別に
目が開く。
視界は薄い灰色一色に染まっていて、私の意識は冴えてくる。
――どこだろう、ここ。
暗くて、低い天井。
天国じゃないことだけは直感で理解する。でも、地獄でもない気がする。
体を覆っていた毛布の感触は、自分の体温を移してやたら温い。身をよじらせ半身だけ起こすと、つんとした冷気が肌を撫でてきた。
横には、プラスチックの手すりと、ひっかけてあるはしごがあった。恐らく、ロフトのようになっているらしい。その先を確認するため立ち上がろうとしたところで、頭が天井に軽く当たる。
「いたっ!」
固くはない、毛羽立った感触がつむじに伝う。反射で出た言葉は、反響しないままこの空間に溶け込んでいく。
――痛い。……やっぱり、生きてる。死んでない。
ここがどこなのか、見当もつかない。静かな空間は外の騒音も聞こえなくて、体と毛布がこすれる音、私の呼吸音、すべて耳に入った。毛布から体を出して、あぐらのまま自分を確認する。
私のものじゃない、薄手のジャージが着せられている。上下で柄の違うそれは蛍光色のラインが入っていて、ところどころがほつれていた。
誰かに着せられたのか。……じゃあ、それって誰?
考えようとしていたところに、予期せぬ声が入ってくる。
「……ぅん……」
「……え?」
毛布をどけた先から、誰かの小さな声がした。慌ててそちらを見ると、一人分くらいの大きさが、毛布を被ったままでいる。
恐る恐るそれをめくり、誰なのか確認すると――知っている顔が横になっていた。
「……カズハさん?」
「んんっ……あ、カレン、起きたんだ」
薄手の白いシャツに、黄色のショーツだけ。気の抜けた格好の彼女は、そこで初めて私の目覚めに気が付いたらしい。
目覚めきっていないまま、とぼけた声を出す彼女。半目で寝ぼけた様子のカズハさんは、ふにゃふにゃしたまま顔色のまま、もう一度目を閉じようとした。
「……にどね」
「……え、ちょ、ちょっと!」
そのまま寝息を立てそうな彼女を、慌てて揺さぶる。ここはどこですか、何があったんですか――なんで私を、殺さなかったんですか。
聞きたいことは、山ほどある。そうしていると、カズハさんはもう一度目を開けて体を起こした。頭を掻きながら目をぱちぱちさせる彼女は、一度あくびをすると
「じゃあ……とりあえず、降りよっか」
そう言いながら、四つん這いで私の横を通り過ぎた。ひっかけてあるはしごを掴んで、そのまま降りる。後を追うように私もそこを降りると、
「……ここって」
「私の家」
そこには、キッチンやソファ、収納スペース――生活するのに困らない一通りの環境がそろっていた。ソファの横にはパソコンまであって、狭い空間のあちこちに物が置かれている。
私が降りたのを見たカズハさんは、先ほどまでいた場所をつっかえ棒で押して、天井に格納させる。折り畳み式のベッドらしいそれが押し込まれると、少しだけ広くなった気がする。
きょろきょろと部屋を眺める私に、彼女は訊いた。
「それで――何から聞きたい?」
「……その……私は、あの後どうなって」
「あの後……一昨日の朝か」
「お、一昨日?」
そしたら、あの後二日は眠っていたのか。確かに、慢性的に感じていた眠気も、疲労感も抜けている気がする。
カズハさんが続けようとしたところで、私のお腹が音を鳴らす。
ぐぅぅ……。
「……あ、これは、その……」
「……お腹空いた?」
「い、いやいや、大丈夫ですから」
「ふふっ、いいよ、気にしないで。話すこともあるし……とりあえず、朝ごはんにしよっか」
そう言って、彼女は冷蔵庫の中を開けた。
♪
――カズハさん、殺してよ
それを聞いた彼女は、引き金から指を離し、すぐに持ち替えて私の首元と頭部を叩いた。過呼吸と落ち着かない心拍。「最初から寝かす目的だから、それほど強くは叩かなかった」と言うけれど、極限状態だった私は衝撃ですぐに失神したらしい。
失神した一人と、死体が一つ。私を抱えた彼女は、そのまま近くにある自分の家で体を洗い流し、そのままベッドに寝かしつけた。近所とはいえ、意識の無い人間一人を運ぶのはずいぶん大変だったらしい。
死体については「処理した」――それ以外のことは、言葉を濁して言おうとしなかった。死体処理の仕事なんて、この世界には山ほどある。変な空気にするくらいなら、聞く必要もなかったかもしれない。
それから私は、ずっと眠り続けていた。だからと言って、彼女は何かしたわけではない。簡易ベッドを開けっ放しにしたこと以外、ほとんど変わらない一日を過ごす。丸一日そうして――朝、私が目を覚める。
