extra match
六限の授業が終わり、授業前から少しも文字が書き込まれなかったルーズリーフや教科書を鞄に仕舞うと、俺はそれを持たずに席を立った。
「恭介」
ドアに手を掛けようとしたところで直人に呼び掛けられた。直人は眉根を寄せ、何か言いたそうな口を固く閉めて俺を見詰めていた。二郎も俺の後ろの席に着いたまま、真っ直ぐに俺を見据えている。
俺は一年来の友人二人に肩を竦めて告げた。
「すぐに済む用事かもしれないし、長くなるかもしれないけど、どっちにしろ先に帰ってて貰えると、助かる」
粗方の事情を知っている二人はほんの数秒黙り、
「ま、そう言われちゃしゃーねえな。んじゃ、俺はバイトまでの時間をどっか他んトコで潰すとするか」
「あ、それなら二郎、例の所行こうぜ。オイラまだ今年の五月の例のアレ、チェックしてないんだよ」
「お、いいな。でもあそこチャリ置けっかな」
「あー、そっかぁ。二郎チャリかぁ。んー、まあ止めるトコ空いて無かったら乗り入れちゃえば」
「学校に通報されるわ」
荷物を持って席を立ち、言い合いながら俺の脇を擦り抜けて廊下に出る二人。続けて廊下に手ぶらで出た俺は、階段の場所は同じだから、例の所の話題で談笑する二人の三歩後ろを黙って歩く。隣のクラスを通過する時なんとなく俺は教室の中を覗いてみたが、授業後特有の雑踏で知り合いとは誰とも目が合わなかった。
そのまま階段まで歩き、二郎と直人が下りて行くのを見送るともなく見届けながら、俺は上階へと足を持ち上げる。言葉を交わさず別れてくれたのが俺にとっては有り難かった。
上から下りてくる生徒達を躱しながら最上階を目指し、やがて屋上の扉が見えてきた。
と、そこでポケットの携帯が着信。取り出す前にバイブが止んだからメールだというのはすぐに分かった。二郎からだ。
『時間空いたら例の所に来い。今月の例のアレは超特大らしいから二人じゃ処理しきれないかもしれない。』
俺は手摺りに寄り掛かって一息吐く。今頃二人は昇降口辺りか。途中で今月例の所に行った知り合いに会ったらしい。いつも通りの何でも無いメールに、返信はしなかった。
メール画面を閉じ、パチンと携帯を畳んでポケットに戻す。そして残りの段を登り切り、重い雰囲気の無機質な鉄の扉のノブを回し、ゆっくり押し開く。
明るい青い空が俺を出迎えた。薄暗い屋上前の階段から急に光を浴びて、一瞬目が眩む。
風は無い。常時一般生徒にも開放されている屋上は高い頑丈な柵で縁を囲まれ、縁沿いに等間隔で背凭れの無い青いベンチが並べられている。足元は鼠色のコンクリート。
その真ん中に、制服姿の女子生徒が立っていた。背を向けていた彼女は何度か深呼吸するように肩を上下させ、こちらへ振り返る。首の動きに合わせて短髪の端が小さく揺れた。
女子生徒は俺の顔を見て、涙さえ浮かべそうな笑顔になった。
「上園……良かった。来てくれなかったらどうしようかって、あたし……ありがとう」
上がった息を落ち着けるように胸に手を当てて、女子生徒は――宝さんはコトリと僅かに腰を折った。
俺は自分の物じゃないみたいな足を動かして宝さんに歩み寄る。すると、実際に彼女の息は軽くだが本当に上がっているのだと気付いた。運動後のように顔が上気している。
「もしかして、階段走って上ってきた?」
ははは、と宝さんは苦笑を洩らして恥ずかし気に頬を掻く。
「だって、あたしから来て貰うのに、あたしが迎えられちゃうなんて、カッコ悪いかなって。授業終わる時間も一緒だし、クラスは隣だし、急いで来ないと……はふぅ~」
宝さんがここに着いてからそう何分も経っていない筈だが、宝さんの声はハッキリしたものだった。だがやはりまだ体が呼吸を求めているらしく、喋った分のような空気を最後に大きく吐き出した。
「大丈夫?」
