199.爪を隠す者
置野家に客人として現れたのは、水鏡波音と小鳥遊夏樹だった。
それは佐艮が外出から戻ってきた午後、二人が使用人の案内により応接間で茶を飲み、並んで待っていた様子を見たからだ。
「やあ、二人で来るなんて珍しいね。どうしたの?」
「おじ様、日和が攫われたわ。今は枕坂よ」
声をかければ半眼になり、顔を顰める波音はいつも以上に不機嫌だ。
そもそもそんな様子が通常の波音だと知ってはいるのだが、佐艮の前では大体しおらしくしているだけに珍しい姿のように感じる。
「そうか…状況が動いたようだね」
以前、日和が呪いを携えて運ばれた時に師隼と魁我を交えて話はした。
ついにその時がやって来たか…と、一つの落胆が口に出た。
すると佐艮の反応に波音は嫌そうにため息を吐く。
「……その反応じゃ、おじ様は分かってるのね。もう…っ、どいつもこいつも腹が立つわ…」
「波音さん、流石に地が出すぎ…」
波音が苛立ちを口に吐く理由を、佐艮は理解している。
波音だけが状況をやっと理解したのだ。
日和が狐面として活動してた事も、率先して枕坂や比宝に関係する事案を調べていた事も、波音はまだ知らない。
その状況の中のどれもに波音は関わっていなかった。
知らなかったのは誰も彼女に知らせるつもりが無かったのだから仕方ない。
寧ろ家柄を考えれば、夏樹は神宮寺家を支える小鳥遊の家の人間として関わらなければいけないのは当然の事。
紫苑に至っては元々枕坂の家で、尚且つ比宝と因縁のある家だ。
本来波音と同じく知らされない人間である高峰玲や正也もいれば、波音が悪態を吐く必要も無かっただろうに…と佐艮はつい憂いを帯びた目で波音を見てしまう。
これを引き金にただでさえ不安定になりやすい波音の心が悪い方へと傾かないと良いけど、とつい心配してしまった。
波音を溺愛している清依の事だから、特に愛娘の身を案じているだろうとは思うが。
「ごめんね。僕も詳しく話を聞いた訳ではないんだけど、この前清依に会った帰りに日和ちゃんと紫苑君に会ったんだよ。ついでに最近の話を聞いたら…軽く知っちゃってはいるんだ」
軽く夏樹には目配せをして、比較的波音にダメージが行かない嘘を吐く。
つくづく自分という存在は大人として汚い人間だ。
思わず自嘲したくなる。
「ふぅん…ま、別になってしまった事は仕方ないもの…今はただ、なる様になるしかないと思ってるからいいわ」
波音ははぁ、とあからさまにため息を吐く。
僕の返事には満足していないだろうに、無理矢理納得させようとしているように見える。
ここまでくると流石に可哀想に見えてくるが、こちらからはこれ以上どうにかできる余地もない辺りは大変心苦しい。
「……それで、今回は二人揃って僕に用事があったんだろう?どうしたんだい?」
「忘れる所だったわ。日和が攫われた時、神宮寺家の結界が壊されたの。昔からある古い結界の上に師隼と麗那先輩が陰陽の防御結界を張ったのに、それごと壊されたのですって。それで今は無防備の状態だから、新しく結界を張り直してほしいそうよ」
「どんな馬鹿力があればそんな破壊力が出るんだい?…ごほん」
思わず口走ってしまった。
過去、神宮寺家の結界などそう易々と壊された事は無いだろうに大胆な事をしてくれる。
面白すぎて口角が上がってしまうのを空咳で押し留めた。
「そう言いたくなるのも分かります。そもそも神宮寺家の結界を破るなんてそう簡単じゃないですから。しかも今回は師隼様と麗那様、狐面の皆さんの力が合わさってできた結界もあったのに…」
「えー?そんなの聞いたら気になるどころじゃないんだけどなあ…そうか、分かったよ。じゃあ今すぐにでも一度神宮寺家を訪ねた方が良さそうだね。ところで、正也の話は聞いてるかい?」
二人は揃って首を横に振る。
