1_12 せんせいと私
最初にある記憶は、机に向かっている私たちに向けて、ホワイトボードに『せんせい』が文字を書いているものだった。私たちは東京からはるか北――長野ゲットーの廃校跡に集団で生活をしていて、家族じゃないみんなと家族みたいに過ごしていた。
「じゃあ……これ、わかる人!」
「せんせい! はいはいはい!」
「はい、じゃあカレン」
座っている椅子をぎしぎしと揺らしながら、私は勢いよく手を挙げる。『せんせい』と呼ばれている男性に立つよう促された私は、がたんと音を立てて答えを言った。
「はちです! はち!」
「お、正解! カレンは頭がいいねぇ!」
「へへ……」
「かれんずるい! せんせい、わたしもできるし!」
一緒に椅子に座っていた何人かが、笑う私と一緒にわいわいと盛り上がる。同年代のみんなではしゃいでいる中で、部屋の戸を開ける音とともに、私たちより大人びた数人の男女が入ってきた。
「お、授業中だったか」
「みんな! かれんね、かれんね、これもうできるの!」
「すご~い! 頭いいねぇ、カレンちゃんは……」
「……先生、松代城跡の方に、物乞いの……子どもが」
「あぁ、そうか……」
私が女性に構ってもらっている間に、男性が小さな声でせんせいと話す。ホワイトボードにペンを置いたせんせいは、笑いかけながら授業の終わりを告げた。
「はい、じゃあ今日はこれまで! みんな、学校の外は出ないようにね」
「はーい! ありがとうございました!」
「おいかれん、キックベースやろーぜ、キックベース!」
「やるー!」
男の子に誘われた私は、立ち上がって礼をした勢いそのままに教室を飛び出す。長い廊下、誰のものかもわからない古い上履きをぺたぺたと鳴らして、校庭への道をひた走る。
私たちはみんな『ネガティブ・ワン』で家族を失い、孤児になっているところをせんせいに救助された子どもたちだった。
私が生まれてさほどしない間に起きたそれは、顔も覚えていない家族を皆殺しにしていたらしい。
倒壊した建物の瓦礫に挟まれたベビーベッドで、何が起きたのかもわからずわんわんと泣いていた私は、せんせいに見つけられて保護されたそうだ。
『せんせい』は、この廃校でかつて教鞭を取っていた、本当の先生。
ネガティブ・ワンを運良く生き延びた彼は、機能しなくなった救急システムの代わりに学校を避難所にして、孤児やかつての生徒を住まわせる場所に生まれ変わらせていた。
白髪交じりの頭で、季節を問わずチェックのセーターとジャージのパンツで過ごしていた先生。ずっと優しくて、たまに怒られて、幼くて何も知らない私たちに、苦労している背中を見せようとしなかった。
私が考えている以上に、聡い人だった気がする。
私と同世代の子どもたちは、親の顔すら知らない。
けれど、せんせいが親で、上級生が兄や姉で、一緒にいるみんなは家族みたいで。
そんな生活が、ずっと続けばいいと思っていた。
それからいくつかの年月が過ぎて、私より小さな子も入ってきた。その数に比例していくように、せんせいのしわと白髪の数が増えていく。
「今日、星が全然見えないなぁ……」
「せんせい、おじさんになったね」
小さな子どもたちが寝る時間、興味のある年長者だけで校舎の屋上に集まって、流星群を見る日があった。周囲が体育座りで空を見上げる中、私はせんせいの視線の先に合わせるよう、寝転がって空を見る。
あいにく、薄い雲が空を平たく隠そうとしていたけれど、それでも夏の大三角くらいは見える。いらずらっぽく言った私の言葉への返答は、思いのほか真剣なものだった。
「そうだねぇ……カレンを迎えた頃より、ずいぶん老けたよ」
「十三年前でしょ? そうもなるよ」
集まったそれぞれが思い思いに話す中、私は続ける。
「十三年……今日で、ちょうど」
「……おめでとう、カレン」
「……!」
「カレーン! おめでとう!」
「俺たち、もう十三年目だってな!」
「カレンちゃん! よかったねぇ!」
せんせいの声を皮切りに、夜空で埋まっていた視界のあちこちから、顔が見える。一人がせんせいに風呂敷を渡す中、みんなに見下ろされた私は、戸惑いがそのまま声になった。
「……なん、で」
「カレンくらいの代からはね、誕生日がわからないんだ。そういうのを知る前に、親御さんが亡くなっているから」
「だからね、私たちは、ここに来た日が誕生日なんだよ!」
せんせいや同世代の彼らが、そう言って盛り上がる。誰かが「せぇのっ」と言うと
「はっぴーばーすでーとぅーゆー♪」
「はっぴーばーすでーとぅーゆー♪」
「はっぴーばーすでー……でぃあ……」
