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俺はソファーから飛び降りた。のはいいものの、混乱して何も言葉にできない。
と、森さんは優しくフォローを入れてくれた。
「実は、お名前はすでに他の方から伺っているのですが、できればあなたの口から教えて頂けますかな?」
「あ、はい。上園、上園恭介です。それでえと、その、森さん。その後のお加減は如何ですか?」
「ええ。お蔭さまで、すっかり元気になりました。上園恭介さん、その節は本当にありがとうございました」
「あ、いや、いや、あの、それは、良かったです。どうも」
俺は恐縮し捲りながら、求められた握手に応じる。
瞬間、バシッとフラッシュが焚かれ、驚きに思わず目を閉じた。慌てて振り向くと、いつの間にそこにいたのか学年主任の先生がごついカメラを構えてこちらにレンズの狙いを定めていた。
目を白黒させる俺に気付いた学年主任は悪びれもせず、
「広報に頼まれてな。滅多にない機会だから、学校通信に使わせて欲しいってな。まあでも一応掲載には上園の許可が必要なんだが、いいよな?」
「ああ、まあ、はい」
「よし」
これで遠慮する必要はなくなったとばかりにぐいぐいレンズを向けてくる学年主任。
「では、少しお二人にお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」
気が付いたら対面のソファーにPTA広報役員の腕章を付けた化粧の濃いオバサンが座っていた。そして脇を見ると森さんは俺のスペースを空けてソファーに腰掛け「もちろんです」とニコやかに頷いていた。
「上園君も、いいかな?」
見上げられ、有無を言わせぬ空気の中、俺はとても素直な子になって着席した。
物凄いテンプレートに公式向けな質問責めを受け終え、俺は校長室のソファーの上で干からびていた。
俺の人命救助に纏わるあの時の事件について、倒れた森さんを見た時どう思ったのかだの、救命措置の最中は何を考えていたのかだの、また森さんに対してもご自分が助けられた経緯を知らされた時の気持ちやら今回ようやく実現した俺との対面について一言やら。
んなもん、訊かなくても大体予想できるだろうに何故わざわざ訊くのかと。
ああいうインタビューを常日頃受けて平然としていられるテレビ界の人達は心の底から尊敬に値する。
「いや、すまなかったね上園君。君に直接会ってお礼がしたいと学校に問い合わせたら、是非学校通信に載せる為の記事を書かせてくれと言われたものでね。断れなかったんだ」
席を移動し、対面のソファーでお茶を啜る森さんが申し訳なさそうに謝ってきた。最初の頃より口調が砕けているのは、インタビューのお蔭かもしれない。ずっとあんな風に畏まられてはこっちも気疲れしてしまうので、そこだけは助かった。
俺は「いえ……」と森さんの謝罪を首を横に振って制し、上体を起こす。
「まあ、色々疲れましたけど、こうしてお話ができて俺も良かったです」
「それは私の言う言葉だよ。医師からは上園君の応急処置が適切だったからこそ助かったとまで言われているんだ。本当に、命を救ってくれてどうもありがとう」
深々頭を下げる森さん。俺は気恥ずかしく感じて頬を掻きながら、その言葉をしっかり受け止めた。
騒がしい一月のお蔭でほとんど忘れかけていたが、本当に自分はこの人の命を救ったんだなって事が段々と、実感を帯びて心に根を張っていく。
俺は、人としてとても誇れる役目を果たせた気がして、胸に感じる温かいものに涙しそうになった。
アレ以来、コレ繋がりで起こった出来事にロクなものがなかったから、余計。
現在、校長室には俺と森さんの二人しかいなかった。
気兼ねなく二人で話がしたいという森さんの意向に沿い、校長含め教員及び役員の皆さんは退室したのである。
「それにしてもそのー、何だね。何と言うかー、本当に悪かったね」
森さんが拳で髭を擦りながら歯切れ悪く謝ってきた。何について謝られているのか分からず俺がキョトンとしていると、
「そのー、ね。私が気を、失っている間に。上園君の唇を奪ってしまった事についてだよ」
反射的に俺は口を隠した。そういえば、インタビューの最中にそんな事を口走ってしまったような気がする。緊張し捲っててもう何を答えたのか全然覚えてないが、役員のオバサンはその辺りに猛烈に食い付いてきたような思い出が残っている。
申し訳トーンを維持したまま、森さんは続けた。
「さっき聞いてからこれだけは訊いておかねばと思っていたんだがね、上園君には、恋人はいるのかな?」
「へ?」
予想だにしない話題転換に俺は素っ頓狂な反応になってしまう。そしてすぐに訊かれた内容が脳に染み込み、顔の熱が膨張して一気に思考が停止してしまった。
「お、その顔はいるんだね。いやーそれは本当に悪い事をした。私はその幸運なお嬢さんにも誠心誠意謝っておかなければならないね」
勝手に解釈してしまう森さんに俺は手をあたふたとバタつかせた。
「い、いや、あ、恋人は、まだ、できた事が」
「そうなのか。ならば好きな人だね。今、誰かの顔を思い浮かべているだろう? そういう顔をしているよ」
う、と俺は言葉に詰まる。言われた瞬間、漠然とした脳内のイメージが途端に鮮明になり、一人の女の子の姿が焼き付いてしまった。
森さんは老獪に笑いながら肩を竦めた。
「むーん、しかし残念だな。もしまだ上園君に想いの人がいなかったのなら、私の孫娘を紹介してやりたかった所なのだが。孫娘には、上園君の唇を奪ってしまった私の責任に託けてでも。丁度上園君と同じ年の頃でね、おお。そういえば上園君はあの日に病院で私の孫娘に会ったそうだね」
「ああ、ええ。多分。確か、健円の方の女子校、の人ですか?」
森さんに付き添って救急車で運ばれた病院で、帰り際に少し話した、市外の学園都市にある女子校の制服を着た少女を思い出しながら尋ねると、森さんは嬉しそうに肯定した。
「中々べっぴんだったろう。まったく、折角いい造形を授かったのにわざわざ女子校に通うなんて、勿体ないとは思わないかい? これだからあの子にはいつまで経っても上園君のようないい婿との出会いが訪れないんだよ」
「あー、いや、その……」
「おっと、すまないね。困らせるつもりはなかったんだ。つい、ね。試してしまった。どうやら私の孫娘に一目惚れしてくれていた訳ではなさそうなのは、残念だが。いや、すまなかった。ははは」
森さんは何と答えればいいか分からないでいる俺の様子を見、両掌を返して引き下がった。
それから、一度倒れたご老人とは思えない程の元気な笑みを浮かべて、
「若い内の恋とは長い人生を歩む中で自分だけの、何よりも輝かしい宝物だよ。上園君はもう想う人がいるようだからね。その気持ちを大切にして、同じくらい想いの人も大切にしてあげなさい。それが、この少しばかり長生きする老人が命の恩人に贈る、細やかな人生のアドバイスだ」
この後、しばらく何でもない世間話を続け、タクシーに乗って帰っていった森さんを校門まで校長達と見送り、俺が荷物を取りに教室へと戻った時には、もう誰も残っていなかった。
俺は一人の帰路でぼんやりと、森さんの言葉を反芻した。
脳裏に焼き付いて離れなくなった姿は、高嶺の花な、学年一番人気の、宝さん。
しかし、その前に一瞬、俺は、違う誰かを思い浮かべた気がする。
……俺は、一体誰を思い浮かべた?
ぼやけたピントの向こうを見るような、夢を見たって印象だけが残っている寝起きのような靄が掛かって、腑に落ちない感覚がどうしても拭えなかった。