76.巨悪の罠
「体全体に擦り傷、打撲、腕や足に針か何かが貫通した痕、肋骨2本と頸椎が損傷…衣服の一部は溶けた様に穴が開いている。
装衣換装でこれか…おかげで焔もダメージがでかい。一体どうなったらこうなるのか…」
はぁ、と中年男性は深いため息をつき、波音の体の状態をメモする。
大体の治療を終え、呼吸器をつけ全身包帯に巻かれた波音の傍らでは咲栂がずっと力を使っている。
「玲、そろそろ一度休憩しろ。それ以上はお前の体に毒だ」
厳しい視線と表情で訴える医者に咲栂は表情を動かさず、ただ淡々と目の前で眠る波音の治療にあたる。
「…主様は拒否しておるぞ。少しでも波音が治るようにと焦っとるな」
「だめだ。そもそも玲の歳で咲栂を操るのは難しいだろう。そろそろ意識の方に負担が来るんじゃないのか」
「それでも、やめられんのじゃろう。妾が居なくなれば誰がこうやって術士の治療に携わるのか。夏樹しかおらぬではないか」
医者の男の眉間に皺が寄る。
「だが術士の治療を重ねれば重ねるほど、治療を受けた者の自己治癒能力は下がる。お前は水鏡波音をお前が居ないと戦えない体にするつもりか?」
ぴくりと咲栂の指が動き、ばしゃりと水が落ちる。
咲栂の姿は水に溶け、中から現れた玲はずぶ濡れの姿で固まっている。
「……だけど、それだと波音が……」
「水鏡波音の山は越えた。あとは彼女がこのまま安静に休んで、目を覚ますのを待つだけだ。それは何度も見ているお前だって分かるだろう…」
術を使って広げた手をぐっと握り締め、玲の表情が悔しさに歪む。
男は胃を軽く摩りながら、小さくため息をついた。
「……玲、お前が咲栂を使って癒しの力を使えるのはあと1,2回が限度だ。今はもう、彼女にそれは必要ない。あとは咲栂と別れて術士をしろ」
「……僕に、もっと力があれば……。ごめん、波音…皆……」
玲はその場に立ち尽くし、医者は頭を掻いて、庵を後にした。
波音は呼吸器をつけられたまま眠っている。
顔にもあった擦り傷と打撲は消えた。
全身の傷もある程度は消えたが、波音の術士の力の気配も消えてしまった。
多分目覚めるまでは焔も戻って来れないだろう。
父はいつもぎりぎりまでしっかり治療してくれるし、腕は確かだ。
それでもこの気持ちの焦りは消えようがなかった。
一体どうしたらこの力不足だと感じる力は立派なものに成熟してくれるのだろうか。
心は常に複雑な思いで溢れかえっていた。
「――あの…玲、さん…」
扉がゆっくりと開き、暗緑色の髪が隙間から覗く。
ちらりと申し訳なさげに現れた顔に、玲はいつもの笑顔を張りつける。
「…夏樹、どうした?」
「玲さん、少しは休んで下さい。波音さんは僕が見てますので…」
「夏樹は大丈夫なのかい?」
「僕はそんなに力は使ってないので…。学校は休みました」
爽やかな顔をする少年は両手でグーを作り、元気アピールをする。
その姿が少し面白くて夏樹なりに元気を出そうとしてくれているのだと感じた。
「…分かったよ。僕は…少し休んで学校に行ってくるよ。しばらく離れるけど…何かあったら言って。父さんも何度かここには様子を見に来ると思う」
「分かりました。気を付けて」
玲は波音を夏樹に任せ、庵を後にした。
***
朝方、師隼の屋敷で泊まり込むと連絡を入れてくれていた竜牙が帰ってきた。
「波音が倒れた」
明らかに疲れ切った表情をする竜牙の最初の一言は、日和の心を重くした。
「……な、なんでですか?何があったんですか!?」
「…女王に遭遇したらしい。怪我が酷く、医者と…玲に治療を頼んでいる」
竜牙の疲弊ぶりから大事があったのだろうとは予想できる。
それでも、何もできないのは不安になる。
よりにもよって、ただでさえ距離が離れている波音だ。
余計に心配が募って思考が埋まる。
「あ、の…私――」
「――師隼のところには絶対に行くな」
「でも…!」
「…日和、今はだめだ。傷だらけの波音を見て、何ができる」
「……」
竜牙の言葉は事実だ。
なんの力を持たない自分が行ったって何もできない、足手まといになるだけだ。
「お前は学校に行け。何も知らないように過ごして、何か変わったことや怪しいことがあれば逐一報告してくれ」
「……わかり、ました…」
「日和は絶対に安全だ。それはこちらでも分かっている。また昼に向かうから、待っていて欲しい」
「……た、竜牙!」
ふらりと家に戻ろうとする竜牙に、日和は声をかける。
「…どうした?」
「……少しでも、私の力…持って行って下さい…」
なんとなく、竜牙も倒れてしまう気がして日和は竜牙の手を取る。
何かがないと、不安で押し潰されそうになった。
「…ああ、ありがとう…」
竜牙は静かに礼を言って、日和から力を受け取る。
少しだけ脱力した感覚があり、ちゃんと受け取ったことが分かった。
「じゃあ竜牙…行ってきます…」
日和は鞄を持って、一人で学校に行く。
不安ばかりが日和の心に浮かんで、消えてはくれない。
そしてまた少しずつ、日和の中で力が溜め込まれていった。




