252.対立
「ただいま、日和ちゃん。起きてる?」
コンコン、と部屋にノックが響いた。
同時に不安定な心のまま明かりを付けず、布団に潜り込んでいた日和に聞き覚えしかない声がかかる。
「――兄さん!」
日和は飛び上がるように起き上がったものの、戻った兄の表情はにこにこした笑顔から一変して口先を尖らせ、明らかな不満を見せていた。
「あ…紫苑……」
不安から泣きそうな表情に変わった日和を見て、紫苑は日和の隣に腰をかける。
くすくすと笑って頭を撫でた。
「ごめんごめん、今はそんな余裕ないよね」
「…なんであんなこと言ったんですか?紫苑には何の有益にもなりません。寧ろマイナスです。意味がわかりません」
「僕にはあれで良いんだよ。日和ちゃんは気にしなくていーの。それより狐面はどうする?活動する?やめる?」
「私は私の意思で狐面の活動を始めたんです。皆の為になるならと思って始めたんです。紫苑に、誰かに迷惑をかけるなら…続けられません…」
不満と不機嫌、そして不安を口に出した日和に対して紫苑は一切悪びれもせず、寧ろ楽しむように笑顔を見せている。
悲観し、どんよりと沈んでいく日和の様子に紫苑は嬉しそうな笑みを浮かべ、俯く日和の顎を持ち上げる。
目尻に光る涙の粒に紫苑はくすりと吹き出した。
「僕の為にそういう顔してくれるんだ…嬉しいな。日和ちゃんはもっと、置野正也に近いんだと思ってた」
出てきた名前に日和ははっと思い出すように近い距離をさらに詰める。
「まっ、正也はどうしたんですか!?大丈夫なんですか!?」
「あ、うん、心配はするよね…元気だよ、元気。返り討ちにしちゃったから多分かなりへこんだと思うけど」
紫苑は残念、と小声で心の声を漏らしながら答える。
日和は胸をなで下ろし落ち着くも、その表情から不安や不満は拭えなかった。
「とりあえず日和ちゃんは気にしなくていいよ。これは僕の問題だから。日和ちゃんは…――」
日和に触れていた手が背中に回り鼻がぶつかりそうな程に距離が縮まって、野性を思わせる紫苑の双眸が日和に向けられる。
「――約束、忘れてないよね?」
「えっと……はい…」
にんまりと微笑んだ紫苑の唇が当たる。
これ以上は日和も何も言う気にはなれなかった。
***
向かった時にはすでに終わっていて、ただ正也がその場に立ち尽くしているだけだった。
辺りに紫苑の姿は無く、終わってから時間は経っていたらしい。
「――正也さん!」
呆然とした正也に近づくと身体には擦り傷がいくつもできていて、かなり暴れたんだと推察できる。
「…夏樹」
夏樹に気付いた正也は何を言う訳でも無く無表情のままで、夏樹はそれすらも不安に感じた。
「だ、大丈夫ですか!?手当を…」
「…これくらい、大丈夫」
「で、でも…」
「……今日はもう帰る」
人の心配を受けもせず、何も言わぬまま正也はくるりと体の向きを変えて帰ろうとする。
正也の様子は落ち込んでいるのかは分からないが何処かおかしい。どうにか引き止めねば。
焦り半分で夏樹は正也を呼び止めた。
「――ほ、報告!正也さん、師隼様にだけでも…」
「今日は羊みたいな奴だけ。あと…日和に狐面の活動はさせたくない。…それじゃ、また明日」
「あ…」
静かに帰っていく背中にそれ以上かける言葉が無く、正也は闇に沈んだ町の中に溶けていく。
途端に日和を連れ回していたことに申し訳なくなった。
こんなことになるなら、やっぱり拒否するべきだったんじゃないだろうか。
「仕方ないよ、そんな事もあると思う」
ふらりと現れた風琉に変な慰めを受けた。
これ以上この場に居ても仕方がない、夏樹も師隼の元へ足を向ける。
それでも心はもやもやとしたままだ。
「ここ最近、ずっと変だよ。いや…今までに歪み続けていたのが目に見えるようになっただけかもしれないか…」
「或いは夏樹が今まで自分で精一杯だったのが、こうやって師隼様の元に居座るようになってから視界に入るようになっただけなのかもよ?」
「う…心がずきずきする」
自分の悩みが晴れたら晴れたで新たに妙な悩みを抱えてしまった。