「うん。平気。あたしこれでも陸上部の長距離選手だから。今ので大分楽になったよ」
「流石。俺なら五分は膝に手を突いたまま動けなくなるのに」
俺が感心して返すと宝さんは普段通りの快活で魅力的な笑みを見せてくれた。本人が言うように、実際宝さんの息は完全に整ったモノに回復したようだ。
でもそういう事なら立ったままってのは気になってしまう。呼吸は戻せても、この五月の陽気で制服に籠った熱気はどうしようもなさそうだし。
「でも宝さん。全速力で走ってきたんなら少し疲れてるでしょ? 取り敢えずベンチ座らない? 俺も慣れない運動で太腿がプルプルでさ」
「あ、うん。そうだね。えと、ゴメンね? こんな所に呼び出しちゃって……もっと楽な場所もあったかもしれないのに、あたし……ここしか思い付けなくて――」
「待った待った。そういうのはいいから。俺もゴメン、そんなつもりじゃなかったんだけど、とにかく腰を降ろして落ち着こう」
いつになく弱気な宝さんの言葉を遮って、俺はベンチへエスコートする。多分、立場が逆なら俺も今の宝さんみたいな感じになってしまうのだろうから、なるべく丁重に。宝さんは素直にうんと頷いて付いて来てくれた。
二人で腰を落ち付け、人心地つく。
ここで俺はようやくブレザーの内側に手を突っ込み、今朝俺の下駄箱に入っていた長方形の真っ白い、開封済みの封筒を取り出した。
それを目にして、僅かに宝さんが身を強張らせたのが分かった。
「手紙、ありがとう。読ませて貰った。こういうの貰える日が来るとは思ってなかったから……ビックリしたけど、嬉しかった」
「うん……そっか。今更だけど、上園、知っちゃったんだよね。あたし、伝えちゃったんだ……」
隣で宝さんがそわそわと落ち着きなく体のあちこちを小まめに動かす。真っ赤な顔が、不謹慎かもしれないが凄くかわいく見えた。普段から十分人目を惹く魅力があるのに、今の宝さんは完全にもう1ランク上だ。こんなにかわいい宝さん初めて見た。
単刀直入に言って、今朝の手紙の内容は宝さんからのラブレターだった。
宝さんのあの、純粋で必死な宝さんだけの言葉は一生俺の中だけに留めて墓まで持っていくと決意しているので抜粋はできないが、俺の主観も交えた言葉で箇条書きするならばこんな内容だった。
宝さんのラブレターは――こういう言い方では語弊があるかもしれないが――とても下手に出た挨拶から始まっていた。
次に愛の告白の一文が綴られていた。うぅ、自分で言っててメチャクチャ恥ずかしい。
で、その次の行からは、俺を意識し始めてから手紙を送るまでの経緯が続く。
意識し始めたのは始業式の日。そう。俺が森さんを助けた、あの日。
あの時、実は森さんの隣で電車を待っていたこと。
年度初めの軽い部活を終え、他の部活仲間は皆二俣沢方面、それも向こうはすぐに電車が来たから一人だったこと。
そしたら突然森さんが倒れて、どうしたらいいのか分からず、一番近くにいたのに駆け寄ることすらできなかったこと。
周りの人達も遠巻きに森さんと、宝さんを観察するように見ているだけで、自分から動き出そうとする人はおらず、自分が助けなきゃいけないと言われているような気がして、でも頭の中が真っ白で、その状況が途轍もなく恐かったこと。
そこへ人垣の間から飛び出してきたのが俺だったこと。そんなにすぐ近くに宝さんがいたとは俺は(あと直人も)全く気付いてなかったが、俺が森さんを蘇生させてる間、宝さんはずっと傍に立ち竦んでいたらしい。
それ以来――なんか俺としては意識してなかったから正直居た堪れない修飾語が付いていたが要するに――あの時の俺の姿が頭から離れなくなってしまったこと。
ちなみに救急車に運ばれていく森さんに付いて行った俺の名を駅員に訊かれ、答えたのは宝さんだったとも明かされていた。俺が以前、名前を明かした奴を愚痴ってたと聞いた時から、ずっと謝りたかったとも書いてあった。
