19.別ればかりの人生
昨日、初めて友達に手料理を作った。
本当に久しぶりに麻婆豆腐を作ってとても喜んでくれたのが、すごく嬉しかった。
こんな温かい気持ちになるなんて知らなかった。
つい、料理を楽しいと思ってしまった。
もっと勉強して、他の友人に振る舞ってみるのも良いんじゃないかなって思った時、今までに無かった気持ちを持つ自分が正気なのかを疑ってしまった。
それほど嬉しかったんだと、初めて実感した。
そうして友達と過ごした時間が楽しかった。
「……今日の帰り、誰だろう…」
日和はそわそわしていた。
昨日作った麻婆豆腐がとても喜ばれたのが心底嬉しくて、舞い上がっていた。
ただし舞い上がっている、というのは無自覚だ。
昨日の買い物で今日の分も準備はしてある。
日和は楽しみな気持ちを抑え込みつつ、校舎を出た。
「今日は、竜牙ですか?」
校門の柱に身を預けるように、竜牙は目を瞑り腕を組んで寄りかかっている。
日和は横から顔を覗くように竜牙の顔を見た。
「ああ。おかえり、日和」
竜牙は目を開け日和の姿を確認すると、体を起こし微笑む。
いつもの着物に袴、よく動いているのにシワも無ければ汚れもない立派な羽織をした竜牙の衣服は学校には全く相応しくはない。
だが今はそれを咎める者はおろか、丁度帰宅し始める時間なのに辺りには生徒も、道路を通る一般人すらもいない。
どうやら既に結界の範囲にいるらしい。
今は誰も竜牙を、日和を視認できる者はいない。
「はい、ただ今戻りました。今日もよろしくお願いします」
日和はぺこりと丁寧に頭を下げる。
竜牙は小さく笑いかけ、何も言わずに歩き出した。
その後ろをただ静かに日和はついていく。
出会った最初こそ少し話したが、竜牙は日和から話しかけない限り何も話さない。
本来なら前に一瞬だけ見た焔のように小さな姿にもなれるらしいが、日和は憑依換装した竜牙しか知らない。
そもそも日和は、竜牙をよく知らない。竜牙どころか、その主さえ。
「あの…、竜牙!」
居ても経っても居られず、名前を口に出した勢いで日和は竜牙の袂を掴む。
「ん、どうした?」
「し、式は…その、お腹空きませんか?」
「お腹…?…基本は、ならない。…不思議な事を聞くな?」
立ち止まった竜牙は手を顎に当て悩む。
式は普段食事など摂らないのだろう。日和の質問が心底意外だったようだ。
「その、よかったら…そのまま家で食事しませんか?できたら竜牙達の事を…もっと知りたいです。……あっ、味付けは濃くした方が良いですか!?」
確か前に、式の味覚、特に竜牙は味覚が弱いと言っていた。
もしかしたら濃い味付けにすれば美味しく食べられるだろうか。
しかし竜牙は日和の思考などよりもその表情と仕草に固まり、くつくつと笑い出した。
「…分かった。味とかは、気にしなくて良い」
そして微笑んで頷く。その姿に日和の心が温かくなり、余計に楽しみが増えた。
***
学校から日和の家には10分かかる。
といってもほぼ一本道で非常に分かりやすい、単純な通学路だ。
住宅街に入ると家の前の道が多少狭くはなるものの、それでも車はなんとか2台は通れる広さで日和は竜牙と共に歩き、家の前までやってきた。
「ちょっと待って下さいね」
竜牙をちらりと見てポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。
しかし横に傾いたのは日和の頭の方だった。
「あれ…?鍵が開いてる…?」
「っ…!」
竜牙はすぐに不自然な状況を察知し、門から日和の背中を見て警戒をする。
日和はドアに手をかけて開け放つ。
いつもの廊下、いつもの2階へ続く階段。見慣れた景色の中で日和は一カ所の異質を見抜き、たじろぐ。
その姿に竜牙は心配になり、共に中を覗いた。
玄関には一足だけ、靴が置いてある。
当たり前のように置かれているが、日和がよく履く通学用のローファーとは違い、厚底で立派な頑丈そうなブーツのようなもの。
「お…おかあ、さん…」
呟く日和。
その顔は見事真っ青に染まっていた。
「ひよ…――」
「――日和ぃぃっ!!」
心配になった竜牙が声をかけようとした途端、家の奥から怒声にも近い声が響く。
次の瞬間床を大きく鳴らして足音が近付き、日和の体が弾かれるように道路へ投げ出された。
日和の体はそのまま背面と後頭部を激しく打ちつけ、仰向けに倒れこんだ。
「あぐっ…!」
加害者本人は倒れた日和に馬乗りになり、酷い剣幕で胸ぐらを掴んで叫ぶ。
「日和!!ねえ、お父さんはどこよ!?あなた今まで一緒に住んでたんでしょう!?どうしてどこにも居ないの!?ちゃんと家の事してたんでしょうね!?」
一瞬だった。
日和の体が投げ出されて、その上に跨がる女は目を吊り上げて娘に威喝している。
それが母親のする行為ではないのは、目に見えて明らかだった。
「ぐ…ぅ、離して!してた…ちゃんとしてたよ!」
「だったらどこに行ったって言うのよ!ずっと待ってるのに戻ってこないじゃない!!」
