三十九戦三十九勝
三限後の休み時間。体育でグラウンドから帰って来た俺は、階段の踊り場で、
「かーみぞのっ」
と、後ろから声と共にポンッと肩を叩かれた。肩越しに振り返る。
宝さんが至近距離で人差し指を立てていた。
むに、と俺の頬に宝さんの綺麗な指が食い込み、思わず変な声が出る。楽しそうに宝さんは笑った。
「あははっ。ふが、だって」
俺は文句よりもその眩しい笑顔に見惚れ、いつまでもむず痒く感じる頬の突かれた箇所を擦りながら、
「ふがふが」
テンパって言葉を忘れてしまった。
アドリブのギャグかと思われたのか、宝さんはさらに明るく笑いながら手振りで先へ促してきた。
俺は途中購買の自販機に炭酸飲料を買いに行ったので直人、二郎と別れ、一人だった。また宝さんもこの時は一人だったようだ。
二人で並んで階段を上る。
「体育だったんだ。何やったの?」
「体力測定だよ。鉄の一五〇〇メートル」
肩に掛けていた学校指定の体育着袋を見ての宝さんの問いに、俺は人語をなんとか思い出して答える。宝さんは得心するように手を打った。
「そっかそっか。そういえばうちも前回まで体力測定だったっけ。何分だった?」
「えっと、五分三秒だったかな」
「あー惜しかったじゃん。もう後三秒で満点だったのに」
「宝さんは?」
「あたしは四分三十三。ぶい」
「うっへ、速。さすが陸部長距離」
「いやいやー、普段の練習に比べたら千五なんて短い短い」
「あれで短く感じるのか。凄いなー。俺なんてもう疲労困憊だって」
「部活ニートで五分一桁の方がよっぽど凄いよ。上園もなんか運動部入ればいいのに。折角運動神経いいんだからさ」
「うーん、今さらどっか入るのもなー」
そんな会話をしながら2-2の階に着いた所で、「そういえばさ」と宝さんは話題を変えてきた。それから内向きに付けている女性物のさり気なくおしゃれな腕時計を確かめ、
「あーもう休み時間終わっちゃうか。放課後……は、あたし部活だし、お昼休み、ちょっと時間ある?」
「え? いや、どうだろう? 例の先輩多分今日も来るしなぁ。なんか大事な用事? 時間要るようなら、先輩にちょっと待ってて貰うけど」
考えながら答えると、宝さんはしばし顎に手を当て考え込んでから、
「ううん。やっぱり、いい。あ、じゃああたしここだから」
2-3の教室の前で足を止めた。
「じゃね」
「ああ、じゃ」
ひらりと手を上げて教室に入っていく宝さんを見送り、俺も隣の自分の教室へ向かった。
その日の昼休み、ズバーン! と教室中に自己主張を撒き散らしていつものように一条先輩が現れた。
「勝負よ上園恭介! 私が勝ったら、私と付き合いなさい!」
ぶっちゃけていいですか。このセリフ、もう聞き飽きました。
新しいクラス内にも形成されてきた仲良しグループで集まるクラスメート達も、その場で苦笑を向けてくるだけで自分達の方に戻っていく。
俺の後ろの席で、物理的に無視できない二郎が一条先輩にポツリと尋ねた。
「今日はなんか遅かったですね。いつもは四限終了と同時に召喚するのに」
「ソコ、人をカードゲームのモンスターみたいに言うんじゃないわよ!」
一条先輩がいつものハイボイスで噛み付く。
しかし二郎の言う通り、今日はもう昼休みが始まってから五分も経っていた。いつもは四限終了後五秒以内に召喚するクセに。誰のせいで早弁と下校途中の買い食いが習慣になってしまったのか自覚して欲しい。
これなら宝さんの所へ、前の休み時間に聞きそびれた話を聞きに行った方が良かったかもしれないと後悔していると、一条先輩は力強く胸を張って踏ん反り返った。