だが、あんな事態があったんだから強烈に印象に残るのは当たり前。
そう考え、これは一過性の思い込みだとしばらく自分に言い聞かせていたこと。
そうしてそばらく悶々と過ごしていたある日、二、三年の間で猛烈に広がった……らしい俺と一条先輩の噂を耳にしたこと。
さらにその数日後に廊下で俺のフルネームを呼び捨てで大声で嬉しそうに叫ぶ一条先輩を見付け、しかもその直後、あの日以来見掛けてすらいなかった俺にバッタリ遭遇したお蔭でさらに意識してしまうようになったこと。
同時に噂で想像していた以上に美人だった一条先輩の存在が酷く気になり始めたこと。
しかしこの時は俺に対しても一条先輩に対しても心が大きく揺さぶられ過ぎて、自分の気持ちをしっかり整理できなかったこと。
だから自分の気持ちを確かめる為、大型連休のどこかで俺と一緒に遊ぶ約束を取り付けてアプローチしてみようとしてたが、全部実行するまでには至れなかったこと。
おまけにうまく誘えなかった反動か(どっちにしろ俺は家族と共に東京へ帰省しないと餓死るので無理だったのだが)大型連休中に気持ちがどんどん抑え切れないくらいに大きくなっていってしまったこと。
連休明けからは俺を目にするだけで緊張し、前にした時なんかは心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい内心取り乱すようになっていたこと。
そして、想いを確信したのが今週の初め。
丸さんと鈴木さんに相談したらどうやら丸さんが気を逸らせてしまったようだが、そのお蔭で月曜は一緒に下校できたし火曜は人生ゲームに参戦できたと今では思っていること。
この二つで、宝さんはとても楽しんで頂けたようで――俺も存分に楽しかったんだが――えー、まあ、俺に恋したんだと確信したこと。
最後に、本当はこの気持ちは直接会って口で伝えるべきだと考えていて、そうしたいと思っていること。
でもきっとその場で全部伝えようとしても伝えたいことのいくつかは忘れてしまいそうだから、言えそうにない部分はこの手紙に書いて先に伝えておく事にしたと書き添えられ、
俺の気持ちがイエスでもノーでも、この気持ちは改めて直接口頭で聞いて欲しいこと、
手紙に書いていないお願いもあるから今日の放課後屋上に来て欲しいこと、
という旨の文章で締め括られていた。
俺は今朝これを教室へ行く前に腹痛のフリして駆け込んだ個室トイレで読んだのだ。
ちなみにその後すぐ、教室に着いた瞬間に二郎と直人に何かあったと見抜かれ、一言で最初と最後の内容だけを白状した。
「それだけであいつらは察してくれたから、今日は先に帰ってくれたよ。……無意味に言い触らすようなヤツらじゃないから、安心して欲しいんだけど」
宝さんに二郎と直人はどうしたのかと訊かれ、正直に俺は答えた。宝さんはうんと頷き、
「知ってる。去年同じクラスだったからね。川島と尾形と、あと、あの先輩には知られても仕方ないかなって思ってた」
「あー、一条先輩には、何も言ってない。何かあったかとは訊かれたけど」
「……そっか。できるだけ知られないようにしてくれたんだ。……その、上園のそんなや、……優しいところも、……あたし…………」
宝さんはますます顔を赤くして口籠ってしまう。先は、俺が言うのも何だが何となく予想できる。
しかしここに来た以上俺は下手な先取りなんかできない。宝さんに言い切らせてやるのが、俺の義務だと思う。
こういう形で言いたいのではないから詰まってしまったんだろうと考え、俺は一先ず会話を仕切り直した。
「宝さんの方は? 周りの人達に、なんか言ってきた?」
「あ、うん。マルちゃんもスズも、残って待ってるって言ってくれたけど、先に帰っててってお願いしたの。なんか……どう、顔見せればいいか分かんなくなりそうだし……」
