218.嗚咽
「……違う…、あれは僕じゃない…!あんなのは、僕じゃ…!!」
「お疲れ様、楼瑛。初日から激しいのね」
自室の前でくすりと笑う悪魔がいた。
「電伝…!お前、何をしたんだ!!」
「金詰日和に睡眠薬を少し入れたわ。これはおじ様のものだけど…気づいちゃった?貴方にも少し、薬を盛ったの。気持ちが高ぶってしまうようなやつ。どう?おかげで人をいたぶるの、楽しかったでしょう?」
「ふざけるな!!僕は…」
「……あれだけやって、満足しなかったの?まあ、もっと激しくするのかしら?」
「いい加減にしろよ!僕はお前の都合のいい道具じゃない!…ぐっ!」
手に電気を溜め、触れようとした手はするりと避けられた。
目の前の電伝はくすりと邪悪に、子供らしく笑う。
「まあ怖い。本気を出せば電気椅子食らったようになるのでしょう?あ、そういえばその厄介なリボン、取れたのね。偉いじゃない」
「…っ、取りたくなかったさ!これは彼女の大切なものなんだぞ!?」
「そんな事知らないわ。怖いからそれ、焼いちゃいましょ?」
「ふざけるな…!!」
にたりと悪魔が微笑む。
許せない気持ちが沸々と湧いて、手に力が集まっていく。
「あらあら怖い、流石に冗談よ。それで?次はその力でどうするの?」
「どうもしない!!僕は日和さんを苦しませたくないと何度も…!」
ぐっと体を引き寄せられて、電伝の顔が突然近づいた。
人の襟首を掴み、目の前に悪魔の笑みを浮かべている。
「もう手をつけちゃったわ、手遅れよ。これを機に金詰日和は貴方の事を、そういう目で見るに決まってるでしょ?」
「なっ……あ…、…うっ…おえ…っ!」
父の姿がちらつく。
同時に吐き気が襲ってきて、食べ物もない胃液もない、唾液だけがえづいて口から出た。
「貴方ももう引き下がれない。最後までやっちゃいなさいよ。そして、早く聞き出して?拷問すればきっと、苦しくなって吐いてくれるわ」
どうして。
ついに、同じになってしまった。
あんなにも嫌だった父親に。
自分の手が、体が、血が、全て忌避したいものに映る。
そして目の前の悪魔の毒が、自分にも染み付いている事を自覚した。
「お疲れ様、楼瑛。ほら、もっと家の役に立ちなさい。……ああ、そうだわ。ねえ楼瑛、梢様に会ってきなさいな」
優しい笑みを浮かべる電伝は何かを思い出したようにぱっと明るい表情に変わった。
突然、何を言うのか。
もう冷静ではいられない頭は会えなかった母に埋め尽くされた。
「……母様に?」
「ええ、おじ様がいなくなってしまって悲しそうなの。会えるでしょ?」
「……」
それがどんな意味を持つかも分かっていなかった。
悪魔の思考が読めていないのは家が今どんな状況なのかも理解してない、自分だった。
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ふ、と目を覚ますが、体の何処もが痺れるような痛みが走る。
最後にキスをされたのを思い出し、憎悪と悲しみが襲った。
心の守りでもあった竜牙から貰ったリボンは取られ、回収された。
それだけで支えが無くなり、心が締めつけられるような辛い気持ちに襲われた。
「…おい、生きているか…――っ!」
扉がゆっくりと開いて日和は警戒したものの、その姿は比宝楼瑛ではなかった。
部分的に似た、顔パーツが少し違う男。比宝招明だった。
「貴方は…!」
日和の表情は半泣きになりながら、歪み、睨みつける。
「お前、なんて格好をしている…!……まさか楼瑛が手を出したのか!?…待っていろ」
招明は日和に寄ると前で屈み、衣服を直す。
そして立ち上がり口を開いた。
「…大丈夫か?」
「……」
返事の代わりに日和は口を噤み、視線を逸らす。
しかし昨日の夜を思い出し、涙がぼろぼろと溢れた。
「くそ…っ!今日、楼瑛は一日いない。帰ってくるのは夜になる。やめるよう交渉するから待っていろ」
招明は険しい顔で日和から離れると、背を向ける。
「…あなたは、あの人の弟じゃないんですか?」
「楼瑛は兄だ。……あの男と同じに見えるか?」
「…比宝の方々は皆、横暴だと思っていました」
「そう見えるか。なら、そうなんだろうな」
この男の声は無機質で、感情がない。
この招明という男が家ではどういう扱いなのかは分かりそうにない。
「じゃあ、何故こんなことをするんですか」
「横暴かはともかく、比宝の人間全てが倫理から外れた人間と思っていい。明らかに教育を受けてないような奴も、見たんじゃないのか」
双子が脳裏に浮かぶ。
あの双子はそのせいか、見た目より中身が幼い。
それもやはり、倫理観からは外れている。
「見て分かる通り、この家は歪んでいる。お前の家を潰した家の実態は把握できたか?金詰の娘」
「……どういう、事ですか?」
「どういうも、何も。金詰蛍を篠崎へ追いやったのは、金詰紫苑を篠崎へ頼らせたのは我々比宝家だ、という話だ。誰からも聞かされていないのか?宗家はお前だろう」
「……」
何の事だろう。
父が篠崎へ来た理由なんて、考えたこともなかった。
師隼なら、知っているのだろうか?
