85.金詰蛍
金詰日和は、死んだ。
首を軽く絞め、奥村弥生は金詰日和の力を全て吸い取った。
今は弥生の手から離れ、ごろりとその体は地面に転がっている。
術士は負けた。
この奥村弥生と名乗る妖の女王に、負けたのだ。
今は誰も声を出さない。
全ての感情を圧し殺し、ただ、耐えるだけ。
弥生だけは満足そうに笑って、満足そうに幸せに浸っていた。
「いやぁ、やっぱりだめだったか。申し訳ないなぁ。どうする?」
「どうしようもないでしょ。お兄ちゃんも皆も限界じゃない!」
男性と少女の話し声が、脳に響く。
目を開けると、そこには眼鏡をかけた少し渋みのある中年男性と、奥村弥生がいた。
厳密には今の女子高生ではなく、小学生程に幼い。
「えっ、どこ…ここ…」
日和はたじろぐ。
真っ暗でよく分からない場所で、この2人は浮いているように見える。
「あ、きたきた。いらっしゃーい」
「日和!!…あぁ、こんなに大きくなって…」
軽く手を振る小さな弥生とは真逆に男性は日和を迷いなく抱きしめ、とても安心した声を出す。
「いや、再会はいいけど事態は最悪だよね?」
男性の言葉に小さな弥生は首を傾げた。
「えっと…」
「あ、すまない。あまりの嬉しさについつい抱きついてしまったね。いやぁ、我が娘ながら可愛い。会えることがこんな嬉しいとはなぁ」
「もう、娘さん困ってるよ?」
事態の飲めない日和に男性は至極幸せな表情を見せ、弥生は大きなため息をつく。
「初めまして私、奥村弥生です。といっても…あの女王と被りますよね。兄の…正也の妹です」
ハーフアップをツインテールのように結んだ、兎のような可愛らしい髪型の少女は日和に対してぺこりと丁寧にお辞儀する。
もう1人は2人の受け答えから、とうに答えは出ていた。
「…お父さん」
自然と、日和の口から零れるようにその言葉が落ちた。
父は答える事もなく、にっこり笑う。
「久しぶりだね、日和。こんな姿だけど、本当に会えて嬉しいよ。誕生日、おめでとう」
「……こうなるの、分かってたの?」
「…この場所に来た時点で予想はしてたよ。ただ驚いたのは、日和が皆を庇ってここに来てくれた事かな。とても優しい子になったね」
父は日和の頭を優しく撫でた。
それだけで、涙腺に来る。
日和の中で父は目の前で死んでしまう存在でしかなかったから、やっと出会えたことに心が強く揺らいでしまった。
「…ずっと、ここに居たの?」
「…ああ」
「……もう、13年だよ」
「ああ、結構経っちゃったな。この妖はすごいぞ。この日の為に何を惜しむ事なく必死だったんだ。正に『強欲』だ。私の『執着』と相性が良くて助かったよ」
気持ちの高ぶる父に、日和の苛々とした複雑な気持ちが珍しく湧いた。
「何嬉しそうにしてるの!波音も、夏樹君も、兄さんも、竜牙も、置野君だって倒れて、酷いことになってたのに…!それにさっきだって――!!」
「――ああ、私の悪い気持ちの部分は…皆を深く傷つけた。すまない」
「……!」
父の遮る言葉に、日和は詰まる。
「義父さんも、ママも、弥生ちゃんも、和音みこちゃんも、他にも何人もの人が犠牲になったし、何体もの妖が犠牲になった。そして今、その中に日和が来た」
「だったら…」
「落ち着いて、日和さん。私達、まだ仕事があるの」
日和の両手を弥生は優しく握った。
「この犠牲はあなたで最後。そして今から日和さんは最初のお仕事をするんです」
「…えっ?」
ぼろっと出た大粒の涙が止まった。
父は日和の隣に立つと、優しく笑った。
「この妖は、日和の手で倒すんだ。たった一撃だけど、全力で」
「…私、そのためにここに来たの!…私に、出来る…?」
渦巻く不安を口に出す。
皆がやっていることを、力はあっても使ったことはない。
しかもそれを一撃だなんて、あまりにも遠い。
「この妖は一つ勘違いをしている。私達を取り入れ最強と呼ぶに相応しい女王となった。それは合っている。だけど、彼女は気付いていない。最強には、最強の力をぶつけるべき。そうだよね?」
「はい、そうですね!」
にっこりと楽しげに笑う父に、弥生もウキウキと応える。
それはまるで父子のようだ。
「最強って…え、私??」
「体から溢れるほどの力を持った上、私達の力がここにある。