どうやら全く話は聞いていないらしい。
「全然よ。すぐ帰ってくると思ったのに全く戻る気配もないし、話も全く来ないの。おじ様は何か知ってるの?」
「いいや、僕も全く聞かないんだ。流石に枕坂へ向かう日には帰ってくるとは思うんだけど…」
「そう…」
しゅん、と波音は肩を落とす。
その隣で「あっ…!」と夏樹が声を漏らした。
「突然どうしたのよ」
「今の話もそうなんですが、ウチの大事な用事を忘れてました。ハル様はいらっしゃいますか?」
まさか、他家がウチの家内に呼ばれたことなど一度もない。
それは子供達もそう。
精々こうして来訪した時の挨拶程度なのに、珍しい名前に少し驚いた。
「うん、ハルかい?基本的に外出はしないから居ると思うけど…何かあったかい?」
「母からの#言伝__ことづて__#で、ハル様の力が必要だそうです」
ハルの、"力"……?不穏な空気を感じた。
今まで触れないようにしてた部分を無理矢理聞かせられる日がついに来たのかもしれない。
***
黒の令嬢は笑う。
面白い。心底面白い。
それ以外に似合う言葉など、あるものか。
まずは想定通り、私と師隼で張った結界を破られた。
師隼が『結界を張っておこう』と提案し、私は無意味だと思いながらも共に施した結界は、まさかの高火力の強行突破で割られてしまったのだから、とても腹筋に良い運動に変わってしまった。
プラスしてちゃんと満月の日に割ってくれたことはいっそ清々しくて印象が良い。
次点で感慨深いのは、こちらの想定以上に日和が丁寧に攫われた事。
周囲に被害が及ばない様に、そして最低限の守りだけはちゃんと身に着けたまま攫われてくれた。
式紙が紙媒体である為にしっかり飛んでいかない様に小石を乗せていた丁寧な扱いと、現在状況を報告してくれた狐面にも配慮して目配せで注意を払っていた日和の行動を、誰も馬鹿にはできないだろう。
そして今、目の前には師隼と狐面の元締めとして顔を出している櫨倉魁我、水鏡波音に小鳥遊夏樹、置野佐艮と妻のハル、そして#神宮寺麗那__わたし__#が並んでいる。
この人員ですら、面白すぎる人の並びだ。
こんな顔ぶれが並ぶのはきっと今後一切ないだろう。
その理由は…やはり置野佐艮の隣に凛と座る奥方のハルではないだろうか。
「…さて、また珍妙な顔ぶれになったね」
その思考は夫でもある師隼も同じだったらしく、妙な緊張感を持って口を開いた。
やはりその原因も、置野ハルにあるだろう。
元々こちらへ来るような人間ではないし、置野佐艮は溺愛し、家という檻に閉じ込めてしまうほどの愛妻家である。
その為にも彼女の顔を見るのはこちらも初めて、師隼も多分そのはずだ。
こちらの緊張感を他所にハルは丁寧な仕草で姿勢を整え頭を下げる。
「改めてご挨拶させていただきます。私は置野佐艮の妻、置野ハルと申します。以後、お見知りおきを」
前挨拶に全員が揃って頭を下げる。
厳格な空気が漂い、誰もが、夫の佐艮ですら緊張感を持った堅い表情をしている。
柔らかく#嫋__たお__#やかな笑みを浮かべているのはハルだけだ。
「私の力を知っているのは小鳥遊シン…私の妹と、その子である夏樹さんだけだと思うので、まずはご挨拶をさせて頂きます。私の家は『奥村』という言霊使いの家の者です。生憎術士家系のように"当主"という物はありませんので、そうですね…今は"代表"という言い方にしておきましょうか。今、この場では奥村ハルとしてこの話に参加させて頂きます。よろしくお願い致します」
『自分は一般的な家の出ではない』
その事実はどうやら夫である佐艮にも内密にしていたらしく、いつもの明るすぎる笑みどころか、先ほどまで見えていた真面目な表情すら歪んでしまっている。
夏樹も母親と双子であることは知っていたようだが、見たところ特別な力を所持していた件は知らなかったようで苦い顔を見せていた。