「その反応では何も知らないようだな。金詰家の宗家は金詰蛍だろう。奴が篠崎へ行った事で家が潰えたと思ったが、宗家の娘が女王を倒したと聞いてウチは躍起になっている。
金詰の血は生きている…金詰を絶たせ、比宝が枕坂を独占するんだと。そして、篠崎へ殴り込みに行くつもりだ」
「……それが…何の意味になるって言うんですか」
「力の誇示、それが比宝家の全てだ。だから力のある物は全て吸収する。だが…――」
比宝招明の眉が上がった。
「――…お前は本当に力が使えないようだな。事実上金詰の宗家は潰えていたという事か。だが、俺には分かる。誰にも脅威となろうその力は、争いの元だ。この先だって比宝でなくとも、その力を欲したり切除したい奴が出るはずだ」
日和の思考がぶれる。
今までは完全に一個人だった。
だからこそ気にせず接していたのだし、紫苑とも兄のように慕うだけでそれ以上は踏み込まなかった。
いや、そうしていたのは自分が『家』というものを望まなかったからかもしれない。
正也の家を、玲の家を、波音の家を、夏樹の家を見て、受け容れ難かったのかもしれない。
そして…きっと師隼が、日和が術士の道を進まない道を敷いてくれたからだ。
踏み込んでは戻れない興味の範囲を、必要最小限の情報で師隼は答えてくれた。
自身が正式な金詰の人間となって、金詰の人間として生きないようにする為に。
今の話を聞けば、間違いなく術士の道を選んだ。
日和は術士になる道を選んでいた。
家に縛られるとは、こういう事なんだと、深く身に染みた。
紫苑が家を気にした理由が、よく分かった。
比宝は、篠崎に登らせてはいけない。
この家の人間と同等なんて、絶対に嫌だ。
「……目に力が戻った、か…。ふん、術士の檻から比宝という檻に閉じ込められただけの籠の鳥がどうなるのか見てやる」
招明は嫌悪の目で日和を見て、最低限の食事だけ世話をして去っていった。
***
翌朝、父の部屋に向かった。
電伝に言われるがまま、父の部屋に向かい母に会いに行った。
本当は向かいたくなかった。
でもそこに母が居るのなら…そんな気持ちだった。
電伝の言っていた言葉がどんな意味を持つかも分かっていないまま、ただ苦しみでいっぱいになった心が少しでも楽になるのなら。
そんな気持ちだった。
「母様…?」
部屋の中は静かだった。
声を掛けても反応は無い。
少しの異臭が気になりつつ、疑問なんて持たなかった。
寧ろそんな余裕も持ち合わせてはいない。
何一つ心に覚悟を持たないまま、返事も無い事も疑問に持てないままに扉を開け放つ。
僕は絶句した。
そこに広がっていたのは僕の想像を超えた地獄のような空間だったからだ。
一体何があったのだろう。
どうしてこんなことに。
考えようとすればする程目の前の光景が邪魔をする。
「母、様……」
……僕は、どうしてこんなことをしているのだろう。
こんなことをしたって何にもならないのに。
ただ目の前の光景を少し弄ったところで何も変わらないのに。
……。
あの光景を目にして、僕は一日を費やした。
感情に揺さぶられるまま、色んな事を理解させられて、僕は僕でいることを諦めた。
もういいや。
この家に未来なんて無い。
だから、この家が死滅するよう、好きに暴れてしまおう。
彼女はその為の生贄だ。




