135.永遠の夜
この所、竜牙はよく眠る。
定期的に窓を覗くとあんなに咲き乱れていた花は疎らに、殆ど無くなってしまった。
「ん…」
「竜牙、おはようございます」
「……おはよう」
たまに、ぼーっとしていることがある。寝起きは特に。
そんな時はすぐに眉をしかめて、こちらに微笑んでくる。
「ひよりは起きるの早いね」
「ちょっと、目が覚めただけですよ」
分かっている。
もう残りの時間は無い。
目の前の青年だった人は、園児程の小さな子供のような雰囲気になってしまった。
「……どうしたんですか、竜牙?」
じっと変わらず見つめてくる視線に首を傾げて聞く。
すると竜牙は優しく笑って口を開く。
「ひよりを見ていると、なんだかなつかしい気がする。なんでかな」
「……っ!…ずっと居るのに不思議ですね」
「なんだかひよりが遠くにいっちゃう気がするんだ。だからかな…」
「大丈夫です。ずっと、居ますよ」
なんだか小さな子供の相手をしている気持ちになってしまう。
少しずつ心に何かが積もっていく気がして、笑顔が昔していたような取り繕ったものになっていないだろうか。
竜牙はもう、私を真朱とは重ねない。
もう気付けないからだ。素で間違えてくることもあるけど。
「竜牙、外に出ませんか?」
「うん…?じゃあ、出る」
外に出れば花が間近で見られる。
たまに竜牙が寝ている間に見つけた重要そうな記憶はまだ残っている。
見終わってない花があるのを、早めに見てしまいたい。
「ずっと咲いてる…」
「えっ!?竜…――」
いつの間にか屈んでいた竜牙は足元の花を摘んでいた。
透明な花は細かく割れ、花弁が粉末状にふわりと空気中に舞い上がり、きらきらと降り注ぐ。
それは、私が弥生と対峙した記憶。
弥生の前に立ち、誕生日を迎え、首を絞められて体が倒れるように落ちていく。
弥生が私から力を吸い、私が死んだ記憶だった。
「……ごめんっ」
「え、なっ、なんで…?」
突然竜牙に抱き締められ、吃驚した。
中々離してくれない。
「…あの、竜牙…私は大丈夫です…。ごめんね…部屋に戻りましょう…」
やっぱり竜牙はかなり忘れてしまっている。
今の記憶を見て、少し思い出したかもしれないが、殆ど忘れてしまっている。
もう、時間がない。
早く、竜牙を助けなきゃいけない。
「ほら竜牙、休みましょう」
「うん……」
部屋に戻ると竜牙は倒れるように、一瞬で眠ってしまった。
私は急いで再び外に出た。
「このままじゃ、駄目…!…竜牙を、助けないと…」
花を踏まないように、駆ける。
触れぬよう、花を覗く。
「どこ…何処にあるの?…お願い、真朱さん!竜牙を…白夜を助けたいの!」
声をかけたって、誰も教える訳がないのに。
「この花は…違う…。この花…も違う…」
花を見れば何か分かるかもしれない。
理解するために始めたのに、見れば見る程迷っていく。
見れば見る程分からなくなっていく。
何かが足りない、このまま逝くには、まだ足りない――。
「一体どこ…?あれ、…あの花…」
1輪だけ、赤い光を発する花がある。
まだ様々な色をちらつかせる花はあるが、妙に目立つその花に近付き覗き込んだ。
写し出されたのは、師隼に似た人物だ。
何かを言っているが、声は聞こえない。
「ら…うい…?あつ、かや…?…何処かで似た音を聞いたような…あっ!!」
口の動きを真似ると、脳裏に空色の風切羽がちらついた気がした。
令嬢の様な笑み、紅茶を嗜む仕草、ゆったりとした佇まいのお城の主。
天空の女王を思い出す。
『貴女が最期を看取る騎士に、伝えて頂戴。「ラヌニアツカヤは、貴方を赦します』……」
その言葉を頭の中に復唱した途端、花々が一斉に強く光りだした。
「な…っ、駄目…!まっ…て!!」
私は走り出していた。
頭より先に体が動いて、焦る。
中に入ると竜牙の体が光り始め、体は薄らと消え始めていた。
「竜牙!お願い、竜牙起きて!!駄目、待って!まだ伝えてないです!」
身体を揺らし声をかける。
竜牙はまだ、目覚めない。
「竜牙、起きて!ねえ、たつ…――」
「――う…ん…?……えっと…おねえちゃん、誰…?」
「…っ!」
思わずたじろいでしまった。
でも今はもう、そんなことを気にする時間はない。
「とりあえず、来て下さい」
起き抜けの竜牙を連れ、外に出る。
身体は大きくて重くて、引っ張っても眠たそうに目を擦るだけでなかなか進んでくれない。
