そして、私は
私の脳裏を駆け巡った最悪の予想は、幸いなことに杞憂だった。結局せんせいの言った通り、数時間ほどで目を覚まして、私たちをひとまず安堵させる。
せんせいの頼みごとをあらかた済ませた私は、ベッド横の椅子で話を聞いていた。
「……狭心症?」
聞き返す私に、ベッドから上体だけ立たせたせんせいが頷く。空は幾分か暗くなっていて、夜の気配が近寄ってくる。暗がりの中、手巻き式のライトを点けたせんせいは、ぽつぽつと話し出した。
「二年前くらいから、かなぁ。あんまり見せたくなかったんだけどね、こんな姿は」
「……私、言ってくれたら、なんだって」
「それが、嫌だったんだ」
私の言葉は、凛とした口調に遮られた。明かりを顔に受け止める、少したるんだ顔。あんなに大きく見えていた体つきが、今はやけに小さく感じる。目を伏せた私に、続けた。
「カレンや……みんなにとって、僕は『頼れる大人』でいたかったんだ。ここを『卒業』していったみんなが、いつでも帰れる場所」
せんせいに頼まれて、教室から取り寄せた写真立て。それを見る目は穏やかで、満ち足りているようにすら感じた。椅子をベッドに寄せて、私も横から覗く。
セピア風に色あせた写真に写る、若い男女――片方は、せんせいの面影を感じる。
「東京を出て、ここに来てから……そういう大人に、ずっと憧れていたんだ」
「……それで、お金とか、資源に困っても?」
「……カレンは、意地悪な言い方するなぁ……」
買い出しや孤児探しをしている間、何も調べていなかったわけじゃない。会計や、一人頭の生活費――算数が得意じゃなくても、多少は察することくらいできる。
苦笑しながら写真立てをベッドに置いたせんせいは、はぐらかすのをやめて答えた。
「そうだよ。なるべくたくさんの子どもにとって、ここを安心できる場所にする。それが、僕が生かされた意味だと思っているから」
「……意味?」
「うん。ネガティブ・ワンで日本が孤立して、沢山の人が亡くなって、生きているだけでも苦しくて――それでも、こんな世界で生きられているいうことには、意味と目的があるはずなんだ」
意味と、目的。
ここがずっと居場所で、何をしたいかなんて考えてもいなかった私に、その言葉はぴんとこない。
――いや、そんなことを考える必要が無いくらい、この場所が好きだったんだ。
「……私は、正直、そんなこと、考えたこともなかった」
「……うん」
「……私にも、あるのかな。意味とか、目的」
「あるさ。気づいていないか、見つけていないだけで」
せんせいは、微笑みながら問いかけた。
「カレンにとって、それはなんだと思う?」
「……まだ、わかんない」
東京に行くことを決めたのは、それから少し経ってからだった。
――私が生きる意味は、ここにいる年下のみんなが、私と同じくらい幸せになってくれること。私が食べるお金で、みんなのご飯が少しでも多くなってほしい。私の代わりをやってくれる年下の誰かに、同じ焦りを感じてほしくない。
――せんせいが、この廃校を「安心できる場所」にするために生きているなら、私がここを離れることで、少しでもそのままにしたいから。
あの夜先生に言えなかった答えは、言わずじまいのまま。
リュックサックにありったけの荷物を詰め込んで、私はその日を迎える。
「……寂しいよ、カレン」
「……私も、寂しい」
その日の朝。子どもたちや、一緒に育った同世代はみんな泣きじゃくっていて、切なさで私まで泣いてしまった。
それからしばらく――鼻をすすりながら目元の湿りを拭う私を助手席に乗せて、せんせいの軽自動車はゆっくり走る。舗装が剥げた道を進む車内はがたがたと揺れて、静寂に伴う寂しさを薄ませる。
「いつでも、帰ってきていいからね」
「……うん……」
頷く一方で、帰らない決心は固めていた。戻ってきて、私のいない生活に慣れたみんなを困らせたくない。
それからしばらく、互いに黙ってばかりだった車内で、せんせいはおもむろに口を開いた。
「そういえば。カレンは……自分の名字が無いことって、気にしたことはある?」
