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銀色の光

「……収まった?」

「は、はい……恥ずかしいところ、見せちゃいました」


 カズハさんの手のひらが私の背中から離れたのは、それから十分ほどしてからだった。

 涙が収まるころには厚い雲が再び光を遮っていて、先ほどまでの光景が幻だったように、世界は灰色へ収まっていく。けれど、雨はもう降っていない。

 カズハさんは立ち上がって背中の傘を持ち帰る。その間に私も立ち上がって、パンツの汚れをさすって落とす。


「カレンさん、今ってどこに住んでるの?」

「そんなに離れてなくて……一応、このあたりのアパートです」

「私の家と、そんなに離れてないんだね。……もし、クビになって家賃とか払えなかったら、こっちの家使っていいからね」

「あ……その、家賃とかは、払ってなくて……」

「……ま、ここの人なら大体そうだよね」


 傘のテープを巻く彼女に、今度は私から訊いた。


「カズハさんのおうちって……どのあたりなんですか?」

「ここからもう少し南の……『平和の森公園』ってわかる? あの辺」

「あ、確かに近いですね」


 ここか少し南東にある、大きな公園。数度ほど積み荷の受け渡しで近くを通ったことがあるけれど、歩きでも楽に行ける距離だ。

 カズハさんは私の反応を見ながら、


「そうでしょ? 深夜とか、公園の広場にいるからさ。いつでも遊びに来なよ」


 そう言って、何本目かのたばこに口をつけた。すぐに「行きます」と言おうとしたところで、私の計画が脳裏をかすめる。

 ――お金を貯めて、サワイおじさまの家族になるまで、あと一カ月。

 クビになった分の仕事を探して、そこで働いて。働く時間は時給によるけれど、ゲットーで募られる労働の大半は、前のコンビニと大差はない。


 早朝から働いて、新しい仕事を昼から夜までこなして。

 多分、そんな余裕が出るとしたら――ゲットーからいなくなる頃だ。

 口八丁で適当に答えればいいものを、頭でこねて考えてしまう。私の返答は、優柔不断なものになった。


「……仕事が無い日とか、できれば……!」


 仕事が無い日なんて、自分から作らないくせに。

 口から出た言葉に、胸がつんと痛む。


 自分の感情を理解して、それでも私は、この環境を脱したいという思いが勝る。

 好きな人のこととか、その誘いとか……本当なら何も考えずに乗りたい話を、死臭が遮って現実に引き戻す。

 この世界から、いなくなりたい。

 清潔な世界があるなら、そこに行きたい。

 安心への欲求が、いつもひとらしい感傷をかき消す。


「……そうだね。いつでも待ってるから」


 私のもやもやした返答に軽く微笑んだカズハさんは、そのまま翻り歩き出す。徐々に小さくなる背中に向けて、声を上げる。


「……傘、ありがとうございました!」


 カズハさん。

 名前を知っているだけの彼女。会っていた場所で会えなくなり、これから会えるのかも知らない人。

 それでも、もしもがあるなら――口をついて出たのは、そんな言葉だった。

 偶然にも、助けてもらったあの時に、言えなかったものと同じ言葉。


「ま、また……!」


 私の声に、彼女は歩きながら手を上げて返す。


「うん、またね」



 それから一晩が経つ。朝が来る直前、一番冷たくて、暗い時間。

 ろうそくの明かりで手元を照らしながら、私は古紙にいくつも数字を書き散らして、計算し続けていた。

 これまで貯めたお金の分、必要になる金額……差額を日数で割り、日給がいくらなら空き日を作れるか。

 何度か計算をしても、出てくる答えが予想を超えることはない。


「そもそも、休めるかどうかもわかんないし……」


 古びたボールペンを地面に置いて、首の後ろで手を組む。

 そもそも、数字の上で数えるなら、私は昨日休んだことになる。その分を加味して考えると、結局長い時間働くか、あるいは――そこまで考えて、自然と首を横に振る。


「……やっぱり『それ』はなし」


 アップマーケットとゲットーの間にある環状線跡の高架下。そこには『買い』に来るアップマーケットの住人の遣いを待つように、男女問わずゲットーの住民がいる。

 私からしたら目が飛び出るような額で、自分を『売る』彼ら。目標にしている金額を得るにあたっては、きっとそれが一番効率のいい稼ぎ方なのかもしれない。


 でも、それは本末転倒だ。

 私がそうしたとして、サワイおじさまはなにを思うだろうか。もし私がそこで立っているのを『買わない』彼に見られたら――それは、私自身が『売る』ことをどう思っているかとは関係ない。

