もうここにはいられない(★)
昼までは、何も変わらなかった。
人前に出られる顔にして、オノデラさんのところで積み荷を受け取り工場へ運び、次の仕事先へ向かう。もうすぐ終わらせることができる、いつも通りの日々。
車道からコンビニが見えてくるところで、店の前に普段いないはずの人影が見えた。
「あれ……店長、だよね?」
ここで仕事を始めてから、数度しか見たことのない店長。うっすらと覚えている顔の近くで車を停めて、声をかける。
「……おはようございます」
「あぁ、やっと来た!」
誰もつけていない店用のエプロン。細身の体に無精ひげを纏った顔は生気が無く、どこか焦っているように見えた。怪訝そうに伺う私を察してか、店長は足早に店の脇へ向かっていく。
「とりあえずさ、裏口来てくれる?」
「……? え、わかりました」
彼の後についていき、店の外をぐるりと歩く。誰もいない裏口は天井で蜘蛛の巣が張っていて、埃っぽい息の詰まる空間が広がっていた。雑多に折り曲げられた段ボールが散らばっていて、あちこちで虫が走る小さな音が聞こえてくる。
店長は窓越しに数度店の中を確認してから、少し怒りのこもった口調で話し始めた。
「昨日の勤務の時、ここに強盗来てたでしょ?」
「え? は、はい……そっか、カメラに映ってるか……」
目が丸くなる。予想していなかった方向からの話題で、返事が戸惑いを帯びたものになった。そんな答えに、店長はため息をついてから腕を組む。
「で、でも……お客さんに追い払ってもらいました。それに、お金は持っていかれてないです。確認も――」
「あのね……困るんだよ、ああいうの追い払うと」
「え……え?」
困る? 強盗を、追い払って? どうして?
言葉に詰まった私に対して、彼の言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。
「え、わかんない?」
「わかんない、というか」
「君さ、ここで働くようになってどんくらいだっけ?」
「い、一年くらい、です」
「……はぁ……あのさ、あぁいう手合いを追い払ってさ、もし復讐されたらどうすんの? 君、代わりに死んでくれんの?」
言葉が出てこない、視線も定まらない。そわそわしたまま空いていた両手を、自分で握りしめる。
「え、え……」
何から言えばいいのか。どうすれば、許してもらえるのか。私が答えに困っている間に、店長の顔はどんどん赤くなる。
「あぁいう手合いは適当にレジの金渡してごまいて、刺激しないってのが鉄則なの! 下手に抵抗したり、喧嘩売ったりしたらさ、ここが燃やされたり、俺が殺されるの! え聞いてる?」
「あ、え……えっと」
「今回さぁ、君どう対応した?」
「……お、お客さんに、追い払ってもらいました」
「……はぁ……」
店長はうなだれたまま、一番長く息を吐く。そのまま続けようとした言葉を遮るために、自分とは思えないような声が出た。
「ま、待ってください! 私、まだここで働かないと――」
「じゃあ店の代わりに燃えてくれる? それとも俺の代わりに死んでくれる?」
「そ、それは……」
言葉が途切れる。どうすればいいのかわからない。困っている私を見ながら、店長の声は少しトーンダウンする。
「……売上の抜きなし、万引きなし」
「……え」
「君はよく働いてくれてたと思うけど、次に同じ奴が来たら、俺は言わなきゃいけないんだよ。『あの時のバイトはクビにしました、これ渡すので許してください』って」
「……」
「だからまぁ――そういうことで」
そう言った店長は、黙ったままの私に封筒を渡す。手に取ると、少しだけ厚い紙の詰まった感触がある。中を覗くと、今週分の給料に少し上積みしたくらいの紙幣が入っていた。普段はロッカーに置かれている給料――手切れ金、ということだろうか。
視線を上げると、もう店長はいない。追いかけるように裏口を出ると、少し湿り気を帯びた風が吹いているだけで、人の気配はどこにも残っていない。
表の駐車場で店内を覗くと、レジ番にいる店長が何の気なしにたばこを吸っていた。
「……あはは」
風に反比例するように、乾いた声が出る。
「……大丈夫、大丈夫」
体を売らなくたっていい仕事は、どこかにある。たまたま間違えただけ、気にしないでいい。
湿り気が徐々に強まる中、私は一度店にお辞儀をして、車に乗り込んだ。
「とりあえず、いったん帰ろ……」
