376.水巫女
何時の事じゃったかな…まだ妖が辺り一面に蔓延り、術士と言う存在が確立されてはおらん時じゃったように思う。
その時童は水を操りて妖を倒し、行き惑う民たちを保護し、奉られていてな。
当時の童は『水巫女』と呼ばれておった。
遥か西方には妖を屠る鬼神が現れたと聞き、南には大きな権力を持つ家があると聞いていたが、童がおったのはかなりの辺境のように思う。
……今は見違える程に変わったがな。
ところで、そんな童が人ではないと知ったのが、新たな継手が現れてからじゃ。
それまで童は己を周りと同じだと信じ込んでおった。
いつしか人だと信じ込んでおった。
童は老けぬ。
童は食事をせぬとも生きられる。
だけども継ぎ手が居なければ死に近い眠りが童を手招く。
しかし人はそうでないだろう?
寿命があり、近づくほどに老け込む。
食事をせねば簡単に息絶える。
継手は勿論人であった。
童の力も最初はただの水じゃった。
それが普通の水ではなくなったのは継手の力。
ある者は温度を変え、ある者は水に形を持たせ、ある者は氷に変えて操る。
童は継手を変える度に出来る事が増えていった。
稀に無能の子孫がおったが、童はその無能にさえ童の力を使わせることができた。
そうやって、今までを継ぎ手によって育てられてきたのじゃ。
その中でも、重俊は一番に相性が良かった。
まず動きが良く、そして大した起伏も無い故に長く持続させることができる。
無駄を作らず、心も安定していた。
だから奴が20を超えても妖にならず、童に頼れた。
童も奴に依存してしまっていた。
だから息子共には申し訳ない事をしてしもうたな…。
孫の代には式神となってやろう、と心に決めていた。
そんな孫は…主様は…無能とは言い切れない、正直微妙な、不器用な術士じゃった。
集中力は過去の血筋の何人分かにも例えられそうな量を操れる程に凄まじい。
残念なのは、それ以外が点で駄目だという所。
こんな器用貧乏が世の中におるのか、と最初は心底驚いた。
見た目は綺麗で可愛らしい、操る水は暴力的で美しい、それなのに他に良い点が見当たらない。
それだけで童は…興が乗った。
この主様の馬鹿力でどこまで出来るのかが気になった。
そんな主様に、何時の間に…じゃろうな?それは分からぬ。
分からぬが…気に入りすぎた。
主様は童を頼るしかない。
あの弓は一日に1、2度、限界で3度使って余力があるかどうかで主様の力は尽きる。
それだけ力が籠りすぎておるのじゃろうが、それを引いてしまえば威力は無くなる。
それであれば童に頼り操った方が効率的で何でも出来るはずじゃ。
可哀想だと思う反面、頼られるのはとても嬉しい。
水巫女と呼ばれた昔を思い出す。
その時も、童は継手に依存していた。
あの時は気付けなんだが、主様を見ていて気付いたのじゃ。
これが、『恋』かと。
そして、継手には感じなかった庇護欲。
常に見守ってやりたいと思うておる。
玲は幼き頃から沈んだ心があった。
大きくなるにつれ家族への摩擦と軋轢、日和に対しては己の未熟さと無能さに苦しんでいた。
その全てを、童は守りたいと思った。
それは……『愛』だと思わんか?