「あー、そっちもだけどさ」
「え?」
宝さんが首を傾げた時、下からホイッスルが聞こえてきた。それは多分サッカー部か何かだったろうと思うが、グラウンドでは早くも多くの生徒が動き回っている。そしてトラック沿いにも、列を作ってアップをしている部活があった。
俺の視線に気付いたのか、宝さんは「あ、」と声を漏らすと気持ち校舎の縁でグラウンドから顔を隠すように姿勢を低くした。バツが悪そうに前髪を弄りつつ、
「部活の方は……うん。今日もあるのは分かってたんだけど……これはあたしなりのケジメだから」
「ケジメ?」
オウム返しに俺が頭を捻ると、宝さんはすっと立ち上がり、目の前の柵に背を預けて俺と向かい合った。
「ホントはね。手紙で呼び出すってマルちゃんとスズに話した時、マルちゃんには昼休みを指定すべきだって言われたの」
ピクリと自分の眉が大きく跳ねたのを俺は自覚した。正面にいる宝さんは少し表情を変えて、
「でも、それってなんか卑怯だなって。明確にまた明日昼休みに、って約束はしてないみたいな話、この前聞いたけど、でもやっぱり昼休みは先輩の持ち時間だから。そこに割り込んで行って、上園に選ばせるようなやり方は、卑怯だって。そんなんじゃ、あたし、きっと告白なんてできない」
宝さんは首を左右に振って言葉を探すように少しだけ顔を俯かせてから、真っ直ぐに合わせられないのかどことなく俺の後ろを見ている気がする視線で続ける。
「でも、あたしは放課後部活があって、でも上園は、迷惑だって言ってたけど、見る度に先輩と親しくなってるように、あたしには見えて……マルちゃんにも早めに動いた方がいいって言われて……あの手紙書くのに、三日も掛かっちゃったけど、だから、今日はサボらせて下さいって、昼休みキャプテンに頭下げに行ったの」
自分に対して、困った奴だよね、と言っているような苦い笑みを宝さんは浮かべた。
俺は宝さんの言葉にしっかり耳を傾ける傍ら、頭の隅が高速で働いていた。
もし。この呼び出しが放課後じゃなくて昼休みだったら。
俺はどうしただろう?
いや、多分、来ようとして、実際来たとは思う。
だが、そうすると確実に、一つの問題が発生する。俺はそれにどう対処したかという話だ。
うまく対処できた自分を、全く想像できない。それどころか今日一日ずっと脳裏の端に張り付いて離れなかったある顔が、意識の中で一気に膨れ上がった。
「上園」
宝さんが柵から背を離して背筋を伸ばす。応じて、俺はベンチから腰を上げ宝さんを真っ直ぐに見返した。
宝さんは最後に一度深く息を吸い、吐き出す。まん丸い瞳に意を決した光を湛えて、今度こそ真っ直ぐ俺に目を合わせた。
「一月前、勝手に名前をバラしちゃって、ごめんなさい。そしてあの時……上園は気付いてなかったみたいだけど、あのお爺さん――ううん、森さんを助けてくれた時、一番近くにいたあたしも……何もできなかったクセに自分勝手かもしれないけど、周囲の目から助け出して貰ったって感じがして――あの時からあたしは、あなたのことを好きになってしまいました」
宝さんは頭を下げた。必死さが伝わってくる動きに、キメ細やかな短髪全体がふわっと浮いた。
「――好きです。あたしと付き合って下さい」
憧れの宝さんが告白してくれる。これは、森さんを助けて表彰されたばかりの頃、夢見がちに妄想していた内の一つ。
それが今目の前で実現している。
俺は、自分でも驚くほど静かな気持ちでこの現実を受け入れていた。
宝さんは俺が返事をする前に顔を上げ、プリーツスカートのポケットに手を差し入れると薄い紙切れを取り出した。それを、身を竦め、肩を縮込め、傍目に見てても緊張していると分かる所作で俺に差し出した。
「もし、OKして貰えるなら……ホントはコレ、連休前に渡そうとしてたんだけど……一緒に、行って下さい」
