271.無力
神流大橋から安月大原へと戻ってきた日和と夏樹は、師隼の屋敷へと向かう。
「突然どうしたんですか?」
今はその道中ではあるが、日和は焦っていた。
その様子を理解し、先を歩く日和の背に夏樹が声をかけると日和は後ろを振り向き答えた。
「先ほどの生徒の方ですが、私が所属する部活の副部長さんで三上雫さんと言います。お兄さんを探していたら、手に持っていた紙がああなったそうです」
「お兄さんが…って、手に持っていた紙が?それがあの式紙…?」
「そうみたい、ですね…。それで、そのお兄さんというのが……夏樹君、3月中の狐面の調査を覚えていますか?」
夏樹は頷き、自身がしっかりと目に焼き付けた元使用人の最期を思い出す。
夏樹にはまだ記憶に新しく、生々しい最期だった。
「我妻唯花は枕坂へ…日和さんを助けに行った日に亡くなってます。僕が確認しました」
「そうですか…。他の関係者はどうなってるかわかりますか?」
「はい、朴桑すみれは先月狐面を辞めて、活動期間中時の記憶を抜いています。その後は新たな就職先を準備して有栖家が雇ったそうです。三上蒼汰も3月いっぱいで……三上?」
早足で情報を交換し、整理をしながら思い出していく夏樹はぴたり足を止めた。
日和も足を止めて夏樹に振り返り、大きく頷く。
「はい、雫さんの兄は三上蒼汰さんだそうです。雫さんが言うには、4月から消息不明のようです」
「そんな…」
「夏樹君、式紙は狐面の全員が所持してるんですか?」
日和の質問に夏樹は振り返る。
ただ師隼の横に立っていた訳ではない。
日和が攫われた後から出立の日、そして戻ってきてからを思い出し、首を横に振った。
「いえ、比宝家に潜入した諜報班は持っていなかったと思います。それから朴桑すみれにも持たせてはいません」
「そう、ですか…ではあの呪われた式紙は誰のものだったんでしょう?」
「何があって式神に呪詛がついたのか、それを考える必要もありそうです」
日和と夏樹は顔を合わせて考え込み、同時に頷いて師隼の屋敷へ駆け出した。
屋敷の中は特に変わりはなく、師隼が居るであろう執務室へ向かう。
扉を開けると、中では師隼が、その隣には黒い狐が二人居た。
招明と心音だ。
「あら、日和様おかえりなさい。そんなに慌ててどうしたんですか?」
「日和…夏樹も一緒で、何かあったか?」
「……」
招明は師隼付きの狐面だからなんの問題もないが、いつも麗那といる心音が師隼の側にいるのが珍しい。
日和は嫌な予感を感じ、聞きづらさを感じながら疑問を投げた。
「なにか…あったんですか…?」
師隼ははぁ、と深いため息をつき頭を抱えた。
「日和は目聡いね…やられたんだよ。数体の狐面用練如が同時に妖と化した。君たちは大丈夫だったかい?」
師隼の答えに日和と夏樹は顔を見合わせた。
どうやら練如と交戦したのは自分達だけでは無かったらしい。
これは報告せざるを得ない。
「師隼、実は…」
「ついさっき、人型の妖が現れました。式紙・練如です。波音さんと正也さん、そして僕が対峙しました」
「……そうか。特に変わったことは?」
「黒い靄が…呪詛がかけられてました。のりあさんの手助けで祓うことに成功し、式紙・練如は霧散しました」
「そう、か…」
師隼は顎に手を当て一考する。
その間に夏樹がひとつ質問を出した。
「他の式紙は…皆さんは大丈夫だったんですか?」
「それはつい先ほど私が焼いたりとか、招明君が足止めしてなんとかしてたんだけど、皆して何の前触れも無く黒いもやもやーっとしたのを放って消えちゃったわ。元の式紙は無くなっちゃったし、調査できなくて困っていたの」
答えたのは心音で、だからこそここに居たのだろうと理解できる。
黒い靄を放って消えたということは、日和の祓いの力によって狐面の練如は同時に霧散したということだ。
「…のりあさんの判断が正しかったって事ですね」
「そうみたいです。そういえば心音さん、焔の調子はどうですか?」
夏樹は日和と顔を合わせて確認するように頷く。
そして再び心音に顔を向けると、心音はにこりと笑った。
「大丈夫、私のよわーい術士の力の源にも反応して動いてくれてるよ。私や他の狐面さん達は皆術士になり得る程大きな力は持っていないけど、この若干の力でも式紙を操れるから本当に重宝するよ」
心音は指先から炎を出して、ふっ、と息を吹きかけて消してみせる。
まるで波音のような仕草だ。
どうやら紫苑が作り出した焔の式紙は更に一部分を心音に渡したらしいことを日和は初めて知った。
「それは良かったです。…師隼、どうしますか?」
日和は師隼に向き直って指示を仰ぐ。