***
「…あん、た…!何で、そこにいるの!」
波音の表情は歪み、よく昼食を摂るその場所に立つ人物を凝視する。
本当は寒さが和らいで早く日和の様子を見たかった筈なのに、途中で妖の気配を探知してしまっただけだ。
それが、まさか、どうして。
目の前の人物は髪色こそ違うが、見間違う筈がない。
久しぶりに会う人物が、こんな変わり果てた姿で会いに来る筈がない。そう思いたいのに。
「久しぶりだね、まさか一番最初に会うのが君とは思わなかったな」
「……!」
よく聞いた声に、笑顔に、背筋がぞくりとした。
やはり、間違いなんかじゃない。
こいつは、――。
「あんた、どうしてそこにいるの!!今まで、どこで何していたっていうの!?」
波音の体が白い炎に包まれ、地面を蹴る。
一瞬にして距離を縮め、目の前の男を殴り、蹴る。
それらを全て受け止めた男はにへらと笑った。
「へえ…火、白くなったんだ。頑張ったんだね、波音」
「褒めないで!…馬鹿にっ、しないでよっ!!」
波音は全力の怒りを織り交ぜた蹴りを入れる。
男は涼しい顔をしてその攻撃を受け止めながら、少し後ろへ下がった。
「あんたが居ない間っ!日和大変だったんだから!竜牙を送って傷ついて、変な奴らに攫われて結婚させられそうになって、今は術士になってるのよ!?」
「……そっかぁ。日和ちゃん、どう?強い?」
波音の言葉は何も響いていないのかもしれない。
何の気もなく笑っている男に波音の怒りは更に増した。
「ふざけないで…ふざけんじゃないわよ!いい加減にして!苗字、返しなさい!」
波音の脳裏には当然『妹』の存在が浮かんでいる。
こんな奴の為に変なプライドを作って、耐えられず蒸発してしまった姿があまりにも可哀想じゃないか。
波音の目には涙が浮かんで、黒さが増した群青色の髪の男を強く睨みつけた。
「苗字なんて、ただのおまじないに過ぎないよ。見て、分かるだろう?僕は、妖になったんだ。女じゃないから、王だね」
男はそれこそ悪意も無い綺麗な笑顔を見せて吐き捨てる。
その笑みにはもう、過去の仲間の姿なんてものは無かった。
「…分かったわよ…高峰玲、あんたは、私が倒すわ…!」
***
日和と正也、紫苑の三人で学校へと駆けていた。
校門をくぐれば直ぐにでも文化祭が始まりそうな程に屋台が立ち並び、校舎には『第38回篠崎高校文化祭』と花を散らせた横断幕が垂れ下がっている。
しかし本来活気があるこの場所も、今はまだどんよりと静まり返ったまま。
上からは気持ち悪いほどに妖の強い力が犇々と感じた。
「……屋上に、いるね」
じっと上を見上げながら、紫苑は呟く。
「はい…、頑張りましょう」
日和が正也に視線を向けると、正也はゆっくりと頷いて上を見上げた。
そこに何があるのかはわからない。
「行こう」
正也は地面を叩き、三人をエレベーターのように石柱で屋上まで押し上げ始めた。
上では何やら音がしているが、それは次第に誰かが戦っている音へと変化していく。
日和は少しの不安を感じながら迫りくる屋上を見上げた。
その瞬間だった。
――ざぱぁ!
