205.叔母と日和が纏う影
「日和様、御夕食の前に入浴くださいませ」
そう言って入ってきたのは香織だった。
「あ、お母様!」
「もう終わりー?」
香織に気付いた双子が揃えて頬を膨らませるが、母親らしく双子の頭を撫でた。
「ええ、終わりです。貴方達も部屋に戻りなさい」
「はぁーい」
「日和おねーちゃん、またあしたね!」
電伝と雷来はとぼとぼと部屋を出ていくのを見送り、日和は香織に連れられて衣服を持って廊下に出る。
そして入り組んだ廊下を少し歩くと赤と青の暖簾がかけられた二つの部屋が現れた。
香織が「こちらです」と案内する赤い暖簾の先は脱衣所になっており、棚や鏡台もいくつもあった。
「……旅館」
ついに思いきりその言葉を口に出してしまった。
すると香織は大きく頷いて口を開いた。
「この家は元々旅館でしたから、そのまま使わせていただいております」
「そ、そうでしたか…」
ついに本物の旅館に来てしまったらしい。ただし居心地はかなり良くない。
これならば幾分家の方がマシだ、と思いながら日和は衣服を棚に置き、服を脱ぎ始める。
すると隣で香織が帯を解き始めた。
「えっ」
「…どうされましたか?湯船でも一応監視を命ぜられてるので、何もおかしい事はありません」
「あ、はい…」
完全に一人で入るのだと思っていた。
確かに勝手に行動されても困るのは比宝家なので香織の言うことも一切間違ってはいない。
寧ろこうして一緒に入る方が監視としても一番合理的なのはよく理解できる。
日和は髪のリボンを解き、衣服の上に置く。
するとそれを見た香織は手で制止してきた。
「…念の為、それはお付けしていて下さい。髪が湯船に付かないようにするくらいなら出来るでしょう」
「え…と、良いんですか…?」
「何の力かは存じませんが、電伝と雷来から聞いております。貴女を最低限、身を守る物ですから肌身離さずお願いします」
「わ、わかりました…」
外せ、とは何度も言われたが外すな、とは初めて言われた。
香織が何を危惧しているのかは分からないが、感謝せざるを得ない。
脱衣所を出て湯船に向かうと、確かに元々旅館だったらしく完全に温泉の設備になっていた。
浸かる湯は乳白色で中々気持ちが良く、つい緊張が解けかかってしまう。
「……貴女は燈芙香という女性をご存じですか?」
そんな日和に香織は不機嫌を張りつけたような顔でじっと見つめてきた。
確認なのか、警戒しているのかよく分からない目だ。
「えっと…いえ…」
「…そうですか。金詰燈芙香、貴女の叔母です。そこそこの雷の力を使う人ですが、私に怪我をさせた憎き人です」
「叔母…お父さんの、妹さん…」
「私は彼女が嫌いでした。妖と町の人間の事ばかりの頭で、何かあれば『使命』だと正義感を振りかざすあの女が。その髪の金色だけは似ていますね。折角の焦げ茶の髪が勿体ない」
逆に日和の金に染まった髪が気に食わないらしい香織ははあ、と息を吐く。
そういえば紫苑の生活については聞いたが、叔母については全く聞いていない。
「兄さんはあまり話さなかったので、叔母さんについて聞けるのは嬉しいです」
「金詰の血は途絶えたかと思っていたけど、案外続いていたのが驚きです。貴女の兄君には散々手を焼かされましたが」
一体紫苑はどう戦っていたのだろうか、あの柔らかい顔で戦っていたのは少し見ていたがここではどんな動きをしていたのだろう。
「さて日和様、お背中流し致します」
少し物思いに耽っていると、香織は立ち上がりながら真顔で言うので日和は少し驚く。
「あの…私の扱いって何なのでしょうか…?」
「楼瑛様の奥様になられる方ですので丁寧に扱わせていただきますよ。投戟様は仰ったでしょう?『丁重に扱え』と」
そういえばそんな事を言っていた。
「じ、自分の体は自分でできますので…」
やんわりと断ろうとしたら香織が厳しい視線を向けてくる。
「何を仰るのです?そんな事が出来るのは、今だけですよ?私は今、貴女の体を知っておく必要があるのです」
「え?それは一体どういう…」
ざば、と水の音を立てて湯船を出る香織の後を日和は追う。
