こんな世界じゃなければ
カズハさんと一緒に部屋を出ると、そこは雑草と枯れ葉が広がる小さな丘だった。
軽く吹く風は異臭を持ち込むけれど、それ以上に潮っぽさが鼻をつく。
振り返ると、錆びたキャンピングトレーラーが一台停まっていた。しばらく動かさなかったからだろうか、タイヤの周囲には草が茂っている。
傍にはキャンピングチェアと焚火の跡が残っていて、真っ黒に炭化した木屑が風でぐずっていた。
「ここが、カズハさんの」
「平和の森公園のど真ん中。私が流れ着いたときから、ずっと置かれてたの」
そう言うと、背伸びをして骨を鳴らす。
「それで、どこに行きたいの?」
「……私の、住み処だった場所です。お金は全部、そこにあるんで」
多分、ここから歩けば三十分足らずで着く。ジャージにジャケットを羽織った私は、気持ちよさそうに体を伸ばす彼女の前に出て、そのまま進み続ける。
「先立つものがないと、か……」
公園を出て、平坦じゃない道をしばらく歩く。ネガティブ・ワン以降変わっていないがれきを乗り越えて、陥没した道路の穴を避けて。
普段の車では通れない道を進んでいると、カズハさんから声を掛けられた。
「ねぇ、カレン」
「はい」
「寝言では呼び捨てだったのに、起きたらずっと敬語なんだ」
「えっ……! そ、それは……」
ほんとに言っていたんですか、それ――訊き返そうとしたけれど、いらずらっぽく微笑む彼女の真意は掴めない。唇を突き出すようなふりまでして、からかっているようにも見える。
「……カズハ、ちゃん、で……いい?」
「『ちゃん』もいいよ、多分年齢も近いし」
「わかりま……わ、かった」
「じゃあ、それで」
床に倒れ込んだ電柱をまたぎながら、カズハさん――カズハは言う。どうにも照れくさいそれは、言い続ければいつかは馴染むものだろうか。
こんなことを考えるのは、生まれて初めてかもしれない。
しばらくそうやって歩いていると、よく知った建物が見えてくる。誰かがいる様子もない、廃アパート。階段を上って鍵を開けると、代り映えの無い玄関が出迎えてきた。
中に入り、お金の置いてあった自室へ向かう。誰かに荒らされた形跡もない。二日ぶりに踏み入った部屋では、ペンや布団、消えたろうそくまでそのままになっている。
箪笥の中にある鞄を開くと、汚い紙幣を輪ゴムでまとめた束がいくつも入っていた。
よかった、そのままだ。ほっと一息つくのに合わせて、玄関から声が聞こえる。
「お金、あった?」
「はい……うん、ちゃんと全部」
肩に鞄をかけると、ずっしりとした重みで少しよろめく。なんとか姿勢を立て直し歩きながら、次は洗面台に寄った。ずっと使っていた化粧ポーチを手に取りながら、顔を見る。
肌が荒れているのは変わらないけれど、目元のくまやむくみは少し取れて、いくらかましな顔になっている。
これは、誰かのためじゃない。
これからは、自分が好きでいられるため――やっぱりこのポーチが必要な気がして、鞄に突っ込んだ。
「……重そうだね」
「一応、切り詰めて生活してたから。……なんでかは、後で話す、ね」
玄関先では、たばこを咥えた彼女が、煙と一緒に佇んでいる。
「これで、大丈夫。カズハも、一緒に来てくれて……ありがとう」
「他の荷物は、いいの?」
「うん……もう、大事なものはないから」
慣れないため口で話しながら、部屋に鍵をかける。いつかここに住まう次の誰かのために、鍵は床へ置きっぱなしにした。
「……それで、どうするの? それだけあったら、生活には困らないと思うけど」
「あー、それなんだけど……」
階段を下りながら話しているところを、車のエンジン音が強く遮った。
「うっさ……なに、あれ」
けたたましい音の発生源に視線をやると、このアパートに向けて近寄ってくる軽トラが一台ある。急ブレーキで止まったそれから降りてくる顔には、覚えがあった。
「オノデラさん……」
普段見せていたものとは違った、焦りと怒りを帯びた顔つき。彼はアパートをきょろきょろしていると、階段にいた私たちを見つけたようで、相変わらずの大声を出す。
「おぉ! カレンちゃん! どうしたの、昨日は無断欠勤で! とりあえずさ、降りてきなよ!」
ひきつった顔に作り笑いを浮かべる彼。私が一昨日、内緒にしていた話を聞いていたかどうか――ひいては、サワイに上納する人間が消えないかどうか、不安なのかもしれない。私が返事をする前に、カズハが耳元でささやく。
「誰?」
