或る雪の降るバーで
暗い路地裏に、重たく冷たい雪が降っている。
その中で唯一、真鍮でできたライトが暖かい色で"BAR"の文字をぽつりと照らしていた。
「ここでいいか」
私は重い木のドアをゆっくりと開けた。
カランカラン。控えめなベルが店内に響くと、カウンターの奥からマスターらしきバーテンダーが出てきて「いらっしゃいませ、お好きな所へどうぞ」と席を促した。
そこはカウンターと小さいテーブル席がいくつかだけの、こじんまりしたバーだったので、私は彼がグラスを拭いているカウンターの前に腰掛けた。
奥のテーブル席には、いかにも常連らしいヒゲを生やした紳士が、静かにグラスを傾けている。
「メニューこちらになります。なにかご要望があればお気軽に仰ってください。」
落ち着いた感じのいいバーテンダーが、黒革でできたメニューを差し出す。程よく年季が入っていて質感がしっとりと手に馴染む。「これはいい店に入ったぞ」と私は思った。
パタリとメニューを開くと、見慣れたビールから、いかにも高級そうなワインや、貴重と名高いウイスキー、聞いたこともないカクテルなどが、少し小さな字でずらりと書き連ねてある。
眺めているだけで数時間は過ごせてしまいそうだ。
私はおもむろに尋ねる。
「あまり度数の高すぎない、それでいてスッキリと酔えるものはありますか」
「そうですねえ」バーテンダーが氷を削りながら考えるのを見て慌てて続ける
「いや、難しいことを言って申し訳ない。ここの所いろいろと疲れて果ててしまって。どうしようかな、じゃあ…」
私が適当にカクテルのページに指を当てると、「でしたら」と彼は口を開いた。
「ジンバックなどいかがでしょう」
ほう、ジンバックか。私は深く頷きながら「ではそれを」とメニューを閉じた。
店内にはかすかに流れるジャズと、リズミカルにお酒を作るシャカシャカという音だけが響いていた。
私はしばしそれに耳を傾けて、この特別な時間を楽しんだ。
奥のテーブルに座っていた紳士がグラスを持って立ち上がり、私のふたつ隣のスツールに腰掛け「マスター、私にも同じものを」と声をかける。
「かしこまりました」
それと丁度のタイミングで、コースターと共に私の前へロンググラスがコトンと置かれた。
「お待たせしました。ジンバックでございます。」
私が「どうも」と言うと、マスターはすぐに紳士の分のグラスを手にとりお酒を作りはじめた。
その流れるような動きに、一体もう何十年この仕事をしているのだろう、と考えてしまう。
「いい店でしょう」
ふたつ隣の席から、紳士が私に言う。
腹に響くような低く深い、やけに哀愁のある声に聞こえた。
「ええ、たまたま見つけて入ったのですが、暖かくて助かりました」
私が雪の見える小窓を指差しながら言うと、紳士はニッコリと笑って「しばらくは出れそうにないな」と続けた。
困ったなあと笑ってから、すこしばかり談笑を楽しんだあと、紳士の元へもジンバックが運ばれてくると、軽くグラスを持ち上げ乾杯の合図に応じた。
ざっくり切ったレモンが、程よい酸味と苦味を出していて、口に含むたびに美味い酒だと思った。
「いつまで続くんだろうね」
ふと紳士が、そんな言葉をこぼす。
それが自分に当てたものなのか、バーテンダーに当てたものなのか、はたまたどちらでもないのかは分からなかったが
「早く止んでほしいですね」と答えた。
先ほどまでの柔らかな表情とは一転し、彼の顔は、うつろでひどく思い詰めたようなものだった。
「ああ。雪も、このくだらない紛争も」
くだらない紛争。
口に出してしばらく、紳士はカウンターに肘をつき何も言わずに俯いた。
私も、何も言わずに少量酒を口に含んだ。
半年ほど前から、この周辺の地域では醜い内戦が起きている。
前線はすぐ隣の街まで来ていた。
ここももう長くは続かない事も、全員が解っている。解っていて、ここは"いつも通り"を必死に保ってできた空間なのだった。
日常は、ある日突然崩れ去る。
非日常が、平和な日常を侵略していく。
それでも生きなくてはいけない。
「息子が今日、前線へ行ったんです。心の優しい子だった。ペットでもないトカゲの骸を埋めて墓を作るような。あの子が銃を握る日が来るなんてね。」
ぽつりぽつりと紳士は、丁寧に、絞り出すような声で続けた。
「こんな悲しいことはないよ」と。
小さく流れていたはずのジャズがうるさいほどに、静まりかえったバーで時間だけが過ぎた。
私は、自分の足元へ置いた大きな荷物に目をやり、すこし躊躇ってからこう言った。
「私は、敵兵の治療をしました。
いや、治療をした人間が、たまたま敵の兵士だった。後悔はしていません。
でも、もうこの街にもいられません。」
酒の悪いところは、自分の境遇を見知らぬ人に話してしまうことだ。
「逃げるんです、私は」
あまりに情けなく、自分はなんて卑怯なのだと遣る瀬なくなる。
紳士はそんな私に「そんな事はない」と大きく首を振ってくれた。
静かにただ耳を傾けていたバーテンダーが、半分に切ったレモンを搾りながら言う。
「カクテルには、カクテル言葉というものがありまして。
送る相手や乾杯にする相手に、声なきメッセージを伝えることもできるのです。」
急にそんな事を言うので、私も紳士も少し興味を向けた目でバーテンダーを見る。
「私はバーテンダーなので、いらっしゃったお客様に、お酒をお出しすることしかできません。
」
そういうと、私、紳士、そして自分自身に、再びジンバックを置き、こう続けた。
「ジンバックのカクテル言葉は"正しい心"です。
私は、街がどうなってもこのカウンターの中で生涯を終えるつもりいます。どこにいても、またここへ来れば皆さんにお酒が振る舞えるように。
お客様も、息子さんも、その時はまたご一緒にいらしてください。それまでどうか、お元気で。」
カラリ、と綺麗に削った氷が音を立てて、私たちはゆっくりとグラスを傾けた。
飲み終えたグラスと、ポケットからお札をとりだしカウンターに置く。
「ありがとう」そう言って重たい荷物を持つと、彼らは微笑んで見送ってくれた。
この街には二度と戻らないつもりでいたが、つい三時間ほど前に会ったばかりの彼らを、私は心の中で"友人"と呼び、後ろ髪を引かれる気持ちでドアに手をかけた。
私は、正しいことをしたのだ。
それだけで、荷物は随分と軽くなっていた。