「ふん、戦略よ戦略。焦らして焦らして相手を精神的に乱す作戦は、決闘に於いて宮本武蔵と佐々木小次郎の時代から脈々と受け継がれる、由緒ある戦略なのよ。知らない訳?」
佐々木小次郎がたった五分の遅刻で平静を見失うくらい気が短いという話は初めて聞きました。
「まあ、俺は特に焦れてないすけど」
寧ろもう諦めてくれたのかとわくわくしていたくらいだ。一条先輩が現れた瞬間、腹の上辺りがよく分からない不思議な感覚に溢れたのを、俺はそう解釈して自分を納得させた。
一条先輩は腰に手を当てふふん、と無駄に自信満々に鼻を鳴らす。
「どう取り繕おうとアンタの勝手だけど、いつまでも強がっていられると思ったら大間違いだわ。今日の勝負は冷静さが物を言うからね」
偉そうなセリフを抜かしつつ俺の机の上にガシャンと置かれたのは、マス目の入った緑の盤だ。召喚した瞬間に一条先輩がそれを小脇に抱えているのに気付いていたから、訊くまでもなかったのだが。
「今日はオセロで勝負よ。ソコ、ちょっと椅子借りるわ」
一条先輩が直人に指を突き付ける。直人は「あ、はいはい」と素直に椅子を差し出していた。我が物顔で俺の机の前に持ってこられた直人の椅子に座る一条先輩。
久々の盤系勝負は、先後ジャンケンに勝利した俺の決定により、俺の先攻で始まった。
終わった。
『…………』
その場の誰も、二の句が継げない。
直人が驚愕に彩られた表情で俺の机の上を凝視する。二郎なんか、逆に冷静になってこの光景を写メに収めていた。一条先輩の頭越しに本日の勝負の途中経過を覗こうとした通行人が、「うお!?」と声を上げる。
俺も、最後の一手を打って白い駒をひっくり返した手のまま、思わず固まってしまった。何かひっくり返す場所を間違えたかと、真剣に信じられない思いで最後に自分が置いた駒の場所を確認し、挟んだ駒を思い出しシミュレートする。うん。間違ってない。いつものように、俺の圧勝だ。
盤上の駒は、物の見事に黒一色だった。
しかも、
「オセロって……マス全部埋まる前に終わる事、あるんだな……」
茫然と直人が呟く。
盤の上にはまだ緑の部分がかなり残っていた。マスが全部埋まる前に、盤上から白の軍勢が奇麗さっぱり消え失せていたのだ。
つまり、白も黒も続行不可能。野球で言えば、俺のコールド勝ちだった。
俺は恐る恐る一条先輩の様子を窺う。初日の将棋の時のように決壊寸前になっていやしないかと思ったのだが、
「ふむ。私の負けね」
思いの外一条先輩は動じていなかった。隙間だらけの黒一色で終了したオセロの盤を一瞥した一条先輩はくるっと体を横向け、黒板上の時計に目を遣る。いつものペースなら、何かしらの勝負をあと二、三戦できる時間が残っていた。
しかし。
「あのさ、上園恭介」
横顔のまま発せられた、不意打ちに静かな声にビクッと俺の体が震える。
視界の隅で見えていたのか、一条先輩は横目で睨んできた。
「何にビビってんのよ、アンタ」
「え、いや、さあ。ビビってなんか、いませんのことよ?」
「ふん。まあいいわ」
苦しい俺の取り繕いを切り捨て、再び一条先輩は教室の時計に目を向けた。
そのまま十数秒、秒針の動きを観察するような時間が流れ、どうしたのかと俺と二郎と直人が目を見合わせた頃、
「ところでさ、アンタ……」
一条先輩はこちらを見ずにもう一度呼び掛けてきた。アンタ=俺でほぼ間違いなく、俺は一条先輩の次の言葉を待ったが、一条先輩は高速で目だけ何度も動かし視線を俺と時計の間で行ったり来たりさせるばかりで中々切り出さない。
その内俺は微妙な空気に堪え切れなくなり、口を挟んだ。