「ふむ…という事は、貴女は『京都側の人間』かな?」
術士の人間でないのであれば、特別な力を持った家は物の怪や怪異を相手としたものが多い。
師隼の問いにハルは悩む素振りを見せ、静かに頷く。
「そういった力をそう呼ぶならそうなのでしょう。ですが私達は古来からそのような力と技術があっただけで、彼らがどんな組織なのかは存じません。私達は貴方達と力を扱う目的は違っても、心は同じ、表立って行動する訳にはいかないのです」
ハルの物言いに少々思うことはあるが、少し懸念すべきな事象のように聞こえる。
小鳥遊杏子についてだ。
京都とのつながりを作ってしまった彼女の成り行きが不安に感じたが、今考えるべきではない。
きっと師隼がなんとかするだろう。
「ふうん…貴女がそう言うのなら今気にする必要はないわね。…確認することがあるわ。奥村ハル様、貴女はどの用事でこちらへいらしたの?」
声をかけるとハルの視線がこちらへ飛んできた。
それは当然であるのだけど……相手のハルの嫋やかさは変わらず、予想外にも優しい眼差しを浴びた。
「ええ、今回の話はシンからよく聞いておりますわ。ですから、お手伝いが出来るならばさせて頂こうと思いまして」
「は、ハル…!?」
「旦那様、たまには私にもお仕事をさせてくださいな」
にこりと微笑むハルに佐艮の表情が歪む。
置野の解呪にも付き合わせない、単独で解呪に臨む愛妻家の佐艮らしい反応だ。
自分でも思うことがあるが、口を開けたのは櫨倉魁我だった。
「その…失礼な物言いになるかと思いますが、貴女には何が出来るのです?」
「妹のシンも簡単に出来る事ではありますが、人の動きを言霊…言葉により操れます。戦わせることも出来るし、相手の動きも人であれば止められますよ。今回の相手が妖を混ぜた人間であるなら多少の力にはなれると思い、こうしてここへ足を運んだのです。そうですね…魁我様が率いる狐面の方々でしたら立派な戦士として操る自信はありますわ」
「…っ」
魁我は息を飲み、静かになる。
枕坂へ乗り込める狐面は総勢で言えば50名ほどになるだろう。
その全員を言葉で操れるというのなら、それはきっととても心強い戦力になる筈だ。
それが、味方なら。
しかしそれを危惧しない魁我ではないことを、私は知っている。
「強大な力ですね…。その力を我々、#基__もとい__#術士様方に振るわないという確証が欲しいのですが…」
ハルはくすくすと笑う。
「あら、私にも大切な息子が居ますもの。その必要が無いでしょう?それに…私は既に置野に身を置く者、そして篠崎の人間ですから契約でもなんでもしますよ?今はただ、私の大好きな篠崎の人達が苦境に立たされていることが許せないだけです。特に、大切な娘が危険な状態であるならば、救いの手を差し伸べることこそが母親というものではないでしょうか?」
可笑しく笑っていたハルの笑みは嫋やかな笑顔に戻り覚悟の強い目を向けていた。
置野正也の影からしか覗いたことが無い人物ではあるけれど、なんとも芯の強い女性のように感じる。
(これが、母親というもの…?)
「……試す真似をして申し訳ございません」
「いえ、警戒されるのは当然ですわ。先ほども申し上げましたが、私達は表立って行動する訳にはいかないのです。寧ろ篠崎の術士が安全に守られていたようで安心しました」
落ち着いた物腰でハルは笑みを浮かばせる。
その姿は凛としていて、だけど何も言わせない空気を漂わせていた。
これ以上は無駄になるだろうと判断したか、以降の魁我は大人しく引き下がった。
ならば私も、これ以上は何も言う必要は無いと判断しよう。
その空気を飲んだように、師隼は息を吐いて床に向いていた頭を上げる。
「……では、本題に入ろうか」