 私自体は、この世界で生きるためにそこで『売る』彼らを立派だと思っている。こんな世界に生きて、その日の水も買えなくなるくらいなら、手段を選ぶ必要はない。


 ただ、自分がやるのは怖い。それに、そもそも経験が無い。

 頭で散らかった数字と思考、その刹那に彼女の顔がちらついた。

 ――カズハさん、嫌じゃないかな。


「――違う! ……や、違う、わけでもないか……」


 とっさに出た言葉に思考が追い付いて、すぐに否定した。

 わかっている。これから会えない可能性の方が高い相手だとしても、その人がどう思うかは気になる。

 今更、それっぽい社会通念では、この感情を否定できない。


「……結局、オノデラさんに聞くのが一番いいかな……」


 シロアリのオノデラさん。せんせいを知っていて、運搬する資材の供給減を探していた私を助けてくれた人。私が運んでいるのは金属類だけど、頼み込めば別な資材の運搬も発注してくれるかもしれない。


「……よし、決まったし、出よう」


 数字の並ぶ裏紙を千切って、ポケットに詰めた。そのまま立ち上がり、洗面台に向かう。乾燥した顔に厚ぼったく塗りこんで、最後に生乾きのジャケットを身に纏う。

 昨日二回も流した涙の腫れは収まっているし、いつもより化粧の乗りがよく見える。

 錯覚なのか、別な理由なのかはわからない。けれど、いつになく頭がすっきりしていて、気分も悪くない。

 沢山泣いて、それを受け止めてくれる相手がいたからだろうか。


 ドアを開けると、いつもとは違った景色が見えていた。

 外は夜明けの気配を見せないような真っ暗闇で、いつもなら見える折れた電波塔の姿も隠されている。

 今までなら縄を持ったままか、眠っているか。未知の世界に向けて鍵を閉めた私は、少しだけ軽やかな足取りで駐車場へ向かう。


 車を走らせて少しすると、校門が目に入った。暗がりの中でも開けっ放しになったそこから入り、いつもの場所で車を停める。


「……あれ、いない」


 資材を持った男たちが種類に分けて並べ、置かれている。朝方とは違う小さな山がいくつもある中で、普段ならその中心にいる男の姿が見えない。

 近くを通りがかったタンクトップの男に、思わず声をかける。


「あ、あの……オノデラさんって、もう来てますか?」

「あ、運搬の……あの人なら、さっき裏庭の方に行ったよ」

「ありがとうございます……ちょっとお話したくて」


 一礼をして、男が指を差した方へ向かう。校舎前にある、赤さびた立て看板。現在地と記された赤い点から校舎をまたいだところに、ペンで手書きされた「裏庭」の文字があった。


 校舎脇をすり抜けるようにして、土の上を歩く。校舎の角が見えてきたところで、オノデラさんの大きな声が聞こえてきた。

 私がかけようとした声は、かき消される。


「あ、オノデラさ――」

「いやぁ~! いい趣味してますよね、本当に!」


 誰かと話している様子で、私の足は止まった。割り込む必要もない、話し終わったのを見てから行けばいい。そう思って、角に背中を預けてしばらく待つ。

 誰と話しているのだろう。考えていると、オノデラさんの声は続いた。


「『ポッド・ゼロニイロク』の話も嘘だって信じ込ませて、バカなガキに夢見せて! そもそも戸籍と金が必要なんて話も、嘘なんでしょう?」


 普段私と話しているときより、ずいぶん乱暴なしゃべり口調をしている。

 ポッド・ゼロニイロク?

 疑問に思うのと同時に、反芻した内容に違和感を覚えた。


 ――ガキ。

 ――戸籍。

 ――金。


 まるで、私のことみたいだ。

 ――嘘?


「いや、僕はねぇ、しみったれた連中より、あぁいう女を食うのが一番好きなんだよ」


 話す相手の声が聞こえた。少し体重を感じる、重たい声。聞いたことがあるような気がして、音に注意しつつ角から覗く。


 顔はよく見えない。けれど、わずかな光を反射した彼の口元が、一瞬銀色に輝いた。

 ――サワイ、おじさま?

X:https://x.com/G_Angel_Project

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