一瞬屋上が揺らめいた。
ほぼ同時に突如水が跳ねて、屋上から人が飛んできた。
「えっ!?」
「危ない…!…――波音ちゃんっ!?」
紫苑は空で勢いを失い、下へと落ちそうな人影を跳んで受け止める。
腕に収まったのは、傷だらけの水鏡波音だ。
屋上に着き、先に飛び乗った日和と正也はその姿を見て絶句する。
日和は目を見開き、正也は眉間に皺を寄せ、目先の男に押し黙った。
「…場外へ飛ばしたけど、受け止められちゃったか。まあいいや、やっと会えたみたいだし」
「…日和ちゃん?正也?」
屋上の突き当りには、群青色の髪の男が笑顔を見せて立っている。
波音を腕に抱えた紫苑は遅れて屋上へと上がり、声を掛けるが…二人は黙ったままだ。
「…皆…気を付けて。あいつ…私達が知ってる、のと…違、う…」
腕に抱えられた傷だらけの波音は瀕死の声を上げる。
波音の視線の先、全員からの注目を浴びる男は今までに見ない笑顔で答えた。
「やあみんな、ただいま。久しぶりだね!夏樹はいないようだけど…篠崎は代わり映えが無くて安心したよ」
「玲…!」「兄、さん…」
その姿はあの時、祠の前で姿を消した筈だ。
再び戻ってきた姿があまりにもその当時と違って、正也は畏怖の目を向ける。
こんなにも明るく、楽しそうな玲を見たことが無い。
日和は戻ってきた姿と様子に素直に喜ぶことは出来ない。
それぞれの感情を込めて相手を呼ぶ二人に対し、その名前と存在しか知らない紫苑は高峰玲を凝視して呟く。
「あれが…高峰玲…」
一番奥に立つのは一年も前に姿を消した術士、高峰玲。
群青色の髪は所々黒く変色し、玲に纏わりつく咲栂の姿に優雅な装いは消え妖艶な笑みを浮かべているが、タールのように真っ黒な色に染まりきっている。
玲が笑えば黄色い声が巻き上がる笑顔も、いつもそばで優しく気遣ってくれていた空気も一切感じさせない見た目に日和は蒼白になって震えた声を出す。
「兄さん、なんで…」
「……あれ、おかしいな?ただいまって言ったんだけど…聞こえなかった?ああ、久しぶりに会ったから驚いてるのかな。それなら仕方ないよね。実は少し前から近くまでは戻ってたんだよ。隣町から人が消えてたのにはびっくりしたけどね」
誰も聞いてない。
誰もが絶句したように口を閉ざしていることはおかまいなく、玲は邪悪な笑顔を向けてさらに口を開いた。
「去年この町の祠を抜けて、気付いたら九州に居たんだ。まあ、最初はしばらく眠ってたんだけどね。それからゆっくりここを目指して彷徨ってたんだよ。途中で沢山拾い物をしながら、やっとここに辿り着けたんだ」
「なんで…なんでこんな時に戻ってくるんですか!?今ここは妖が沢山流れてきて大変な時なのに…――」
「――ああ、あれ?僕が連れてきたんだよ」
「えっ…?」
得体の知れない恐怖に震えていた日和の言葉に、玲はにっと口角を吊り上げる。
ぞくりと気持ち悪い悪寒が走った。
「全国に妖は沢山いてさ、当然術士も妖を討伐するためにその辺りに住んでるんだよ。でもね…知ってた?家ぐるみでそういう意識を持った格式の高い術士なんて、ここや宗家くらいしかないんだって。
僕はビックリしたよ。どいつもこいつも力を奪い合ったり捩じ伏せようとしたり、自分が強くなる為に妖を倒したり、自分が特別な力を持ってるからって偉そうにしたり、逆に特別な力を持ってるからって周りから疎ましく思われてたりしてさ…ほんっと胸糞悪くて…だから、皆を唆して、僕が連れてきたんだよ」
「な…にを、言ってるんですか…?」
「ここの術士は皆優秀だからさ、妖も術士も連れてきたら潰して貰えると思ったんだ。皆が皆、"普通"に戻る為の『救済』だよ!その為に、こうして皆をここへ連れてきたんだ!
