太陽の光
「それで、今日は休みだったの?」
傘を脇にかけて隣に座ってきたカズハさんは、私に目を向けながら訊いてくる。
「……ちょっと、しばらく働けなくなったというか……またお仕事を探さないと、です」
「ふーん……クビ?」
「は、はい……」
彼女の視線に目を逸らし、地面を見ながら言葉を返す。彼女はジャケットをまさぐると、くしゃくしゃになったたばこの箱を取り出した。細長い指で挟んだ一本を口に咥え、ジッポライターで火をつける。
赤くなった先端から煙が揺れる。白い吐息と一緒に吐き出される副流煙は私に届かず、ビニール傘越しの空へと舞い上がった。
少しだけ、甘ったるい匂いがする。
「カレンさん、悪いことでもしたの?」
「い、いや……人、減らさないといけなかったみたいで」
とっさに嘘をついた。あなたが守ったせい――なんて、口が裂けても言いたくない。灰がかった空の雲は動かないまま、ゆっくりと時間が流れる。
「そっか、私と一緒で――悪い子なのかって、思った」
「わ、わるいこ?」
「うん。カレンさん、いつも真面目だし、気も遣えるのに。クビになるなら、知らないところで何かしてたのかなって」
「……そんな勇気も、ないです」
雨粒の音で消え入りそうな声。体育座りの脚を抱えていた両手に、きゅっと力がこもる。悪いことをするほどとは言わないけど、もう少しだけの自信と勇気が欲しい。
――君、代わりに死んでくれんの?
店長に言われたことが頭に過ぎる。あの時「そんなわけない」って怒れる人間だったら、どれだけ楽に生きられただろう。今の私には、堂々と生きる自信もなければ、死ねる勇気もない。
ただ、目標じみたものへの執着だけが、今の私を生かしている。
首元が鈍く痛い。自嘲気味な笑いが漏れた私に、カズハさんが声をかける。
「……じゃあ大丈夫だよ」
「……え?」
顔を向けると、二本目に火をつけていたカズハさんと視線が合う。私の目を確認した彼女は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「やっと見てくれた」
「え、え、えっと」
「――ふふっ、カレンさん、顔赤いよ」
「えっ?」
言われて気づく。頭に血が上ったみたいに、冷えた体に熱がこもる。降りしきっていた雨はいつの間にか小雨になっている。雑音の減った世界で、カズハさんの声がよく響く。
「勇気も無いのに、真面目にやれて。自棄になっていいのに、まだ働きたいんでしょ?」
「……」
「大した事ないって思っているかもしれないけど、私は、カレンさんのそれは『才能』だと思うよ。大丈夫、私は知ってるから」
柔らかい声が、耳を通して心臓を熱くする。言葉にできない感情で再び地面に視線を向けると、雨はすっかり止んでいた。
入れ替わるように、軒下には光が射す。見上げると、厚い雲間を縫うようにして、真っ白な光が私たち目がけて照っていた。
「……」
「太陽の光なんて、久々に見た」
隣からの声がぽつりと聞こえた。光が私たちの姿を明るくして、濡れそぼっていた服に色と温かみを宿す。
灰色がかかった世界が、元の色を取り戻していく。
「……」
「……カレンさん、泣かないでよ……」
「な、なんか、うれ、うれしくって、ひぐっ……」
「……」
開きっぱなしになっていた傘は、カズハさんの手で背中に放り出される。手で顔を覆った私の背中に、少しだけ冷たい手のひらでさすられる感触がした。
それは、雨と一緒に流した涙とは感触が違っていた。
なんでこんなに心が熱くなるんだろう。胸は痛いのに、どうしてこの痛みは嫌いじゃないんだろう。
たばこの甘い匂いが、つんとした鼻をくすぐる。
この感情には、なんて名前を付けたらいいんだろう。
♪
記憶が蘇る。
――せんせい、カレンね、せんせいとけっこんする!
黄土色の床、古びた本。ぼろぼろの教室の中で、私と一緒に何人かの子どもたちが椅子に座っていた。私の言葉に反応した彼らが、口を出す。
――カレンずるい、うちも!
――えー、せんせいはだれとけっこんする?
せんせいと呼ばれる男は言った。
「嬉しいけど、僕はみんなと結婚できないんだ」
そう言って笑うせんせいの後ろには、見えないように倒されたままの写真立てがある。当時の私はその意味も理解できなくて、拒絶された悲しさですぐに泣きだしていた。
――ひどい! せんせいひどい!
――あー、なきむしかれんがないた!
――ないてないし! ないてないし!
頭をぽりぽりと掻くせんせいは、私たちみんなに向かって困ったように笑う。
「うーん……みんなにはいつかね、先生より大切な人が、必ずできるからね」
――たいせつ?
「そう、その人のことをずっと忘れられなくて、その人といると嬉しくなって、元気の出る人」
――せんせいにもいるの?
「先生にもいるよ。それでね、みんなにも、きっとできるよ」
わらわらと近寄ってくる私たちに笑いかけながら、せんせいは言った。
「本当に大切で、好きな人」
♪
雨が作った水たまりが光を反射して、きらきらと光っている。いつぶりかの眩しさと暖かさ。
だけど、体の内側に感じる熱は、きっとそれだけじゃない。
あぁ、そういうことか。
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