頭を抱えた師隼は深いため息を吐いて日和…ではなく夏樹に視線を向けた。
「魁我への仕事が増えるな…今日は綾目に頼んだのだがこれだ、裏目に出たらしい。綾目はなんとか自力で帰ってきたが暫くだめだ。夏樹、浅葱をもうしばらく借りる事になる。いいか?」
「兄は多分問題ないって言いますよ。あとその辺りは僕じゃなくて優兄に言って下さい」
「そうか、魁我から聞いているが諜報部としての才はあるらしい。そのまま連れ回すことになる」
「それは良かったです。ひとまずこちらも報告しなければいけない事があるので良いですか?」
「ああ、ついでに――」
師隼と話を始める夏樹の隣で日和はうずうずとしていた。
自分にできる役割が欲しい、出来る限り様々な事を知っておきたい。
なのに自分はまるで無視をされている気がして、日和は欲に駆り立てられるように師隼の声を割って口を開いた。
「――師隼、私も何か…」
師隼と目が合う。
少し疲労が見える師隼は口角を上げると首を横に振った。
それはあまりにも分かりやすい、拒否の姿勢だった。
「……いや、悪いが今回は日和に頼めない」
「え…」
師隼ならすぐに頷くと何処かで思っていた。
直ぐに「ああ、頼む」と言ってくれるのだと思っていた。
それなのに返ってきたのは意外なもので、日和は目を丸くする。
思考が止まって、次はどうするべきかを考えようとしたものの、何も浮かばない。
それでも…自分は何かをしたい。
「――で、でも…」
「日和」
言葉が見つからないまま子供のように食い下がると名前を呼ばれ、師隼は再び首を振る。
師隼の拒否は見間違いではないのだと、強制的に理解させられた。
「あ……えっと……」
「すまない、だが今回だけはあまりにも危険すぎる。これ以上日和に負担はかけさせられない」
あくまで師隼は日和を心配して拒否をしている。
それは、それだけは受け止められる。
「そ、そう…ですか。それなら仕方ありませんね。分かりました。後の事は…皆さんにお任せします」
頭が真っ白になりながら、日和は久し振りに作り笑いを顔に張り付けて、なんとか言葉を発する。
中身の無い言葉だと自分で思いながら、日和は「それでは」と頭を下げて執務室を出た。
夏樹を置いて、作り笑いのまま廊下を歩いて、歩けば歩くほど頭の中はグシャグシャと丸めた紙のような"余計な物"で埋まっていく。
いつの間にか自分の部屋の前まで来ていた日和は立ち尽くして、頭の中は何もなくなった。
「……初めて拒否をされました」
そんな刹那の零れる様に無意識に出た言葉。
「初めて…ですね…」
案外ショックだった事に驚き、もう一度言葉を呟く。
沸々と熱い何かが胸の奥から湧き上ってきて、日和は耐える様に唇を噛んだ。
――ぱたっ。
顔が熱くなって、一瞬にして視界がぼやけて大粒の涙が零れた。
床が一滴分だけ濡れて、日和はそれをじっと見つめ、更にぱたぱたと音を立てて零れ落ちていく。
「あれ、日和ちゃんおかえり。もう戻ってきたんだ……ん?」
その背に声がかかっても動けず、ただ湧き上がる感情を押さえつける日和に紫苑が寄って顔を覗く。
「わ、どうしたの?…とりあえず部屋に入ろ?」
「……」
「……担ぐね?」
強張ったように体を動かせず、紫苑に連れられて自室に入ればベッドに腰掛けさせられた。
正面には床にかがんだ紫苑が再び浮かない顔を覗かせた。
「…大丈夫?」
「……違うんです、すみません…」
絞り出すようにやっと出た日和の言葉を紫苑は否定しない。
代わりに隣に移り、無言で日和を抱きしめ頭を撫でてきた。
「気に入らない事があったって顔してるよ。口に出そう、ね?聞いてあげるから」
まるで子供のような扱いに少しだけ難色を示しながら、しかし抵抗する気は全く起きない。
寧ろその優しさはもっと自分の心を苦しめて、耐えたい涙は更に溢れていく。
「う…うぅぅぅ…」
「我慢しない。そんなんじゃ疲れちゃうでしょ?大丈夫だから言ってごらんよ?」
日和は紫苑の胸で呻り、強く噛みしめた歯を緩めた。
それが歯止めだったようで、耐えきれなくなってぼろぼろと涙が溢れては零れていく。
紫苑に慰められたのが冷静になるきっかけだったのか、やっと日和は気付いた。
自分が泣いている理由が、溢れる感情の中身が、何もできない悔しさ、そして頼られない虚しさだという事に。
櫨倉綾目。狐面に混じっている櫨倉家の人間、甥の方。
特殊体質で"死なない男"と呼ばれているけど事実。
小さな頃に妖に呪いをつけられているが、それが原因。
耳輪は切っても何度も再生してしまうので、元気な状態をイヤーカフで隠しているのに日和に櫨倉の人間だとバレた。なんでか未だにわからない。