「私が働いてた人で……私が、騙された人」
「……どうするの?」
「……話すよ。『もう、あなたのところでは働けません』って」
「そう……大丈夫?」
「うん、でも……」
階段を下りながら、カズハの方に振り返る。心配そうな視線は私とオノデラを交互に見ていた。
「もしピンチだったら、もう一回助けてほしい」
「……わかった」
会話を終わらせて、二人でオノデラの前に立つ。私の肩にかかった鞄を一瞥すると、彼は焦った様子で声をかけた。
「どうしたの! 何も言わず休むなんて珍しい!」
「……」
「そっちは友達かな! なんかあればさ、言ってくれりゃあいいのに! それじゃあ『先生』も――」
「――ごめんなさい。一昨日の夜、全部聞きました。送金もされてなかったし、サワイと繋がっていたんですよね」
私の言葉に、彼の眉間がひきつる。隠しきれない苛立ちと、それに勝る焦り。その声は怒りで濁ったまま、怒号のように響き渡る。
「――じゃあなんだ! もう働けないってか!? 勘弁してくれよ! お前連れてかなきゃ、俺サワイに殺されちまうよ!」
「……どこでも働けなかった私を、理由があったとはいえ、働かせてくれて……ありがとうございます」
「おい! 聞いてんのか!」
「でも、もう……オノデラさんのところでは働けません」
「なぁ! 聞いてんのかって!!」
「もう、騙されたくないから」
「カレン、てめぇ――」
声を荒げたまま近づくオノデラの歩みは、すぐに止まる。隣のカズハが構えた拳銃、引き金に指がかかったままのそれを見て、彼は口ごもった。
「チッ……ボディガードかよ……」
「もう、この子に関わらないでね……二度目はないから」
冷めた目で構えるカズハに、オノデラは舌打ちをする。
彼女の指先を確認した彼はそのまま踵を返して、車の中まで戻った。エンジンを点けたところで、横の窓ガラスから顔を出してくる。
「言っとくけどよ、今回うまくいかなかったからって辞めるタマじゃねぇぞ、俺は!」
「……」
「お前を上納しなかった分、また誰か探して、同じことをするからな! お前がやらなかった分だけ、誰かがサワイのところに行く!」
吐き捨てる彼の言葉に、カズハは眉をしかめた。
「反吐が出る――」
「待って」
「……カレン?」
彼女が引き金に力を込めようとしたところを制して、私は一歩前に出た。眉根を寄せたオノデラに、意を決し話しかける。
「私は、オノデラさんが……ここで生きるためにやったことを、否定したいわけじゃないんです」
「……あぁ?」
「サワイさんのことはともかく……私も、オノデラさんも、そうしなきゃ生きていけない世界が、変えたと思うから……」
きょとんとした顔の彼は、苛つきながらも私の話を聞く素振りでいた。唾を飲み込んで、少し早くなる拍動を抑えて、口を開く。
「今は無理だけど、いつか……変わった世界で、必死じゃなくても生きられる世界なら……」
「……なら、なんだよ」
「私たちは、もっと普通でいられたかもしれないって……そう、思うんです」
もしも、ゲットーじゃなければ。私は内気にならず、彼もあんなことをせず、まともでいられたのかもしれない。
そう思うと、いくら憎くて、騙されたと思っても――小さな軽トラに乗り込んだ彼に、何かやり返そうという気が起きなかった。
「……くだらねぇ」
一通り聞いたところでそう呟いて、オノデラは窓を閉める。車を出して、私たちの視界から消えようとしたところで、
「カレン、お前はクビ! いいな、二度と俺のところに来るなよ! 今度会ったら、攫ってでもサワイのところに連れてくからな!」
捨て台詞を吐いて、車を飛ばした。後には排ガスの臭いだけが残り、アパートの前は今まで通りの光景が広がる。
銃をホルダーに戻したカズハは、肩をすくめながら訊く。
「本当に、これでよかったの?」
「……うん。……もう、会うことないから」
臭気を纏った風が、少しだけ凪いだ。オノデラさんにも、あの部屋にも……きっと、二度と会うことはない。
――さよなら、今までの私。
「じゃあ、一旦私の家へ――」
「……あ、待って」
カズハが帰路へ歩こうとする中、私は反対――アパートの駐車場へ案内する。
そこには、何百回も乗っていた軽トラが、ぽつんと置かれていた。
「帰り、これに乗ってかない? 行きたい場所もあるし……二人で話したい事、あるから」
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