日和自身の特別な力はまだあるのか分からないが…それをも受け入れた君はきっと、強く淘汰されたこの台地で最強の術士になるだろうね。
その力を使えば私達とは永遠の別れになるが、日和が守ろうとした人達とまた生活ができるし、そのまま術士としても手伝いができるだろう」
どうする?と父は問う。
だけど答えは自然と、出ていた。
「…私、やる。皆を…守りたい!」
***
賭けだった。
娘を殺すか、守るか。自分が生きるか、死ぬか。
そもそも僕という人間は不思議なもので、感情というものが全く理解できない。
何故感情を持っているのかさえ疑問だ。
感情があるから妖が発生し、被害をもたらす。
だから、感情なんて捨ててしまえばいい。
そう思った事もある。
僕の手に流れる雷の力は『社会の調律を保つ物』だと言われていた。
だけどそんなものがあっても、人は何処かで傷つき、苦しみ、痛み、叫ぶ。
欲求が新たな生命を産み、社会を脅かすのなら術士も妖も無い、やはり感情の無い世界が一番平和な気がした。
だから、私は感情を、妖を研究する事にした。
家を継ぐ事を強いられたのに、家を妹に預け篠崎へ向かった。
一部の術士の中では、『死の先』とも言われる程に何かに惹きつけられて強い妖が集まっていく町。
どのようにして妖が育ち、そして"女王"という存在になるのかが分かる気がした。
ほぼ家出の様なものだった。
この町は、そんな僕でも受け入れてくれた。
妖は人の感情や潜在的な術士の力を持つ人間を襲って成長する。
狼や熊のような妖に初めて遭遇した。
それでもまだ、自分の手には負える程度で助かる。
少しずつこの地の術士と交流しながら、その日に出会った妖のレポートを書き続けた。
出会った妖の形、色、どこで現れたのか、そしてタイミングが合えば誰を襲ったか。
いつしか、研究者と呼ばれるようになった。
確かに、そうかもしれない。
頭は次々に疑問が沸いていく。
仮定や仮説が浮かんで、その先を知りたくなる。
もっと知りたい、知る必要があった。
そしてそれは…自分が感情を知る機会でもあった。
感情があるから妖が生まれるのなら、感情を知らないといけない。
感情を知らなければ、妖が何を思ってその欲求を吐くのかが分からない。
だから僕は、一時期術士を休んだ。
理由は、偶然妖に襲われかけた所を助けた女性が世界中を旅している人間なのだという。
生まれた枕坂と篠崎しか知らない僕には、いい機会だった。
その旅について行き、彼女と彼女が見る景色を観察する事にした。
不思議な事に、彼女は僕の影の写真を撮りたがる。
「影は、そこにちゃんと居る…存在してるっていうのが分かるんだ」
笑顔でそう言って、カメラのシャッターを何度も切った。
彼女は気に入った写真を残し、新たな地へ行く。
彼女の笑顔の理由が知りたい。
何が楽しくて、何が印象に残って、その印象はどんな感情なのか、他にもどんな感情を抱くのか、どんな感情でシャッターを切るのか。
彼女が、知りたい。
その彼女に興味を持ってしまった自分を、知りたい。
そうして、好きという感情が僕を再び篠崎へ押し込めた。
好きな人との間に生まれた娘は不思議な子だった。
生まれて直ぐだと言うのに、まるで神様を見ている気分になる。
心が洗われた。そういった表現が正しいのかもしれない。
同時に加護でも受けたような感覚があった。
術士として戦えば怪我をする場面が何かの偶然で回避され、危ないと思えば守ってくれている気配さえした。
現に、何もしていないのに勝手に妖が弾かれていく場面もあった。
あの子は、日和は一体何者なんだろう?
そう思いながら、人を紹介された。
黒い髪の少女はまだ乳幼児とも言える年齢だろうに、黒い力を持っている。
一目でわかる、闇の力。
幼き闇の術士だった。
闇の術士は幼い日和の相手をしてくれた。
僕は術士として家庭教師をし、小さな術士は日和の相手をしてくれた。
成長する愛娘を見ながら力の研究ができて、闇の術士を育てる。
それは小さな幸せな時間に変わった。
しかしその幸せは簡単に、あっという間にあの妖が現れた事により壊されてしまった。
賭けだった。
娘を殺すか、守るか。
自分が生きるか、死ぬか。
結果、僕は娘を守る事を選び、娘を守るために妖になる事を選んだ。




