめて僕のことを忘れないでください」
「何言ってるの。あなたのことは片時も忘れたことはないわ」
見上げる彼女の瞳が潤んでいる。
「あんたの知る僕がどんな人なのかわかりませんけど、少なくともあんたを選ばなかったなんて見る目ないですね」
「そんなことないわ。あなたは今も昔もずっと人の本質を見極めることに長けている。そんなあなただから幸せを掴めるのよ」
彼女も僕の頬に手を添えて愛おしそうに撫でた。
「あんたとは一緒に居れないんですか?」
「居れないわ」
「もう二度と会えないんですか?」
「そうね、私はあなたのことを見守れるけれど」
「それは狡くないですか」
僕が少し拗ねていると、突然体が軽くなりふわっと宙に浮かんでいく。
「長居しすぎたわね」
彼女は今にも泣きそうな笑顔で僕の手を離そうとする。だが離すまいと掴む手に力を込め強く引っ張り僕の元へ引き寄せた。
「もしあんたが会えないっていうなら僕から会いにいきます。何年先になっても、たとえ来世になっても」
僕が彼女を抱き留めると僕の背に彼女の腕が回る。
「あなたにとっては出会って間もないはずの相手なのに、そんな約束しちゃって愚かね」
「ほっとけないだけですよ」
「もう、そういうところよ。じゃあ、期待しちゃうからね」
彼女の腕がゆっくりと離れ、僕も名残惜しくも掴んでいた手を離す。
どんどん彼女から遠ざかり僕も意識が遠のいていく。
最後に頭の片隅にあったのは僕が幸せになったら引き金を引けると言っていたことだった。ぼんやりと『自殺』の言葉が浮かんできたがもう深く考えられず一気に引き上げられる感覚に陥る。
目が覚めると見慣れた天井が出迎える。何かとても重要な夢を見ていた気がするが何も思い出せなかった。
ただ、妙に手が温かい。
僕は大事なものを包むようにぎゅっと手を握り込んだ。