「……え?」
「ごめんね、急に、変な話しちゃって……」
交差点の前で律儀に一時停車をして、周囲を確認する。私がせんせいの横顔に目を向けると、指でぽりぽりと顔を掻いていた。
「僕がカレンを連れてきたとき、よだれかけに、漢字で『華怜』って書いてあるだけで、家が誰のものなのか、わからないくらいに倒壊していて……だから、僕は、カレンのことは『カレン』としか呼んでいなかったんだ」
「……でも、今更名字なんて。みんな名前で呼んでくれたし……」
「あー、その……なんというか……」
せんせいは照れくさそうにしながら、私に尋ねる。
「嫌じゃなかったら……カレンが、本当の名前を知るまで、僕の名字を使ってくれないかな? 『明星』をつけて……『明星華怜』」
「……あけほし、かれん?」
「……そう」
せんせいは、自分で言ったことを誤魔化すように、苦笑いを浮かべた。
「……嫌だったら、全然……年頃の教え子の気持ちは、もう、わからないから」
「……」
「……いや、やっぱりこの話は、なかったことに――」
「――教え子じゃないよ、せんせい。私は、明星華怜。これから、ずっとね」
「……」
「……いいよね?」
なんだろう、この気持ちは。
貰えると思っていなかった大切なものを、せんせいから貰えた気がして、嬉しくて。声の上ずりを抑えられない私に対して、せんせいは目を伏せながら、言葉を返す。
「……ありがとう……いくつになっても、夢は、見るもんだなぁ……」
「夢?」
「……ずぅっとね、僕……僕たちの、夢だったんだ。叶わずに、終わると思っていた……」
走っていた車をゆっくりと脇に停めて、せんせいはしばらくハンドルに突っ伏していた。肩口が震えるのに合わせて、揺らぐ声が聞こえた。
「だからね……カレン。生きている限り、望みは捨てちゃいけないよ。こんな歳で夢が叶うんだ、東京に行ってからの、カレンの望みも……絶対に叶うから……」
♪
それからは、思い出したくもない日々が続く。
ヒッチハイクと輸送車を乗り継いで、東京へ着く。
着いてすぐに異臭で吐き、こらえては決壊するのを繰り返しながら、この環境に慣れ始める。
呼吸をしても吐かないでいられるようになったところで、仕事を探そうとして――体を売ることを誘われ、拒絶する。
大丈夫、仕事はいくらでもある――そう考えて行った日雇いは、女だからという理由で断られる。
ゲットーに溢れる死体処理の仕事は、一週間経っても吐き癖が引かずにクビになる。
絶対に、帰らない。
自分の中での誓いが、呪いへ姿を変えていく。
長野にいたときはあんなに話すことが好きだったのに、うまく話せなくなる。どもって、つっかえて、自分以外の誰かが怖くなっていく。
勇気を出した夜も、確かこの時期だった。天井が剥がれて失敗し、残ったのは首筋のうっ血痕だけ。
鏡を見て、呆れ笑いが出る朝が増えた。
何もできずに、眠ったように過ごす昼が増えた。
勇気が足りずに、死ねない夜が増えた。
寂しい。
寂しい。
死にたい。
せんせい。
せんせいの面影を感じたくて、昔働いていた東京の小学校跡を探して。
そんな中で出会ったのが、サワイとオノデラだった。
――カレンちゃん、アップマーケットで暮らしたくないかい?
――カレンちゃん、ここの『シロアリ』の運搬役になってくれよ!
自分とは違った身なりのサワイに憧れて。
もともとこの小学校の教師で、せんせいを知っているというオノデラを信じ込んで。
私は自分の身を削り続けて、ようやっとコンビニの空き仕事も見つけて、お金を貯め続けた。
でも、全部無駄だった。
せんせい、ごめんなさい。
せんせいに貰った名前で生きる望みは、捨てました。
でも、私がいなくなったことで、あの場所が少しでも長く続けられるなら、きっと私が生きていた意味はあると思うから。
出来損ないでごめんなさい。
♪
「カレンの人生、私がもらうね」
カズハさんの声がリフレインする。
走馬灯のような記憶のかけらは、鈍い音とともに暗転した。
X:https://x.com/G_Angel_Project