「で。えーと、次の勝負は?」
訊いた瞬間今度は一条先輩が肩を跳ねさせた。何にビビってんすか? とし返そうかとも思ったが、それより前に動き出した一条先輩は素早くオセロを片付けると、
「今日はこのくらいにしといてあげるわ! じゃあね!」
本日の終戦を宣言して脱兎の如く撤収していった。
最近にしては珍しい潔さに、教室内にいた他のクラスメート達も目を丸くしてこっちを見ている。
「なんか先輩、今日は変な感じだった?」
「いや、ある意味いつも通りじゃねえのか」
直人と二郎が首を傾げているのを尻目に、俺はどこか不完全燃焼な気分に襲われる。
だが、一条先輩がいなくなったんなら、今日は本当に久々の平穏な昼休みだ。そう思い直し、これはいい事じゃないかと納得した。
納得するのに何故か心のメーターをいくらか消費して、無性に不可解な気持ちになったが。
「あ、そうだ。俺ちょっと隣のクラス行ってくるな」
宝さんが俺に話がありそうだったのを思い出し、俺は席を立つ。二人は「おー」と答えるとその場で雑談を始めた。
宝さんは、お昼休みはいつも教室にいないらしい。どこかで丸さん達と弁当を食べているのだろう。
俺から探す気にもなれず、結局そのまま俺は2-2に戻って無為な昼休みを過ごした。
午後四時半。さっさと帰る奴はとっくにいなくなり、部活の奴は今正に部活の真っ最中。
そんな中途半端な放課後の時分に、俺は瀬和駅のホームで電車を待ちながら、直人と雑談でヒマを潰していた。教室で二郎のバイトまでの時間潰しに付き合うので、普段から俺達の下校はこんな感じになる。
「えー、お前もどっか行くのかよ。二郎も『書き入れ時に遊んでられっか』とか言ってどっかに泊まり込みのバイト入れちゃったみたいだし、じゃあオイラは連休中誰と遊べば?」
「しょうがないだろ。毎年ゴールデンウィークは親父の実家に帰省する事になってんの。ウチは」
見捨てられた子犬のような目で縋ってくる小柄な友人をチョップで黙らせる。直人は打ち拉がれて嘘泣きした。仕方なく茶番に乗り、演技振って慰めてやる。
世間では明日の土曜から五月の大型連休だ。来年の受験に備えてという有り難い御言葉と共に数学とかの宿題をごっそり頂戴したが、そんなくらいで遊びの予定を諦める現代高校生ではない。
俺は明日から帰省だが、親父の実家は我が国日本の首都なので、結構やりたい予定がビッシリなのだった。当然連休最終日まで帰って来るつもりはない。
「くっそ~、連休中は映画無理ってそういう事かっ。裏切り者めっ。お土産は白い恋人でよろしく」
「酷い言われようだが取り敢えずいつ北海道だと言った。行くのは東京だぞ」
「東京ならある気がする」
「そうか? いやー、ないと思うけどなあ。まあ、あったらな」
そうしてしばらくお互いの連休の予定や、自然消滅した予定の恨み事などを語り合っていたら、ふと直人が向かいのホームにとある人物を見付けた。
「あれ? あれ、一条先輩?」
言われて俺もそちらに顔を向ける。改札のある駅舎に繋がる階段から、セミロングの黒いポニーテールを躍らせるように降りてきていた一条先輩はこちらの視線に気付くと、「あ」と一瞬口を開けて立ち止まってから俺達と空間的に最短距離の位置まで移動してきた。
どうも、と俺が頭を下げ、ちわー、と直人が挨拶する。一条先輩は返事もせずに腰に手を当て力強く胸を張った。
「なに、アンタ達今帰り? こんな時間まで何やってたのよ」
「特に何も。強いて言うなら、駄弁ってました」
「ふーん。ヒマ人ね」
「そういう一条先輩こそこんな時間まで一人で何やってたんすか」
