1_5 あの人と一緒
夜になって、住み処へ戻って、煮沸水で体をさっと洗って――着古した部屋着になってもまだ、じんじんする胸の感覚はつっかえたままだった。
嫌な客や怖い客なんて、星の数ほど見てきた。値段に文句をつけたり、大声を出したり、高圧的な態度で接してきたりなんて、感情を殺せばどうとでもなる。
だけど、目の前で自分が殺されかけることなんて、今まで一度もなかった。
顔の見えない、自分より大きな男。冷たい視線。誰かに向けられているのを遠目で見ているだけだったマシンガン。大きな銃口。怯えを見透かすように響いた怒号。
――『また明日』
私はあの時、あの人に救われたんだ。
真っ暗な部屋で唯一の明かりは、前任者が使っていたろうそくの火だけだ。部屋の空気の流れに逆らわず揺らめき、波打つように明暗を繰り返す。
私は布団の上で座りながら、重たい両手をじっと見つめていた。
朝に手放した分厚い縄が、ずっしりとした感触を残している。
「どうしちゃったんだろ……」
ゲットーから抜け出すか、自分から未来を絶つか。夢と現実。往復する感情の中で突然差し込まれた状況に、私自信が「殺されたくない」と告げていた。
それは、自分の未来を他人に奪われたくないという感情が理由かもしれない。
あるいは、人として当たり前の生存本能だったのかもしれない。
そうやって、理由を勘案できるならどれだけ楽なのだろうか――目を閉じると、埃越しに輝く金髪と茶色い目が過ぎって、顔が熱くなる。
「……やめよ」
手に持っていた縄を床へ捨てる。どんと重い音がしたそれを足蹴にして遠ざけたまま、私は薄い布団の上に寝転がった。
天井には、ぼんやりとした丸い光がちらつく。白く塗られている天井にオレンジ色の光が入り混じって、うっすらと淡い黄色を象る。
――あの人と一緒だ。
「……いや! いやいや。そういうんじゃない、そんなの変だもん」
浮かんだ思考を打ち消すように、布団の上で身悶えする。足をばたばたと振って、タオルケットをぎゅっと抱き留める。
「だって……名前も、知らないんだよ?」
自分自身に問いかけるように、吐息交じりの呟きがこぼれた。
こんなものは全部、パニックだった私が混乱しているだけ。目を閉じて、眠って……朝になったら、きっとすべて元通りのはずだ。
揺らめく明かりにまどろみを感じながら、瞼を閉じる。大丈夫、きっと、明日は今日より怖いことは、起きないはず――。
そうやって眠気に満たされた意識へ割り込むように、室内でベルの音が鳴り響いた。
「んぇ……?」
とぼけた声が漏れる。滅多に聞くことのないインターホンが、こんな夜遅くに鳴らされるなんてまずありえない。誰だろう、あの人かな。覚醒しきっていない頭で立ち上がり、ふらつきながら玄関へ向かう。
チェーンと鍵、どちらもかけられたドア。覗き穴へ目を向けると、そこには
「……ん? え、今!?」
ここで会うはずの無い人が映っていた。眠気が倒れこもうとしていた意識が、一気に起き上がる。
慌てて自室に戻り、バンダナを首に巻く。『この人』に、うっ血痕は見せたくない。首の後ろで片結びにして、そのまま玄関へ。幸いなことに、置き去りになっていたマスクがまだ残っていたので、耳にかける。
ノーメイクで会うくらいなら、この格好の方がまだましだ。顔を数度さすり、乾いてないことを確認してから、鍵を開けて挨拶する。
「すみません、もうすぐ寝るところで……どうしたんですか? 『おじさま』」
「やぁ、カレンちゃん。いやなに、ちょっと会いたくなってね」
私が『おじさま』と呼ぶ、少し太ったスーツの男性。名前を「サワイ」と言う。
乱立するゲットーの影響で後進国となった日本。その中でごくわずかに残された富裕層――『アップマーケット』の世界に住む男。
このサワイおじさまは、私が身分を作り次第、養子縁組をする予定になっている。
言うなれば、彼は未来の――二人目の父だ。
X:@G_Angel_Project
次回更新:5/23 8:05前後予定