名前を呼ぶ前に、持っていた風呂敷を広げるせんせい。
「かーれん~♪おめでと~!」
彼らの拍手とともに、中が見えた。
「……おまんじゅう?」
「ケーキは無かったけど、露店でお饅頭売ってたの!」
「高かったけど、こんな日くらいは甘いものじゃないと!」
茶色くて、小さなお饅頭が、ビニール袋の中に六個ほど入っていた。
「こんなものしか用意できなかったけど……おめでとう、カレン」
せんせいは、風呂敷のまま私の膝にそれを置く。
軽くて、小さくて、それなのに――胸がいっぱいだ。
「私の時もよろしく……って、カレン、泣いてる?」
「うわ、久々に見た! 泣き虫カレン!」
「泣いてない、泣いてないから!」
「こらこら、からかわない」
みんなが好きに言う中、遠くの夜空に星が瞬いた。細くて白い線が、空を一閃する。気づいた人が声を上げ、それはみんなの視線を空に移させた。
「今、光った?」
「え、嘘。どこ?」
「カレンも泣いてないで、空見なって!」
「だから、泣いてない……!」
騒がしくなる夜の屋上で、せんせいは顔をほころばせて、私に笑いかけた。
「おめでとう、カレン」
「ありがとう……! せんせい、みんな……ほんとにありがとう……!」
それから、また数年ほどが経過する。そこまで同じ場所で過ごしていると、かつての年長者は徐々に学校から減っていって、代替わりをするように私は年上らしく振舞っていた。
かつて兄や姉の役割を果たしていた彼らはゲットーで働き口を探して、たまに学校へ顔を出す、くらいの関係になっている。会えない人も増えたし、彼らが生きているのかもわからない。
歳を重ねるのと共に、気苦労は増えた。
外で子どもを探しながら、暮らしている人の分だけ食料を探すのも、私たち世代の役目になった。山の下にあった町並みは、地滑りの影響で折れた木々が腐敗し始めていて、楽に歩ける道はほとんどない。
今履いている外靴より大きなサイズが、学校にあるのかもわからない。買い物袋に詰まった干し肉と豆を抱えて、帰路を辿っていく。
校門に入る私を迎えたのは、あの頃の私たちに似た小さな子たちだった。
「ただいま~、ご飯、買ってきたよ」
「はっ、はっ、はっ……カレン」
校舎の方から走ってくる、小さな姿。彼らが履いている青い上履き靴が見えて、私はたしなめようとする。
「みんな、グラウンドに入るときは、ちゃんと運動靴に履き替えて」
「――カレン!」
叫ぶような声音。焦燥を帯びた顔つき。近づいてきた彼らは私の服の裾を掴むと、校舎に向けて引っ張ってきた。
「なに、どうした? 何かあったの?」
「カレン、せんせい……せんせいが!」
今にも泣きだしそうな顔で、私を誘導する。
――せんせい?
「今、どこにいる? 他のみんなは?」
「ほ、ほけんしつ……みんなは、まだ、かえってきてなくて、」
「わかった、すぐ行く!」
彼らの掴む手よりも早く前に乗り出て、先を急ぐ。子どもたちの吐息を後ろに振り切って、勢いそのままに校舎へたどり着いた。玄関で靴を脱ぎ散らし、靴下のまま廊下を走る。
子どもの頃より狭く短く感じていた廊下が、嫌に長い。
――せんせい、どうしたの。
保健室と書かれたプレートのところで戸を開くと、そこには私のよく知る人の、知らない姿があった。
そばにいた別な子どもたちが、私に困ったような視線を見せる。
「カレンちゃん……き、急にこうなっちゃって」
「どうしよ、どうしよう……」
「――せんせい!」
リノリウムの床で、胸に手を当てたまませんせいが倒れ込んでいた。制御できていない手は小刻みに震えていて、苦しそうに不規則な呼吸を繰り返している。
「ふぅ、うっ、ふぅ……カレン……?」
「せんせい、どうすればいいの! 何か。何か……持ってくるものある?」
「だいじょうぶ、このまま、ちょっと、だけ……」
途切れ途切れになりながら、吐息と一緒に言葉を漏らす。しわの増えた顔には脂汗が浮かんでいて、とてもじゃないが言葉通りに受け止められる様子をしていない。
「大丈夫じゃないよ、こんなの! 薬とか、水とか」
「寝かせて、おいて……すぐ、起き、る、から……」
そう言ったせんせいの目が、ゆっくりと閉じていく。
「……だい、じょう……ぶ……」
「――せんせい! せんせい!」
手首に触れる。弱弱しく聞こえる拍動が指先を伝うけど、今にも消えそうなほど弱弱しいそれに、焦りが止まらない。
――嫌だ、一人にしないで。
「――せんせい!」
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