その手には、予想興行収入今期最高と最近話題の映画、浮湯木椎の〈よく見たらシリーズ〉映画化企画第一弾作品のチケットが握られていた。
これを受け取れば、俺は、学年で一番人気の、憧れだったあの宝さんと恋人になれる。
宝さんは左手でワイシャツの胸元を握り締め、顔を真っ赤にして、不安いっぱいの表情で目を瞑って俺の返事を待っている。伸ばされた右手の先で映画のチケットが小刻みに震えている。
俺は落ち着いた声でゆっくりと口を開いた。
「ごめん」
宝さんが目を見開く。次いで端正な顔立ちが滲み出る涙で歪んでいこうとするのを、宝さんは懸命に堪えようとしていた。
俺はその様子から目を逸らさない。嗚咽を零す宝さんを抱き寄せようと持ち上がり掛ける腕を強い意志で抑え込み、そのままの姿勢ではっきりと気持ちを伝える。
「宝さんに好きって言われたことは、本当に嬉しい。知ってるかもしれないけど、宝さんは男子の間じゃ学年で一番人気があるんだ。俺も、ずっと宝さんには憧れてた。宝さんと、会えば話すくらいの仲だっていうのはちょっとした自慢だった。だからそんな宝さんから好きって想われていたなんて、正直夢みたいなんだ」
でも、と俺は繋げる。宝さんは潤んだ瞳を上げ、俺を見返した。期待があるからじゃない。俺の言葉を、逃げずに聞こうとしてくれているのだ。
心の中でもう一度、俺はごめんと謝って、
「こういう時に、もしある違う誰かがこの場にいたら、その人はどんな顔をするんだろう……そう考えてしまう内は、きっと、受け入れちゃいけないんだと思う。思い浮かぶのがその人のとても悲しそうな顔で、その人のそんな顔、心の底から見たくないって感じてしまうなら、なおさら」
だから、ごめん。
そう締めて俺は頭を下げた。
宝さんはストンと映画のチケットを持っていた手を降ろし、
「その人って……あの先輩?」
涙声で尋ねられ、俺は丁度一週間前、森さんと話した時を思い出した。『恋人はいるのかな?』と訊かれ、はっきりと思い描いたのは宝さんだった。
しかし、その前に一瞬別の誰かを俺は無意識に選んでいて、それが誰だったのかずっと思い出せずにいた。
俺は黙って首肯した。
あれは、一条先輩だったのだ。今、ようやくそう確信できた。
「そっか。やっぱり、あたしは出だしが、遅かったかな」
宝さんはチケットをポケットに仕舞いながら、真っ赤になった鼻を啜った。そして目尻から零そうになる涙を拭うと、唐突にグーを翳してきた。
俺は息を呑む。チラ、と俺の向こう側を見るように目を逸らした後、宝さんは腫れぼったい瞼を悪戯っこい笑みの形にして、俺の顔を見上げた。
「じゃあ、ジャンケンしよ。私が勝ったら、改めて、チケットを受け取って。負けたら……潔く諦めるから。――お願い」
最後は懇願に近かった。
毎日言われているのと主旨は同じ内容のセリフだ。毎日言ってくる人は、俺が嫌だと拒否しても結局勝負に持ち込んでしまう。だから俺は毎日、負けたら付き合うという賭けの勝負をしてきた。
宝さんに同じ事を言われて、
「分かった。いいよ」
断るなんて、できない。
二つのグーが相対する。
「ジャン、」
俺の声で二つのグーが揺れる。
「ケン、」
宝さんの声で二つのグーが跳ねるように振られる。
「「ポン」」
互いの手の動きが止まった。
俺――パー。
宝さん――グー。
ぅぐ、と宝さんから声が漏れた。それでも宝さんは笑おうとしている。
「やっぱり、人の真似したって運は引き寄せられない、か……でも、ちょっと先輩の気持ち、分かるかも。……だって、強いんだもん。強すぎだよ、上園」
「宝さん……」
思わず名前を呼ぶと、とん、と握られたままのグーが俺の胸板を軽く突いた。
「いいの。いい……なんとなく、ダメっぽいかなとも、思ってたから……勝算は五分五分くらいかなって。こうなるって覚悟も、一応して来たから……」
