なんで、いっつも(★)
――おい。
遠くで声が聞こえる。はっきりとしない意識の中で、両目をゆっくりと開ける。ぼやけた視界を調整するように数度瞬きをしていると、その声はより強く聞こえてきた。
「おい! おい! ……お、起きたか」
呼びかけているだけだとおもっていたそれは、怒号だった。焦点を合わせた視界には、蹲踞の姿勢で私を待つ男の顔がある。
――あぁ、そっか。
意識が無くなったところで、死んだんだと直感していた。けれど、私は今もこうやって生きている。手首と腹に痛みを抱えたまま、死ねないでいる。
「俺の顔……わかるわけねぇか」
「……誰?」
私の問いかけを無視した男は、身動きの取れない体を背にして、置きっぱなしにしていたリュックに手を突っ込んだ。身をよじっても痛みがひどくなるばかりで、自由になる気配はない。
立ち上がろうとしたところで、腰を括ったロープが後ろを巻き込んで縛っているのがわかった。
周囲を確認する。濃い緑と枯れた茶色に空を覆われた、知らない場所。人のいる気配もないそこでは、いつからかわからない缶のゴミや大型の廃棄物が捨てられていた。私が気絶してからどれくらい経ったのか。空はさっきより明るくて、木の葉っぱ越しに灰色の分厚い雲が見え隠れしていた。
ここがどこか、わかる気もしていない。
ただ、楽になれるなら早く楽にしてほしい。
そんな気も知らずに、男はこちらへ向き直した。手元に黒い布を持った男は、それを頭から被る。頭部全体を覆った顔をこちらに見せたところで、私はやっと正体に気づいた。
「……コンビニ強盗」
「そうだよ……お前と、あの火傷女のせいでよぉ……」
男の目はあの時より血走っていて、焦点も合っていない。口を開くたびに見え隠れする黒い歯は、肌から伝わる年齢よりも大幅に老けて見せた。
「私のこと……殺したいの?」
「あ? なわけねぇだろ……」
男はそう返すや否や、私の胸元を掴んできた。動かない腰を支点にして、頭がぐらんと揺らされる。
その勢いで吹いたのか、額から目元にかけて生ぬるい温度が伝う。運ばれたときに打ったのかもしれない。
赤色が遮る視界で、半狂乱の男が唾交じりに声を上げた。
「お前のこと犯して、薬漬けにして、好きモンに売って! 大金はたいて買ったAKの分、回収しないと気が済まねぇんだよ!」
「……殺してよ」
「……あぁ?」
男の眉間が上がるのに合わせて、マスクが揺れた。今の私が、彼の目にどんな顔で映っているのかもわからない。ただ、胸の奥で溜まっていた言葉が、つっかえることなく流れ続ける。
「好きにしていいけど、生かさないでよ。もう、いいから」
「……テメェ、何言って――」
「あなたに……なにされるか。怖がる理由が、無くなったから」
私の視界では、目線と口元からしか様子をうかがい知ることができない。それでも、彼は私の言葉に戸惑っているように思えた。
彼の知っている――怯えた目でお金を握る私と、違って見えたのだろう。
もう、いい。
願いとか、夢とか、そういう感情を持つべきじゃなかった。
頑張ればいいことがある、なんて、この世界では早いうちに捨てておくべきだった。
首がじんじんと熱を持つ、そうだ、あの夜――運が悪くなければ。
何度も過ごした勇気のない夜更けのどこかで、私の勇気が一線を越えていれば。
――死ぬ機会くらい、自分で選べたのに。
男はしばらく怪訝そうに私を見ていたが、それもつかの間。すぐに黒い歯を見せて笑いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあいいわお前。犯して、薬漬けにして、殺してから売る、で。そういうのが好みの物好きもいるだろ」
男はそういうと、覆面を外して再び顔を露わにする。これから何をされるのか、想像したくもない。ただ、やるならさっさと済ませて、早く殺してほしい
「――もうちょっと嫌がってくれねぇとよ、全然こねぇんだけど」
そう言いながら、両手で私の肩を掴む。薬由来なのか、小刻みに震える目が、視界でどんどん大きくなる。荒い息の悪臭が鼻を刺激して、少し目に染みた。
「へへっ、そうそう……」
笑う男の口の端で、唾が糸を引いていた。思わず目を瞑った私の反応が楽しいようで、彼の吐息は荒くなる。
大丈夫、もうちょっと我慢すれば、すぐに死ねる。
ちょっとだけ苦しくて、嫌で、その後には何も残らない。
今までと同じだ。
――生まれ変わったら、次は向こうの子どもになって、何一つ不自由ないまま過ごしたい。そうすれば、この人生で捨てたものも、全部持ったままでいられるかもしれない。
大切な場所、大切な人、必要になったお金、いなくなった友達、自尊心、誇り、出会い。好きな人、未来。
全部全部、諦めることなく、いられたら――。
「私、私を、好きでいれたかな――」
口をついて、言葉が出た。
ぱんっ、ぱんっ。
「二回目は、許さないから」
銃声が轟いた。
「……ぁ?」
次いで間の抜けた男の声が聞こえて、思わず目を開ける。
「……え?」
固まったままの男が、後頭部から血を噴き出していた。噴水のように撒き散らされる血が、ぱたぱたと体に飛んでくる。視界が男の体いっぱいになって、意識の無い人間の重みがそのまま体に伝わる。後ろ手の都合で、受け流すこともできない。
「死んでる……? って、いた、いたた……!」
重みでいっぱいになった体をばたばたと揺らしていると、後ろの誰かが死体をどかす。私の横へずるりと落ちていくそれは、瞳孔も反応していない。男の後ろにいた誰かが、殺した。
――助けてくれた?