ここまで連れてくるの、本当に大変だったんだよ?この日本には一般の人も術士の人も気付けない、妖だけが知ってる小さな道があるんだけどね、この"聖域"までは一本道なんだ。日本中をぐるりと回ってここが終着駅となるんだね。
その道中には邪魔しようとする奴が出てくるし、弱い妖や術士はその場で倒れて死んじゃうし、最後の最後まで悩む奴も居るし、他に道は死しか無いんだから早く着いて来なよって言いたくなったりもしてさ…でも、大変だったけど、皆頭が悪いからさ、大半は簡単についてきてくれて助かったね。10月の頭にこっちに来ないと意味が無いからさ。だって、この時期なら師隼は倒れてるだろう?」
にっこりの満面な笑みを向ける玲の姿に日和は真っ青になって震え、完全に言葉を失う。
目の前にあるのは完全なる悪意だ。
波音を避難させて戻ってきた紫苑はそんな日和の背中に立って肩に手を置いた。
「…日和ちゃん、だめだよ。目の前にいるのは、女王化した式神を持った術士…君の知ってる"お兄さん"じゃない」
「兄、さん…」
「……」
日和の前に紫苑が立ち、刀を構える。
その隣で正也も大剣を構えて玲に向けた。
「……へえ、日和の…お兄さん?正也も槍じゃなくなったんだね。少なからず、ここも変わったらしい…」
その様子ににんまりと邪悪な笑みを浮かべ、玲はフィールドを作るように屋上を水で囲った。
その手には水が湧き出して弓の形へと姿を変えて構える。
「…金詰紫苑、日和の従兄だ。…長く、妹を見てくれたようで感謝するよ。――だけど今、妖となった君に興味はない。さっさと屠らせて貰う…ッ!」
紫苑は刀に紫電を纏わせ玲に向かって突っ込む。
「…日和は無理しなくていい」
「兄さん、正也…!」
小さく呟きながら正也は日和に視線だけを向け、先に走り出した紫苑の足元に岩柱を生やす。
せり上がる岩柱に足を踏み込んで、紫苑は玲に向けて刀を振りかぶった。
金属がぶつかるような激しい音と電撃の弾けるような音が響いて、玲の前で氷の薙刀を握る咲栂が紫苑の攻撃を防ぎながら嗤う。
「見覚えのある――しかも刀とは、ふざけた様な姿じゃな!主が本当に日和の従兄じゃと?」
「……言いたいのは、これのこと?」
紫苑は後転で飛び退き、懐の式神を握りしめる。
「――式紙・竜牙…!」
紫苑は再び玲を守る咲栂まで詰め寄り、一瞬にして刀を引き抜き納刀する。
「んぐぅ…っ!?」
「咲栂…!」
剣筋が見えない程の速さで走った刃は水で作られた咲栂を斬った。
一瞬にして体は裂け、水となって平場にぱしゃりと広がる。
紫苑は更に玲に向けて突きの構えを取った。
「…紫苑、だめだ!」
正也が叫び、平場を叩く。
紫苑の体は再び生えた岩で打ち上げられ、同時に周囲の水の壁から氷の槍が飛んで紫苑の居た場所へ突き刺さった。
「…ッ!」
「……簡単にはいかないか…面倒だな」
正也の隣へと戻る紫苑は小さく呟いた。
すると玲の頭上、水の壁から咲栂の上体が現れて、にやりと笑った。
「童を簡単に殺せると思うなよ、竜牙…?主様には指一本触れさせぬ…!!」
再び周囲の水の壁から氷の槍が生み出されていく。
紫苑目掛けて何槍も飛んでくるのを回避し、氷の槍は平場にドッ、ドッ、と音を立てて突き刺さる。
紫苑が咲栂に気を取られている間に玲は日和に向けてにんまりと気持ちの悪い笑みを見せた。
「…ああ、そういえば今日は10月2日だった…ごめんね、兄であるのにお祝いをし忘れていたよ。でも許して?ちゃんと予定通りに日和ちゃんの誕生日に戻ってきたでしょ?」
「…ひっ…!?」
その一言でぞわりと毛が逆立つ感覚を覚えた。
計画通りと言っているようで、今の玲は何をしたいのかが全く以て分からない。
立ち尽くす日和の前に正也が大剣を構えて声を張り上げた。
「お前はもう、日和の兄じゃない。日和の兄を、名乗るな」
玲の黒い笑顔が歪んで、「まあいいさ、僕は楽しませてもらうよ」と腕を上げ、氷の槍が降り注ぐ中を更に水流が舞い始めた。
日和は飛び上がって回避し、正也は柱を立てて水の勢いを殺しながら攻撃を避けていく。
玲と咲栂に届きそうな攻撃は、未だ見つかりそうにない。




