1_6 アップマーケットの住人
後年『ネガティブ・ワン』と呼ばれる巨大災害は、メディアに報じられていない一方、数年前から研究などで大まかながら予期されていた。
しかし、当時の情勢自体が、具体的な予測もされていない災害危機の対策に税金を使うことへの忌避を産み、結果として国家からの災害対策はほとんどされなかった。
それに対して特別に危機感を抱いていたごく一部の富裕層は、日本各地で各々対策を講じることになる。
東京は、環状線の内側が富裕層向けに造られた防災要塞へと変貌を遂げた。
ネガティブ・ワンが日本をゲットーへ変える中、日本各地の要塞においては、その多くが被害を受けずに生き残った。
人口を大幅に減らした日本で、ほぼすべての経済価値を持つ少数集団。
彼らや、彼らの居場所を指して、ゲットーの人間は『アップマーケット』と呼ぶ。
『せんせい』が、私に教えてくれた話だ。
サワイカズヒロ。金属加工や再生資源の海外流通などを主な仕事にしていて、私がシロアリから持ち込んだ金属を持っていく工場も保有している。
今の私を管理する雇い主であり、未来の父になる人。
彼の横には、黒スーツを纏った筋骨隆々な男たちが並んでいて、周囲のあちこちに目を凝らしている。
そんな様子を気にも留めず、サワイさんは私を足先から頭まで一通り見ると、少し歯を見せて笑った。顔に不釣り合いな銀色のグリルには、透明な宝石があしらわれている。
「ははっ! 相変わらず、頑張っているみたいだね」
「はい、少しでも早く、戸籍を作りたいので」
「いやはや、感心感心。僕が費用を出せるよう手を回せればいいんだけど、あいにくそのあたりとは繋がりが無くて」
「いえ、そんな……」
ネガティブ・ワンで散乱した戸籍は、再作成費と管理監督者への賄賂さえあれば簡単に作ることはできる。だが、それをアップマーケットの養子縁組に使うとなれば、私自体に様々な身辺調査をされる他、煩雑な手配が必要になる。
サワイおじさまは、私が作成に伴う費用を捻出している間、そこへ注力をしてくれている――私にとって、未来を掴むための希望そのものだ。
だから、ありのままの私なんてまだ見せられない。
すり減った体、くたびれた顔。おじさまに見せたくないものはその時まで全部ごまかして、私は家族を手に入れる。
今この人に見放されたら、私に生きる理由なんてない。
サワイさんは黒服の耳を寄せると、聞こえない程度の声で何かを伝える。小さく頷いた彼は、他の黒服を誘導する。階段の方に向かっていった彼らは見えなくなり、玄関前は私とサワイさんの二人きりになった。
「少し中に入っても?」
「は、はい。何もないですが……」
「いや、聞かれたくない話がある、というくらいだからね。すぐ出るよ」
私が返すより早く、彼の革靴が玄関に踏み入る。暗い中でも光沢を持つ靴が、煤けた玄関でひときわきらめいている。彼は背中で鍵を閉めると、そのままドアに背中を預けて話し出した。
「いやなに、大した話じゃないんだが……カレンちゃんは最近、ゲットーで聞いている噂、みたいなものってあるかな?」
「うわさ……ですか?」
首をかしげる私を見て、サワイさんは軽く息を吐いた。
「まぁなんだ、これから他の連中から聞かされるようなことがあるかもしれないから、それより先に僕から言っておいた方がいいと思ってね。そういう話さ」
「はい……でも、ゲットーに話すような相手なんて、仕事先くらいにしかいないので……」
「ま、それでもさ」
サワイさんはスーツの胸ポケットを指でまさぐると、太い葉巻を取り出した。働いているコンビニでも見たことのないそれは、私の稼ぎ何カ月分なのだろう。
マッチで火をつけると煙が玄関で舞い、バニラのような甘い香りが鼻をくすぐる。
「先に言っておく。もし、これからカレンちゃんの周りで『願いを叶えられる方法がある』みたいな話を聞いても……絶対に信用しないでほしい」
「願い……ですか?」
口に含んだ煙をぷかぷかと浮かばせながら、サワイさんは頷く。視線を私に合わせた彼は、そのまま呆れたように深呼吸をした。
「まったくね……今、ゲットーの間でにわかに流行っているらしいんだ、そういうのが。『人の願いを叶えられる』とか『夢が実現する』とか、そういう甘言で人をたぶらかしてね」
願い、夢。
私にとって、それってなんだろうか?