気道が狭くなり、苦しさを感じながらも日和は叫ぶ。
今まで傍に居なかった分と、祖父を失った分で心の奥底から沸々と怒りが湧いた。
「戻って…来る訳無いでしょ!死んじゃったんだから!!いつも仕事だって海外へ逃げてる人なんかに言って、分かる訳ないです!!」
「はぁっ!?それが母親に対する態度なの!?夫の次は、お父さんだって事なの!?ふざけないで、また私への当て付けって訳!?」
「ふっ、ふざけてるのはどっちよ!!何っ…も、知らない、くせにっ!!」
胸ぐらを掴む手を握り、日和も苦しそうに叫ぶ。
母親の表情は真っ赤になり、激情していく。
「こんの…――!」
馬乗りの女性は右手を振り上げ、日和は反射的に目を強く瞑り縮こまる。
「――やめろ。それが母親のやることか?」
「なっ…!?はなっ…!」
振り上げた手を握り、竜牙はそのまま腕を引っ張り上げる。
女性の体は軽々と持ち上がり、日和の体が解放された。
視線だけ日和に合わせると、驚きと恐怖の入り交じった顔を浮かべ、僅かだが体が震えている。
化け物を見るような目で女性が睨んでくるので竜牙はそのまま地面に降ろし、また日和に危害を加えないよう腕は拘束した。
「何よ!誰なの!?なんなのあなた、離しなさいよ!家庭の話をしているの、邪魔をしないで!」
「娘の体に馬乗りになって、殴りかかる行為の何処に家庭の話がある。あんたの娘が泣きそうになってるのが見えないのか?」
強く睨んでくる女性は一向に落ち着く気配がなく、日和は体を起こしたがまだ震えて警戒している。
「あなたには何の関係も無いわ!そもそもあなたはなんなのよ、警察を呼ぶわよ!!」
きゃんきゃんと煩く吠える犬のように叫ぶ女性に竜牙はため息をついて、一段低い声で言った。
「あんたの夫の同僚だ。残念ながらあんたが捜している父親か?ここの家主は妖に食われて死んでいる。この家に残ってるのは日和と、あんただけだ」
「な…っ!」
竜牙の言葉に女性は黙り、静かになった。
そして立て続けに言葉を発する。
「本人の希望ではこの家に住むことだったが、今の醜態を見て「良し」とは言えない。悪いが、金詰日和の身柄はこちらで保護する」
冷たい声と言葉で女性に言い放つと拘束を解き、座り込む日和に手を差し伸べた。
今の今まで怒っていたが、それでも日和に向かう竜牙の表情は極力笑顔を繕っている。
笑顔は竜牙が自分を安心させてくれるんだと感じ、日和はその手を取る。
「なっ…、…ひっ、日和…!」
地べたに座り込む、先ほどの自分と真逆になった母が名を呼ぶ。
「行くぞ、日和。大丈夫か」
「…はい、竜牙…」
「まっ、待ちなさい!日和、日和!!!」
「わっ、……私には…母なんて、いません……さようなら」
一週間ほど前に師隼にも言った言葉を、日和は再び口にした。
別れの一言を付け加え、一滴だけ流れた涙を拭うことなく、日和は母だった人間を背に歩き出す。
家に居場所なんてやはりなかったのだ、いつかこうなっていただろう。と心のどこかで渦を巻いていた日和の気持ちは意外とすっきりしていた。
手を握ってくれる竜牙の手が温かい。
一瞬のような出来事だったが、子供の頃を思い出すようなこの不安定な心を少しだけ、支えてくれた。
「…日和、ごめん」
「えっ?」
不安そうな竜牙の声が、前から聞こえた。
「無理に、連れてきてしまった。…やっぱり、このまま保護されてくれないか…?」
振り向いた竜牙の表情が、玲が心配している時の表情と被る。
竜牙も本気で心配しているのだと、本能的に理解した。
「……御厄介になっても、良いんですか?」
「ああ、構わない。寧ろ俺は…助かる」
即答する竜牙に日和は眉をハの字にして、困ったように笑う。
「…じゃあ…よろしくお願いします」
「…ああ。じゃあ、悪いが…場所が逆なんだ。急いでもいいか?」
竜牙に頷くと身体が一瞬浮いて抱き上げられた。
「ひゃっ!?」
「しばらく、大人しくしていてくれ」
竜牙は日和を抱えたまま軽々しく近くの家の屋根に乗り、屋根伝いに飛ぶ。
街並みが前から後ろに流れていき、あっという間に家が離れていったのが見える。
景色を見るよりも今の状態に少しの恐怖と恥かしさとが相まって、日和は目をぎゅっと瞑り、竜牙の首に回した腕に自然と力を込めた。
「…ついたぞ、日和」
竜牙は目的地の前で日和に声をかけ、日和の体を降ろす。
着地に少しよろけそうなのを堪えて目を開くと、そこには師隼の家とほぼ変わらない大きな門がそこにはあった。
『置野』
門の横に書かれた厚みのある木の板で書かれた表札が、ちゃんと置野正也の家であることを示していた。
「ここが…?」
「ああ。…あまり期待はしないでくれ」
金詰雪羅
日和の母親で個展を開く程度にそこそこ有名な写真家で、樫織雪羅として仕事をしている。
ただし日和はその写真も興味がないので溝は深まるばかり。
寧ろ写真は映るのは良いけど撮るのは好きじゃない様子。