それでもなんとかまだ残った花が集まる場所で足を止め、竜牙に振り返った。
「竜牙…それとも、貴方は白夜さんですか?貴方に、伝えなくてはならない事があります…。いいですか?」
「…俺は、誰…?ここは…」
首を傾げる竜牙の姿に、涙が零れそうな程に溢れてしまう。
声が震えないように、ゆっくりと言葉を続ける。
「ここは、幽世。貴方は責務を果たし、今から新たな輪廻に導かれ、次なる生へ進もうとしています」
「かくりよ…次なる…生…」
「しかし貴方は、責務の最中に呪いを受けることとなりました…。
今からその解呪を始めても良いですか?」
「かい、じゅ……ああ…」
竜牙の今にも消えそうな両手を握り、祈るように自分の前で手を合わせる。
涙が出そうになったのを堪えて、手が震えそうになったのを耐えて。
ラニアが言っていたように、それを思い出しながら、極力真似る様に。
「私にはもう神様の力はありません。それでも、『後悔』を持つ貴方にこのまま旅立って欲しくはないのです。
竜牙…血とか、過去とか、務めとか、全部全部忘れて、貴方は何もない普通の人生を歩んで欲しい…。
だから、この言葉が必要なんですよね…?」
「…?」
「竜牙、これからの貴方の記憶に『真朱』も『日和』も居ません。自由に生きてください。
――『ラヌニアツカヤは、貴方を赦します』」
パキパキと割れる音が沢山聞こえて、残りの全ての花が舞い上がったのが分かる。
竜牙から記憶が流れてきて、握る力が強くなった。
流れてきたのは、私と居た時ばかりの記憶だ。
屋上で出会って、母の元から連れ出してもらい、死にかけていた私を助けてもらった。
心配してくれて、沢山慰めて貰って、ずっと傍に必ず居てくれた。
私の苦しみを全て受け止め、弥生と対峙した時も最後まで守ろうとしてくれた。
気持ちを伝えたくてハンカチを送ると橙色のリボンをくれた。
真朱――四術妃の力を使ったことを本気で怒ってくれて、最後は嫌だっただろうに、竜牙の持つ四術妃の片割れの力をくれた。
最後まで、守ってくれた。
まるで走馬灯のように記憶が流れて、受けた感情が溢れ出て、思い出せば思い出すほど涙が零れる。
この手の温もりは二度と触れる事は無い。
ああ、お別れだ。
本当の本当の別れの時間だ。
「…日和、泣いてるな」
「えっ…?」
目の前には優しい表情で涙を拭ってくれる、竜牙がいた。
握っていた手は、いつの間にか離れていた。
「大丈夫か?」
「竜牙…竜牙、私…」
「もう、二度と会えなくなるな」
「聞いて……聞いて、竜牙…!私、竜牙が好きです!こんな言葉でいいのか分かりませんが、ずっと傍に居てくれた、気にかけてくれた竜牙に、私は感謝してます!本当ならもっと一緒に居たいです!お別れなんて、寂しいです!だから…っ」
『忘れないで』そう言おうとしたけど、言えない。
周囲で散っているであろう記憶の花を、これ以上増やしたくなかった。
来世では、全てから解放された竜牙を見たい。そう思って、今送り出したはずだ。
だったら今、何を言うべきだろう?
「日和、大切なものは見つかったか?」
優しく微笑む竜牙の視線が私を向いている。
「私の、大切なもの…。…私、竜牙を忘れたくない…」
「ああ」
「ずっと居てくれたこと、してくれたこと、忘れたくない」
「ああ」
涙が溢れる。
止まらなくて、気持ちも溢れて、目の前の好きな人が殆ど見えないのに、涙で余計に見えない。
「ここでのっ、ことも…忘れたく、ない…っ!」
「日和…私はもう、お前を守ってやれなくなるな」
「…っ!」
声が、震える。
終わりが近い。
「日和…これから先は、お前がなりたい未来をしっかりと選べ」
「竜牙…」
「お前が選びたい未来を、胸を張って」
「……っ」
「日和、さよなら」
まだ触れていたいのに、感覚はもう、ない。
温かさも、感じない。
それなのに。
最後の最後だけ、額に何か柔らかいものが当たった気がした。
全ての光が舞いあがって、消える。
足元も、空も、何もかも、暗くなって、好きな人が居なくなって、心まで、暗い。
「う…うぅ…っ!…うああああああああああああっ!!!」
どうにもならない津波のような激しい感情が嗚咽と共に出た。
空の闇は花の光が一筋も亡くなった空間に、どこまでも広がっていく。
家さえも見失ってしまいそうなここは、あまりにも暗くて寒い場所だった…。