♪
「呼吸も落ち着いてたし、いつか起きるとは思ってたけど……普段、あんまり寝てないんだね」
水と煮豆、乾いたパン。
ソファに並んで朝ごはんを食べながら、カズハさんはここまでをざっと話した。ことのあらましは理解したものの、私が知りたかった一つが最後まで明かされない。先に食事を済ませた私は、まだ食べている途中の彼女に問いかける。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、私を殺さなかったんですか?」
フォークを持つ手が止まる。咥えていたパンを水で流し込んだ彼女は、少しの逡巡ののち、私に目を向けた。
「……殺したよ」
「……?」
茶色い目が、私をじっと見つめる。
「首にそんなあざ作って、死にたくてしょうがないって言ってたカレンは……あの時、私が殺した」
「……!」
「その分の人生は、私がもらったから」
ソファの上で脚を組む。白い足には火傷痕が走っていて、赤らんだ色が痛々しく残っている。黙ったままの私の肩に、彼女の頭がぽんと乗った。金髪が窓からの明かりで、ちらちらと光る。
「カレンは、生きていいんだよ。誰かを生きる理由にしなくたって、カレンが生きる理由になってる人だって、いるから」
「……そんな人、いますかね……」
「……誰か知らないけど。ずっと寝言で『先生』って言ってたよ。その人、カレンが生きてるってだけで、嬉しいんじゃない?」
せんせい。
私に名字をくれた、大切な人。
膝に置いていた手に、きゅっと力がこもる。
そうだ。私は、せんせいに愛されていた。せんせいだけじゃない、多分、一緒にいたみんな。地元から離れる私に、泣いてくれた。
出会った日を、誕生日にしてくれた。
いなくなる私に、名字をくれた。
私はみんなのため――せんせいのためにここで生きることを選んだけど、せんせいの気持ちのことは、これっぽっちも考えられてなかった。
「そっか、私……」
別に、生きていていいんだ。
馬鹿だなぁ。
口元が緩む。
それに反応したカズハさんは、付け足すように呟いた。
「あと、私の名前も言ってた。『カズハ、カズハー』って」
「……え、え? えっ!?」
「カレン、夢の中だと呼び捨てなんだね。別に、最初からそれでよかったのに」
私が肩口を覗き込むと、上目遣いの彼女がにやにやと笑っていた。顔に熱が集まる。それを見ていたカズハさんは、軽く吹き出した。
「ふふっ、ふふふ……顔、真っ赤だよ?」
「いや……そんな、だって……えぇ……?」
そんな記憶は、もちろんない。――っていうか、何の夢?
困ったような、恥ずかしいような。目の前の表情にしばらく笑っていた彼女は、おもむろに立ち上がった。キッチンの方に歩きながら、私に問う。
「私もって言ったら、どう思う?」
「……え、っと……それって」
「私も、カレンが生きてて、安心したよ。『この店員さん、今日も頑張ってるな』って。急にいなくなったときは、心配もした。……どうしてあんなに死にたがってたのか、訊くつもりもないけど……」
言葉を選ぶように、少し思案の間がある。吐息交じりの声で、彼女は続けた。
「……お人好しで人助けするほど、いい性格じゃないから」
何を返せばいいのか、わからない。狭い部屋の中で、しばらくの沈黙がある。
でも、この沈黙は暖かくて、嫌いじゃない。胸の奥にすとんと落ちてくる熱が心地よくて、顔がほころんだ。
黙りこくっている私をよそに、彼女は何かを取って戻ってきた。その手には、赤いバンダナを持っている。
「そうそう、これ忘れてた。一応、綺麗にしておいたから」
「ありがとうござ……ふぇ?」
受け取ろうと出した私の手を避けて、顔と顔が近くなる。
床に膝をつけた彼女は、向かい合わせになったまま私の首元に手を伸ばすと、それを巻き付けた。
落ち着いたばかりだった顔の熱が、再び上ってくる。
「……うん、似合ってる」
赤い布が、赤い首の痕を隠す。
首の後ろで結ばれたそれは、今までよりも少しいい匂いがする。わざわざ洗剤で洗ってくれたのだろうか。
乾きたての布からは、フローラルなそれ混じって、かすかに彼女の香りがした。
「で、これからどうする? ……もし新しい居場所を探すなら、手伝うけど」
首元に手と視線を置いたまま、カズハさんは訊いてきた。
少し上ずったように聞こえたその声に、私は返す。
「……ついてきてほしい場所が、あるんです」
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