俺は思ったままに尋ねてみた。
「補習よ補習。三年になると自由参加の補習とかが結構あるの。それに出てたのよ。飽きたから一時間くらいで帰って来たけどね」
「一瞬、ちゃんと受験生してたんだなあと見直した俺の気持ちはどこに持っていけばいいと思いますか」
「アンタ私を何だと思ってた訳? この時期自由参加の補習になんか半分は最初から出て来ないんだからね。気持ちが余ったんなら私への敬意に回しなさい」
戯言を。
俺は喉まで出掛かってきた言葉を飲み込んだ。直人は会話に参加する気がないのか、俺と一条先輩が発言する度に、音に反応して首を動かすロボットみたいになっている。
そういえば、昼休み以外で一条先輩に会ったのって、これが初めてかもしれない。
会えば必ず勝負になっていたが、この場合はどうするのだろう。今日は昼も一戦しかしなかったし。
気持ち警戒していると、一条先輩は俺の表情から考えを読んだらしく、発情期にメスネコに襲い掛かって行くオスネコを見るような目で見返してきた。
「安心しなさい。今は勝負しないわ。別に種目がない訳でもないけど、私が勝った時にアンタが逃げないように捕まえられる位置にいないと意味無いもの」
「……今まで全部俺の圧勝じゃないすか」
「次は勝つわ」
相変わらず優秀な耳だ。ボソッと直人くらいにしか聞こえないような声で呟いたハズなのに、根拠の全く無い自信を賜った。
そこで会話が途切れ、空白な時間が訪れる。
一条先輩は落ち着きなく線路の向こうを何度も見通し、俺も一条先輩が聞いている前で直人と二人の雑談に戻る気にはならなかった。直人は制服姿の美人な女子高生が飛び跳ねて喜びを表現している予備校の広告ポスターをポケーっと眺めていた。
「か、上園恭介」
唐突に一条先輩が沈黙を破った。俺は「はい」と反射的に振り向く。
一条先輩はブレザーのポケットに手を突っ込みながら、しどろもどろに目を泳がせていた。
俺は何挙動不審になっているんだと疑問しつつ黙って要件を待つ。
やがて一条先輩は頻りに首を小さく縦に動かしてから、
「本当は、昼休みに言おうと思ってたんだけど――」
続こうとした言葉は、大音量の警告音に掻き消された。
ホーム脇の踏切が盛大に単調な警鐘を鳴らし、間もなく二俣沢方面のホームに電車が到着する旨の連絡放送が流れる。一条先輩がいる方のホームだ。
その瞬間の一条先輩は、酷く怯んでいたように見えた。何とも言えない複雑な表情で音声を発するメガホンを見詰めていた一条先輩は、こちらに顔を戻した時にはもういつもの自信に満ちた尊大な笑顔を貼り付けていた。
「やっぱいいわ。それより、連休明けたら絶対勝ってやるんだから、覚悟してなさいっ! いいわね上園恭介!」
偉そうに踏ん反り返って高らかに宣言された直後、互いのホームの間に電車が滑り込んで来た。停まった電車の窓から一条先輩の姿はずっと見えていたのだけれど、電車に乗り込んだ一条先輩はもうこちらと意思疎通を図る気がないのか反対を向いて腕を組み仁王立ちになっていたので、その表情は見えなかった。
一条先輩を乗せた電車が走り去ると、入れ替わるように俺達のホームにも電車が到着する。
俺は電車に乗り込んだ。直人との雑談を再開しながら、加速度的に流れていく窓の外を眺める。
この日はずっと、最後に見た一条先輩の笑顔が妙に頭に残っていた。
いつもの自信の中に、何か別の感情が含まれていたように思えてならなかった。
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