Prologue(★)
今夜もまた死ねなかった。それは、私の勇気が足りないせいだ。
窓越しの世界が薄暗い青色になるのが見えて、私は持っていたロープを床に下ろす。
荒縄のざらつきが赤らんだ手のひらの上に残って、しびれるような痛みがずっと居座っている。五本指を握って、開いて。
確かめるようにそうしている部屋の中で、しずくが落ちる音はうつろに響く。
「もう朝になっちゃった……」
仄暗い感情に押しつぶされないように、きしむ床から立ち上がった。
冷たいフローリングはところどころ剥げ、足を運ぶたび悲鳴のような音をかき鳴らす。
洗面台のドアを開けると、下着だけで立っている私がいる。
「……はは、私、ぶっさいくだ……」
くまで黒ずんだ目元、紫色を引いた唇。かさついた肌には擦り傷が残ったままで、メッシュと同じ赤色の跡は晒されたままだ。
首元には、編みこまれた線の模様が一本引かれている。
勇気はあったのに、運が悪かったある夜。覚えてもいない、いつかの日の痕跡だ。
台に置かれたポーチを開けて、小瓶にファンデ、口紅を手に取る。砂交じりのパッケージを軽く払って、冷たくなった顔に色を足す。
病的な青白さを張り付けた顔を、少しずつ健康的な色へ塗りつぶしていく。パフで叩き、撫でて、重ねて。目元をペンで何回かなぞると、少しだけましになった気がする。
ジャンク扱いだった中古品を集めて、擦り切れるまで使い果たす。そうすることで私は、ようやっと人に会える姿になれる。下着もそうだし、染髪剤や化粧品もそうだ。普段着にしている靴下やジャケットだって、焦げ付いた臭いが染みついてしょうがない。
それを自覚したうえですべて着込み、口紅をさっと引く。
最後に赤いバンダナを首元に巻いて、首元のあざを隠せば――
私は、人に出会うための姿になれる。
他の誰でもない、誰かに愛される可能性を持っている「明星華怜」になれる。
つむじからつま先までまとわる臭気を自覚しながら、玄関で靴ひもを縛る。毎日毎日同じ、私にとってはなんの変化もない絶望の一部。
蝶々結びにしたところで、深く息を吸って、吐く。弱い自分を殺すように、体の内側を入れ替えるように。遠くで聞こえる水滴の音に、呼吸が混ざる。
「大丈夫、大丈夫……私は――」
死ねなかった。
……違う、死ななかった。
今日だって、ぼろぼろで、みっともないけど、それでも生きている。
記憶の中で、穏やかな声が響く。
――『こんな世界』で生きられているいうことには、意味と目的があるはずなんだ。
――だからね、カレン。生きている限り、望みは捨てちゃいけないよ。
「……そうだよね、せんせい」
こんなに死にたいはずなのに死ねないなら、今生きている私の望みは必ず叶う。
だから、大丈夫。言い聞かすように胸の内で繰り返しながら、ドアを開ける。
その眼前には『せんせい』が言っていた『こんな世界』が広がっている。
♪
薄暗い青色をたたえた世界の空は、分厚い灰色が覆いつくしていた。
そこに目がけて昇っていくのは、黒みを帯びた排ガスとどこかで起きている火事の煙。メイクしたばかりの肌に、乾いた空気がなびく。
がれきの山とひび割れたビルが広がる町並みは、異臭と騒音でいっぱいになっている。
それを切り裂くように、どこかから乾いた発砲音が数度響いた。
見知った景色。
見知った臭い。
見知った響き。
私たちは、ここを『ゲットー』と呼んでいる。
隔離された人々の居住区。経済、衛生的に不自由で、貧困故の犯罪が常態化した世界。
視界いっぱいに広がる蟻地獄。その遠くには、大きなオブジェがそびえている。
巨大なシンボルにも見えるそれは、かつて角錐の形をした電波塔だったらしい。しかし今は先端から中央までが折れて、残された土台部分へ寄りかかるようにして倒れている。
鮮やかな赤色だったらしいそれは、年月の風化で赤茶色へ変色していた。
私は知っている。この町がこんな風になってしまう前、あの建物はこの地域の象徴として扱われていて、都市の名前を関した建物だったそうだ。
都市の名前は「東京」。
これは、二〇〇〇年よりずっと後に生まれた私にとって、現実の東京の話。
私が、私の世界を変えるまでの物語だ。
挿絵:ラムファイター
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