宝さんは俯いている。表情の見えない女の子の、震えた声が俺の耳を打つ。
「約束だから……あたしは諦めるよ。でも、一つだけ聞かせて」
「なに?」
「……あたし達、これからも、変わらず友達で……いられる?」
俺は、少しだけ間を溜めた。
嬉しくて。
ここに来る前から断ろうとは決めていた。だから、もう宝さんと話せなくなるだろうと覚悟して来た。
宝さんがそう望んでくれるのなら、答えは決まっている。俺は意図しなくても明るく微笑んで答えた。
「もちろん。宝さんといると、俺も楽しいから。宝さんとは、できればこれからもいい友達でいたい」
グーが下がる。宝さんは指を開いた手で目の辺りをゴシゴシ擦って、顔を上げるとそこにはいつもの魅力が輝く淡い微笑が浮いていた。
「ありがとう。これからも、よろしくね?」
「ああ。喜んで」
「うん。じゃあ、あたし、もう行くね」
言い終わらない内に、宝さんは歩を進めて俺の脇を擦り抜けた。一緒に行こうとは言わない。俺は見送るつもりでその場に留まった。
と、ふいに宝さんは足を止め、俺に横顔を見せる。前髪に隠れて表情は見えない。躊躇いがちな声で、宝さんは囁いた。
「先輩とはどうするの?」
「さあ。それは勝負の行方次第だな」
「……そっか」
それを最後に、宝さんは走り出した。駆け足で開けっ放しだった扉から校舎に入り、――何故かそこで向きを変えて一度お辞儀をしてから、階段を駆け下りていった。
俺はゆっくりとした足取りで宝さんが駈けていった後を歩く。校舎に入り、扉を閉めて、――屋上からは壁に隠れる位置に、セミロングのポニーテールがあった。
俺はブレザーの胸ポケットに一つ上の学年のバッジを付けた女子生徒を見下ろす。
「……。何よ?」
一条先輩は腰に手を当て力強く胸を張って堂々と開き直っていた。
思わず盛大な溜息が出る。そういや宝さんチラチラと俺の後ろ見てたな……
「ちょっと。その溜息はどういう意味な訳? 言いたい事があるならはっきり言いなさい」
「何でいるんすか……いや、ていうかいつからいたんすか」
「ふん。私だって別にこんなトコを盗み見する気なんかなかったわよ。ただ今日アンタ様子が変だったから、気になって放課後様子見に行ってやろうとしたら、屋上近くの手摺りに寄っ掛かってるアンタを見付けて、ここまで追ってきたの。そしたらアンタ達が勝手にあんな事になってただけよ」
つまりほとんど最初からか。俺はまた盛大な溜息を吐き出した。この人の教室が何階なのかは知らないが、相変わらずいい目をお持ちだ。吹き抜けとはいえ屋上付近の暗がりからちょっと覗いただけの俺を正確に視認するとは。
俺の態度に、一条先輩はムッと口を尖らせる。
「大体ね、アンタどこが何も無いよ。放課後女子に呼び出されてるなんて、全然何も無くないじゃない」
「何も無いすよ。少なくとも一条先輩と関係のある事は」
と返すと、一条先輩は大きな瞳に明確な怒りを露にした。その口が何かを怒鳴る一瞬前に、俺は言葉を滑り込ませる。
「だって一条先輩、俺が彼女持ちでも奪い取って付き合うのがバツゲームの内容なんでしょう? だったら俺がいつどこで誰に告白されようが、ここにきて彼女ができようが、何も関係無いじゃないすか」
ハッと一条先輩が忘れていた大前提を思い出したかのように凍り付く。
でもまあ、これはこれで丁度いい。俺は一条先輩を真っ向から見据え、自分でも不思議な程小波一つ立っていないような静寂な気持ちで、
「一条先輩。今、時間あるすよね」
「……私これでも今年受験生なんだけど」
「でも、こんな時間にこんな所にいるんすから、少しくらい時間借りれるすよね」
「……何? 何か用でもあるの?」
「ええ。ちょっと来て下さい」
宝さんの告白を断った瞬間から決意していた事を、告げた。
「――決着をつけましょう」