考えるよりも先に、相手が声をかけてきた。
「……また、怖い思いさせちゃったね」
「……なんで」
なんで、あなたはいつも、私の人生を諦められるところにいるんですか。
「カズハさん……」
「……ここ、平和の森公園」
「……え……?」
「朝方は人がいないからって、ここを選んだんだろうね。太陽が昇ったら、みんな帰っちゃうから」
そう言いながら、彼女は私の後ろに回り込む。腰を括るロープが巻き付けられていた木の根元で、それをいじり出した。
しばらくすると、腰の締め付けが緩くなる感覚がある。見下ろすと、きつく巻かれていたロープがはらはらと足元に落ちていた。
そのまま私の手首を触り、ぐいぐいとあちこちを引っ張り始める。こちらも同じように、しばらくしてから手首が緩んだ。急に回り始めた血で手首がじんじんと熱い。
へたり込んだままの私に、カズハさんは手を差し伸べた。
「……間に合って、良かった」
「……んでですか」
「ん?」
こぼれた言葉に、彼女は首をかしげる。この感情が安堵なのか、それとも別種のものなのか。今の私には何もわからない。
ただ、口をついて出る言葉が止まらなかった。
「どうして、私を死なせてくれないんですか――!」
「……カレンさん」
「嘘でした! 全部、全部……お金は盗まれてたし、アップマーケットの人は私を家族にしてくれなかった! 死んでよかった! なのに、なんで、なんで――カズハさんは、いっつも、いっつも……!」
「……」
こんなこと、言いたくないのに。全身に血がどくどくと巡る熱が、私の喉を濁らせる。じわじわと目頭が熱くなる。
この人の前で泣くの、何回目だろう。
「ころ、殺され、たかった! 最初、ちょっと苦しいだけ、死ねば、死ねば楽になれる! わたし、わたし……!」
カズハさんは、何も言い返さない。暴れている子どもを見守るみたいにして、ずっと私を待っている。それに甘えるように、嗚咽が混じる。
「ころ、殺されたい……! カズハさん、わたし……! ひぐっ、ひぐっ……」
「……そっか」
黙って聞いていたカズハさんは、一度頷くと、手元の拳銃をもう一度構えた。ゆっくりと腕を上げ、銃口が近づき――血が流れている私の額に、ぴったりと構える。
「……もし、今。私が、あなたを殺すとして、それでもいいの?」
「いい……! もう、いいんです……! わたし、わたしなんて……!」
つい先ほど撃ったばかりの銃身から出る熱が、私の顔に伝ってくる。
それは血の熱と一緒に入り混じって、私の感情をないまぜにする。喉が裂けるように痛い。こんな声、生まれてこの方出したことがあるだろうか。
ぐちゃぐちゃの感情が、絞り切った喉から掠れた声を産む。
「だれにもあいされないくらいなら、カズハさん、ころしてよ……!」
「……わかった」
彼女の人差し指が、隙のない所作で引き金にかけられる。
――知らない誰かに殺されるくらいなら、
「カレンの人生、私がもらうね」
――好きな人に殺されたい。
振り上げられた手と銃身。直後、大きな音が鳴る。頭を襲った鈍い痛みで、世界は暗転する。魂が抜けたみたいに、体が軽くなったような錯覚があった。
あぁ、これでようやく――私は死ねるんだ。
挿絵:餅千歳あぐり
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