大火の前
「僕は、僕は納得していないからな!」
机に手を叩きつけ、怒りから小刻みに震える澤井に『彼女』は冷ややかな視線を向けていた。脂汗を浮かべながら『彼女』を睨みつける澤井。感情に任せた怒声が、暗い会議室で響く。
黒いスーツに身を包んだ『彼女』は、その声量にも全く臆する様子を見せない。
「『Pod026』? 馬鹿らしい! 君たちの都合だろ!? 僕は、ゲットーでの雇用創出も支援もずっとやってきていたんだ! 知らないふりをしてきた君たちが、今更何を!」
そこまで言うと、肩で息をし始める。椅子に座った『彼女』の目つきは変わらない。澤井の大声もどこ吹く風といった様子だった『彼女』は、彼が再び話す前に口を開く。
「ずいぶん達者な方便を使うのですね、澤井さん。よりによって『支援』ですか?」
「ふぅ……ふぅ……君、何を」
「その『支援』で、何人の女児にトラウマを植え付けたのですか?」
『彼女』の言葉に、澤井の体が強張った。革張りの椅子がきしむ音、彼の目が一瞬見開かれ『彼女』に向けられる。
「……何が言いたい」
「『Pod026』を経て行われる移民と、あなたがしていたゲットーの『買い上げ』は、性質が全く違うものだとご理解いただきたい――そういう話です」
澤井の拳が振り上げられる。しかし、行き場のないそれは頭の上で震えるばかりで、ゆっくりと机上に戻された。
澤井は、そこで初めて理解した。この女は、自分のやっていることをよく知っている
アップマーケットでの生活を誘い文句に、無垢な女性を選んで食い物にしていた自分のことを。
知ったうえで、文句を言う機会を作ったのだ。
自分と『彼女』の間にある「差」を、理解させるため――自ら落ち着かせるように、額に浮かぶ脂汗をハンカチで拭う。
机上で手を組む『彼女』は、澤井に続けた。
「それに、私一人を言いくるめたところで『Pod026』が止まることはありません。ビックテックによるプラットフォーム提供、同時翻訳による全世界対応。私がいくら出資していようが、そのほとんどはあくまで初期費用――イニシャルコストです。走り出してしまえば、あとは誰にでも賄える程度で済みます。……もちろん、澤井さんでも」
「僕では『Pod026』のイニシャルコストは賄えなかったと、そういう話か?」
「それが出来なかったために、あなたは一人ずつを食い物にしていたのでは?」
「……」
「……失礼。とにかく、私ならそれを『支援』とは言わないというだけです」
睨むような視線。虫を見るような視線が澤井に向けられて、彼は怖気づいた。怒りに任せて話していたときとは性質の違う汗が、広い額から一筋伝う。
表情から自身への感情を読めなかったこれまでとは違う。明確な怒りと嘲りが伝わるそれは、続けようとしていた言葉を差し止める。
攻め手に欠けるどころか、こちらが追い込まれている『彼女』との会話。緊張感と焦りは、澤井に出すつもりのなかったカードを出させることになった。
「そ、その『Pod026』で見つかるといいなぁ、君の娘さんも!」
「……ご存じでしたか」
「あぁ、知っているさ!」
『彼女』の目がわずかに動く。見逃さなかった澤井は、にやつく口元で続けざまに言い放った。
「君が怖くて逃げたんだろう? 望まない生活を与えられるという点で、僕と君は何も変わらない! いや、僕は彼女たちに言ったとおりの生活は提供していた! ただ少し抱かれていればいいだけで、それに耐えられなかったあの女たちが――!」
「……これ以上は」
冷たい声音に、勝ち誇ったような澤井の表情が止まる。再び視線を合わせた先で『彼女』の目はしんとこちらを見つめていた。
「お話にならないみたいですね」
「はぁ? 君、都合が悪くなったところで」
「話すことはないと、言っているのです」
「っ……!」
『彼女』の声は、澤井の耳にひときわ冷たく聞こえた。椅子から立ち上がり、澤井のところを横切る彼女は、漆塗りの扉を前に一度振り返る。
「それでは、こちらでお暇させていただきます」
浅い礼をしたのと同時に、外から扉が開かれる。ボディガードの男たちを横に従えながら、赤絨毯の廊下をゆっくりと歩き去る『彼女』。その様子に、フラストレーションの残る澤井は怒声を吐き捨てた。
「こっ、このままで、うまくいくと思うなよ!」
振り返らない『彼女』に、続ける。
「東京ゲットーの人間なら、僕は好きに扱えるんだ! 君が考えている計画だって、めちゃくちゃにしてやることもできる! 僕につかなかった君も、カレンも、必ず後悔させてやるからな……!」
怒りに満ちた声は『彼女』が歩くにつれ遠ざかる。何も聞こえなくなったところで、胸ポケットに挟んだ眼鏡をかける。
眼鏡の柄のところを数度触れると『彼女』の視界いっぱいに動画のサムネイルが浮かび出した。
画面左上には、黒い背景の上に、フォーマルにデザインされた文字が浮かんでいる。
これが、彼女の出資により生まれた「Pod026」と呼ばれる動画視聴サービスだ。
いくつもの静止画の下に、動画のタイトルと再生回数が並ぶ画面。格闘技とは名ばかりの喧嘩の録画や、投稿者自身モデルにしたポルノ、歌やダンス。人目を引くためのコンテンツがいっぱいに広がっている。
目線の移動に合わせて、最適化された画面が意のままにスクロールされる。閲覧を続けながら『彼女』は隣のボディガードに訊いた。
「まだ、見つからない?」
「はい、申し訳ございません。ゲットーで調査をしている他、ほとんどの動画をフレーム毎に解析しているのですが……」
「お気になさらず、その調子で続けてちょうだい。あの子が見つかるまで、私はここに滞在しますから」
「承知いたしました。必ず……」
話し終えた『彼女』は、一室の前で立ち止まる。
「では、ここで。明日の時程については、また転送してください」
「承知いたしました」
ドアの前で手首を見せると、認証されたドアが開かれる。白を基調とした一室は奥行きがあり、埃一つ見えはしない。クローゼットのハンガーにスーツをかけて奥へ歩き、大きなベッドに腰掛ける。ワイシャツのボタンをいくつか外してベッドに手をつくと、
「ふぅ……」
緊張を解くよう、大きく息を吐いた。
しみの無い白いカーテン、ライオンをあしらった彫刻、ギリシャ調の装飾。
高級感のある部屋は、東京における数少ない客室の一つで、高層ビルの一フロアの中にある。眼鏡に向けて数度瞬きをすると「Pod026」は落とされ、レンズにはホーム画面が映る。
「……どこにいるのかしら……」
幼子を抱えた、今よりも若い『彼女』。
青い髪をまとめた少女が、青い空の下で輝いている。『彼女』の胸元に寄り添った少女は白い歯を見せていて、画面に向けてピースサインをしていた。
笑顔で細くなった目元は、その両方が違った色をしている。
「早く、帰ってきて頂戴……」
ベッドに倒れ込んだ『彼女』は、眼鏡を外す。瞳を閉じると、居心地の悪い暗闇が視界を埋め尽くした。
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