そう感じながら執務室に向かうと、またもや書類の山に埋もれた師隼が頭を抱えていた。
「師隼様、大丈夫ですか?」
「すまない、夏樹。思ったよりこちらの負担が大きかった。いくつか横に流してもいいか?」
「寧ろ神宮寺家の仕事の補佐するのもこちらの仕事ですよね?」
「まあ、そうだが」
狐面の管理を実は日和が手伝っていた。
比宝家への教育は紫苑と師隼が行っているが、元より師隼の仕事量が半端ない為に師隼が参ってる様子は最近多く見る。
いくら師隼が手を出さなくても進む仕事を分散させても、結局殆どは師隼の指示と采配によって決まるので仕事は減らない。
宗家の一人でもある為に分けられる仕事にも限りがある。
夏樹はその為の家の人間だ。
師隼と同様に、全てを知らねばならない。
今回の事で日和は当分狐面関係の仕事はできなくなるだろう。
そうなると、必然的に師隼の仕事量は戻る。
「僕は何をすれば良いのですか?」
「術士をまとめて欲しい。巡回や現れた妖についても情報を纏めてくれると助かる」
息を吐く師隼から疲労はまだしばらく取れないだろう。
そんなに忙しくなるくらい、地域の術士さえも見れなくなる案件とは何だろうか。
師隼のサポートに入る上では知っておきたい。
「分かりました。とりあえず正也さんは羊型に会った報告を受けましたよ。…あ、そういえば日和さんは大丈夫でしたか?」
「まるで駄目だな。今どうせ紫苑が日和の元に居るだろうが…暫くは無理だろう」
「仕方ありませんね。僕はもう気にしてはいませんが…波音さんも正也さんも絶対気にしますよ」
そうだな、と同意する師隼は深いため息を溢して「それともう一つなんだが…」と新たな話を切り出した。
「日和の力がまた暴走し始めたのか、或いは領域を超えたのかもしれない。近くで見ていてやって欲しい」
「えっ…」
日和の力、術士の方かと思ったが、言い方が違う。
また、と言っている限り、その他で思いつくのはナヅチミツカヤ――神の力だ。
「私は暫く誰とも相手ができなそうだ。正也から応援についての報告を受けねばならんし、宮川のりあから枕坂郊外についてそろそろ報告が来るだろう。
あとは…これは夏樹も知っていて欲しい。少し前に、高峰玲が九州南部に居ると報告された。それが今は、四国にまで来ているらしい」
「えっ…?なんでそんな所に…」
「わからん。だが、いい予感は全くしない。何かが来るまでに何かしらは落ち着いてほしいな」
師隼なりの胸騒ぎだろうか、一体何が起こるのだろう。
だが、師隼でも分からないことを訊く訳にはいかない。
自分の立ち位置としても、もっと柔軟に動けるようにならなければ。
「それで、師隼様の当面の問題は?」
「…水鏡家の婚姻の用意があるが…先に日和が来る」
「えっ?」
すんなりと師隼の口から出た言葉。
以前本人には提案したが、そっちの話題があっさりと出てきた事に驚く。
「紫苑と佐艮殿で勝手になにかしているらしい」
「佐艮様?正也さんじゃなくて?」
さっきの話の延長かと思ったが、師隼は首を横に振る。
「ああ。前々から怪しい空気はあった。…佐艮殿は少なくとも、日和に比宝の結婚式に出るよう言った時には算段がついていたらしい」
「まさか…」
「いや、あの男はそういう男だ。…となると多分更に様々な事を考えてるだろうね」
いつもにこにこと笑っている佐艮様とあまりイメージが繋がらない。
置野正也の父親は策士的な人物なのだろうか。
「佐艮殿についてはほどほどに『狐』だと揶揄する人間が存在するが、どうしたものかな。そんな訳で、日和には余計に注視してやって欲しい」
「…極力日和さんの周りに人が居るようにします」
頭を下げ、執務室から出ようとすると「あ…」と師隼から声が漏れた気がした。
まだ、伝え忘れがあるらしい。
振り向くと、真っ直ぐに全てを映し出しそうな双眸が覗いた。
「日和の力でどうにもならなくなったら、すぐに呼んでくれ。最悪私がなんとかする」
「……はい、分かりました」
気にしているのはやはり神の力だろう。
ここ最近は落ち着いていたのにどうして。
夏樹は少しの覚悟を決めて、執務室を後にした。




