35.母の背中(アレクシス視点)
歯車が狂い始めたのは、間違いなくあの時だった。
幼い頃から、会う事も少なく多くは語らないものの、たまに会ったときには、鷹揚に優しい言葉をかけてくれる父、厳しくも、ユーモアのある愛にあふれる母、小生意気だが可愛い妹、そして、最愛の(ほぼ)婚約者に囲まれていた。
だから、座学、武術、魔法学、帝王学などの勉強や鍛錬による分刻みのスケジュールや、将来の王への重圧はあっても、頑張れた。
父母や祖先のお陰か、それに耐えうる能力も、我ながら持ち合わせていた事もある。
子供らしくない忙しさの合間を縫って、マリアンナやロザリア、ユアンと遊ぶのは、貴重な、子供としての時間だった。その時間をねん出して与えてくれた母には、今でも感謝をしている。
「は……? 伯爵夫人が……?」
それは、僕が十五歳になり、中等部の最高学年も、半ばを過ぎた頃であった。
その頃、僕に父の代理で公務が回ってくる事もあり、今までとはまた違う、慣れない忙しさに、気も緩む間もなかった。
そんなある日、珍しく王妃である母上から急な呼び出しがあった。
そして、聞かされたのは、大切な幼なじみの愛する母親の、突然の訃報だった。
「馬車の事故……という事に……なっているわ」
という事に、なっている?
「……どういう事ですか?母上」
いつも楽しそうに、突拍子もない事をいう母も、その日ばかりはその面影はなかった。その目は心なしか、赤くなっていた。
母上も、伯爵夫人とは仲が良かったから。
しかし、親不孝と言われても、その時、自分がどうにも心配なのは、大切な彼女だった。
そうだ、母の物言いも気になるが、今、気に掛けるべきは。
そう思い、僕はマリアンナの元へ駆けつけようとした。
「いや、後で聞きます。今すぐマリアンナの所へ行ってきます」
「待ちなさい、アレクシス」
すぐにも飛んで彼女の傍に行きたいのに止められ、母上と言えど、いや、母上だからこそ、苛立ちが抑えきれないでいた。
「今話さないと駄目な事ですか? じゃなかったら……」
「この問答が無駄よ。聞きなさい」
そう押し切られると、何も言えず、目の前の母上を睨みながら、次の言葉を待った。
「馬車を降りたところを、暴漢に襲われたそうよ。伯爵夫人を狙って」
「伯爵夫人を……? 動機は? その暴漢は捕らえられたのですよね?」
もし捕まっていなくて、マリアンナにも被害が及ぶ可能性が出てきたら、と思うと、怖くて仕方がなかった。
「今は牢屋の中にいるわ。動機は……」
そこまで話して、母上は声を詰まらせ、目を閉じた。
マリアンナの事を思うと居ても立っても居られず、急かしたかったが、堪えるような母の様子に、何も言えなくなってしまった。
「……女神を汚すべき魔の物を……生んだから、と言っているそうよ」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
魔の物など、とうの昔に滅んでいる。
……生んだ? それは……。
初めてマリアンナと出会った頃の、稚い声に似合わない、怯えている言葉が蘇る。
――マリーの、め、こわい。ち……? みたい、って。
「マリアンナ……?」
母上は、目頭を押さえて、顔をそらした。
その仕草と沈黙が、自ずと肯定の意を示している。
「ゴミが……」
今、冷静になって思うと、その言葉は、たとえ聞く者が母しかいなくとも、王族として出てはいけない言葉だった。罪を犯した者でも、それは自国の、守るべき国民から出てしまった犯罪者だ。
しかし、当時の私はそんな事を気にする余裕もない。今すぐその暴漢が捕らえられている牢屋へ駆けだしたい衝動を、拳を握りこんで抑えるのに精いっぱいだった。
「あなたは、もう王太子として、立派に務めてくれている。もう子供ではないと見込んで伝えたのよ。そんな顔をしてマリアンナの悲しみに寄り添える?」
「分かっています……っしかしっ」
「気持ちは分かる……言わないで、お願い」
ハッとなって母を見て、握りこぶしを解く。
いつも朗らかに、動揺を見せない、ともすれば父よりも大きな背中を見せてくれる時もある母が、その手を微かに震わせていて、母が初めて小さく見えた。
「すみません……」
母上は、軽く首を横に振ってから、顔をあげて、真っすぐこちらを見据えた。
それは、いつもより少し赤い目をした、いつもの母上—王妃の顔だった。
「伯爵にも、この事実はまだ伝えられていない。マリアンナには……まだ酷だわ。いつかは、真実を伝えるべきかもしれないけれど……伯爵の判断次第になるわね。……貴方を信じて話したの」
そうだ、今、必要なのは、暴漢への怒りではない。
自分に何ができるのかは分からないが、マリアンナに寄り添う事だ。
「抑えなさい。悟られるな、大切な順番を見失うな、……私の可愛い坊や」
そう言って、濡れた瞳で、母上が微笑んだ。
「可愛いは……坊やも、もうやめてください。あと、落ち着いたら、僕が伯爵を説得します。マリアンナには、永遠にこの事実は知らせないようにします」
「…………」
「僕の我執だとしても、知らなくていい事は世の中に腐るほどあります。この事実はマリアンナの代わりに、僕が一生背負います」
「……分かった。任せるわ」
「……では、これにて、失礼します」
そう言い置いて、踵を返した。
後ろから漏れ聞こえる、微かな嗚咽には、気づかないふりをして。