エンジンを吹かして車を進めていくと、水玉がフロントガラスを叩く音がした。はじめこそぽつぽつと穏やかだったそれは、住み処への道を進むほどに雨量を増していった。
ワイパーを起動して、CDのボリュームを上げる。雨音も、揺れる感覚も、そのすべてが鬱陶しい。途切れかけるメロディに合わせて、鼻歌を口ずさむ。
「ふーん、ふーん、ふーん、ふーふーん……♪」
白みを増す視界の中、自分を勇気づけるように。
ふとした思い付きが、何回も繰り返し聞いていた曲に言葉を載せた。
「なーみーだ、なーら……♪ぬーぐーう、かーら……♪」
アップマーケットにさえ住むことができれば、こんな苦しみを味わう必要だってなくなる。お金持ちの人らしく振舞えて、汚くて臭いこの世界からお別れして、ちょっとした名残惜しさなんてすぐに忘れて……。
「……なに、いまの。はずかし……」
求めていない価値基準で値踏みされるような視線も、得られるものに不釣り合いな理不尽も、きっとなくなる。
作り笑顔じゃなくても、はにかめるようになる。
「……ふーっ」
だから、今起きていることなんて、気にしなくてもいいはずなのに。
「…………ひぐっ」
視界がにじむ。
「うっ、うぅっ、うぅ……」
どうしてだろう、こんなに愛されたいのは。
『願い』や『夢』。あの時考えることをやめたその答えは、自分が思うより単純だったかもしれない。
死にたいって思わないでいいくらい心の底から、私が愛せる人に、愛してもらいたい。
でも、どうすればそんな理想を叶えられるのか。わからなさが嗚咽になって、車内で響き続ける。
遠くで、クラクションが鳴る音がした。
♪
アパートの駐車場に車を停めて、さめざめと降りしきる雨の中を一人で歩く。雨になると、いつも見るジャンキーは影を潜め、廃墟が続く街並みはやけに静かだった。普段の臭気も雨粒の中に閉じ込められて、ほんの少し息がしやすい。
今日みたいな日の雨は、嫌いじゃない。月並みな言い方になるけど、見せたくないものを隠すことができる。
傘も差さずにめくられたアスファルトの上、あてもなくさまよい続ける。冷たくなるジャケットと体、口元を両手で覆いながら息を吐くと、白んだ気霜が曇った空に消えていった。
顔がどろどろになって、スニーカーの底越しにじゃぶじゃぶと水気が波打つ。どれくらい歩いていたかわからないところで、何の気なしに見つけた建物の軒下に座り込んだ。
屋根の小さなでっぱりが、ほんのわずかながら雨宿りの役割を果たす。ジャケットの袖で溶けていったファンデを拭うと、素肌が直に雨粒を受け止めた。
「……あー、やらなきゃいけないこと、沢山あるのに……」
衝動で始めたにしては、少し歩きすぎた。新しい働き口はどうしようか、オノデラさんのシロアリで、別な資材も運べないか聞いてみるのもいいかもしれない。
春の終わりの雨の下、ぼんやりとしたままに考えをまとめようとする。けれど、泣いた後に残る胸の熱が、まともな思考を阻害し続けた。
「『願い』とか『夢』……」
十分もすると、結局考えるのはそのことになってしまう。
不意に、口にしていなかった思考が口元を過ぎった。
「――愛されたいな。なんて……」
そんな時。
バサッという音と同時に、見上げていた空がビニールのフィルターをかけられた。
私の体は一瞬こわばる。――ぼろぼろのビニール傘だ。
「――え?」
「……風邪引くよ、カレンさん。ゲットーには、薬もないんだから」
ふいに右横からかけられた声。
私はこの声を知っている。澄んでいて、柔らかくて、なぜだか忘れられなくて――。
声の主は私の前まで歩くと、私の頭上に傘を差したまま、少しだけかがんでみせた。
「あの時、名前言えてなかったね。私はカズハ。――出海和葉」
「かずは、さん」
「働いてなかったから、ちょっと心配してたけど。帰り道にいたからびっくりした」
そう言って、彼女ははにかむ。
運命論なんて信じない。
私の前にいつもあったのは、身近な絶望と遠くに見える希望。もし「運命」があるのなら、遠くの希望はまやかしで、私の未来はもう書き換えられない。
そんなの嫌だって、思っていた。
それでも、もし運命――運命の出会いなんてものがあるとしたら――こんな風にやって来るのかもしれない。
金髪に隠れた茶色い瞳は、私の目にそう映っていた。
挿絵:えみりお
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