香織からの返事は得られず日和は全身を洗われた。
前も似たことがあったな、としみじみ思う。
洗った後に再び湯船に浸かったが、その後は無言で脱衣所に戻った。
その後も髪を乾かされたが香織は何も言わなかった。
「では日和様、戻られたら御夕食の準備を致しますので」
「分かりました」
香織を前に廊下を歩く。
来た道を戻る訳でも無く、違う廊下を歩かされた。
まるで屋敷内を覚えさせないようにも感じる。
覚えられそうにない程に入り組んだ廊下はさっきも同じ場所を通った感覚になった。
よく分からないまま、和室の部屋の前を通りがかって日和は振り返る。
「……?」
「どうされましたか、日和様?」
香織は怪訝な表情で日和へ振り返るが、日和の視線の先には誰も居ない。
「…いえ…」
なんだか視線を感じたような気がした。
ねちっこいというか、獰猛な空気を感じた。
ぞわりと背中に嫌な物を感じて、余計にどこを通ったかが分からなくなる。
日和は早く部屋に戻りたい気分になった。
夕食は特に問題も無く、食器が下げられた後はただ息を吐くしかない。
たった一日だがそれ程に囚われた生活は疲労が蓄積するのと、部屋に戻る時に感じた視線がやはり怖くなる。
空をふと見たくなったのに視線を向けた先は嵌め殺しの擦りガラス窓であるのが至極残念で、なんとなく心細くなる。
元々娯楽趣味がある訳でもないが、例えあったとしても何もできないこの部屋ではただ時間を食いつぶすしかないことがとてもきつい。
廊下ではまだ少しばたばたと人の空気を感じる。
(師隼に報告するのはまだもう少し、落ち着いてからが良いですね…)
日和は待つ。
ただ時間だけが過ぎるのを待ち、薄らと眠気が体に宿るまで、静かに。
部屋の扉で耳を欹てる人間に気付かず、ただ机だけを見ていた。
何をするでもなく時間だけが流れ、日和は少しだけ感じた寂しさにしゅるりと髪を纏めていたリボンを引き、眺める。
手に巻き、愛着を感じるように祈る姿勢で口元に運ぶ。
(篠崎の皆は何をしてるでしょうか…)
迎えにくるのをただ待つだけ。
日和に出来ることは、このままその時まで大人しく居ることだ。
心苦しい。
それでもふと、少しだけ笑顔が沸いた。
(そういえば、弥生の時もそうでしたね)
似た状況を前に経験したなと思う。
あの時も酷く辛い思いをした。
今もあの底抜けに明るい女子高生の笑顔が簡単に脳裏に浮かぶ。
後ろを振り返ればそこに居るんじゃないか、と思う時もある。
今でも、たまに会いたいと思ってしまう。
「幻影…残像……それでも、そこに居てくれるなら今は寂しくない気がします。まだ大丈夫、まだ……」
日和は寝る時を待った。
いつか簡単に寝入れる時間が欲しいなと思った。
そう思った矢先、戸を叩く音が聞こえた。
「金詰日和様、よろしいでしょうか」
「…はい」
返事をすると落ち着いた佇まいの女性が現れ、頭を下げる。
起き上がったと同時に女性は戸を閉めてつかつかと入ってきた。
「肩をお見せできますか?」
「え?」
「…失礼します」
女性は有無を言わさず日和の後ろに腰を降ろし、少し乱暴に日和の浴衣を脱がし右肩を露出させた。
一体何があるというのか。
「ちょっ、あの――!?」
「動かないで下さいまし」
日和の右肩を半眼で見つめると右手を翳し、何やら力を込めている。
右肩に何かあっただろうかと思案して、やっと思い出した。
「そこ、以前怪我をした所なんですが…」
「正確には妖の呪いをかけられた所、ですね?分かっています。私の元は妖の呪いを自由に付与できる家の者ですから」
「えっ…」
「ですから、動かないで下さいまし」
「あ、はい…」
香織に近いとも言い難い猛禽類のような目が日和を睨み、再び右肩に移る。
しばらくしてじんわりと右肩に熱さを感じると女性は「これで好し」と立ち上がった。
「あ、あの…!」
「家の情報を与える訳にはいきませんので。それでは」
話を聞きたいと思ったが女性はするりと逃げるように去ってしまった。
日和は仕方なく衣を直し、あとは報告をして眠ることしかできない。