考えるよりも早く、サワイさんの言葉が続く。
「で、そういって人を集めて……幻覚性のドラッグを売りつける。依存性も高い分、ずっと夢を見るために永久に搾取される。そういうのが流行っているらしいんだ」
「……怖いです」
「僕も報道で知ったばかりでね……そういう変な話を聞いていないか、ちょっと気になったんだ」
「私は……大丈夫です。今のところ、そういう話は聞いていないですし……」
少しの逡巡の後、続ける。
「私の『願い』や『夢』は……サワイおじさまの家族になることですから」
大丈夫。私は今、しっかり目を細められている。『せんせい』に教わったやり方で、品がよさそうに見える話し口調で、この人に見放されないようにできている。
私の返答を聞いたサワイさんは、少しの間黙っていた。見定めるように顔へ向けられた目が少し緩んで、再び煌びやかな歯を見せた。
「ははっ! そうかそうか……僕の心配も、カレンちゃんみたいな子には杞憂だったみたいだね」
「いえ、心配してくれて……とっても嬉しいです」
満足げに笑うサワイさんはそれに数度頷くと、翻って鍵を開けた。
「夜遅くにお邪魔したね。そしたら、また」
「は、はい……! また!」
そのままドアを開けて、夜のゲットーに再び戻ろうとする。三十度で礼をしたままの私に、彼から声がかかった。
「あと……来月くらいには手続きが済みそうなんだ。カレンちゃんの準備も、そろそろできそうかな?」
「ほ、本当ですか……? はい、私も、同じころにはお金が貯まる予定です!」
「うん、そっかそっか。そうしたら、またね!」
サワイさんは笑いながら、ドアを閉めた。向こう側に響く足音が遠ざかり、静寂になって数十秒ほどしたのち、私は鍵をすぐに閉める。覗き穴を確認しても、誰もいない。そこで初めて、壁に背中を預けて座り込んだ。
「き、きんちょうしたぁ……」
いつまでも、こんな風にしていられない。サワイおじさまの「家族」がどんな形態を取るものなのかは知らないけれど、今の私が家族らしいかと言えば、そんなことはない。それは、自分が一番よくわかっている。
「でも……! あと、一カ月とちょっと……」
でも、ふとした時に隙を見せたら、それが彼に見捨てられる理由になるかもしれない。
私は、とにかく自分に自信が無い。自信が無いから、ごまかさなきゃいけない。自信が無いから、飾り付けなきゃいけない。
部屋に戻りながらバンダナとマスクを外して、そのまま洗面台に向かう。線状に首で広がる痕、荒れた肌。
こんな私が偶然掴んだチャンスを、無に帰すわけにはいかない。家族として迎え入れられるまで、あと少し。
洗体に使った煮沸水の残りで顔を軽く洗い流して、そのまま布団に向かった。
「願い……夢……」
サワイさんに遮られた思考の続きが、頭を巡る。
この生活から抜け出して、幸せになる。それ以外の目標なんて何もない。彼に頼らなくてもそれが叶うならそれでいいけれど、私はそんな手段を持ち合わせていない。
「まぁ……いいや」
揺らめいていたろうそくの光を吹き消して、目をつむる。甘言に惑わされず頑張れば、きっといつかいいことがある。
想像していたより早くやってきた眠気に身を任せると、体の力が抜ける。暗闇の中、こぼれ出た私の声がぼんやりと耳に入ってきた。
「また、あした……」
金髪の彼女の、澄んだ声。頭の中で輪郭が浮かんでは、ぼんやり消えていく。
また明日、いつもの場所で。
同じ場所で返したかったその言葉を、私は返せなくなる。
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