98.傷心の夏樹
『小鳥遊』と古臭い表札が掲げられた扉のない門を超えて、数件先の誰も立ち入らない飾りだけの寺の門をくぐる。
砂利を踏みしめながら石の経路を進み、裏側に抜けた先には裏通りの中で一軒だけ玄関が道路に向いた新築のような洋風の家がある。
表札もないただ明かりだけがついた家に当然の様に入った。
「…ただいま」
「おかえり、夏樹君。巡回お疲れ様」
出迎えたのはハーフロングの髪を緩くまとめたビジネススーツを身に纏う女性。
にこりと笑顔で「私も今帰ってきた所なの」と声をかけてくる。
「夢さんも、お仕事お疲れ様です。兄さんは?」
「優なら夕食準備して待ってるよ。夏樹君も食べる?」
「……じゃあ、食べます」
夢という女性と一緒にリビングに行くと、テーブルに夕食のハンバーグを3人分広げて兄が待っていた。
最近聞いたメニューだなと感じた。
「お疲れ様、夏樹。今日は大丈夫だったか?」
「ただいま。…今日も、大丈夫だったよ」
「そっか、ならよかった」
頭に着けた黒いヘッドバンドで目を隠した兄はにこりと笑っている。
「お待たせ、私お腹ぺこぺこ!食べましょ!」
荷物を降ろしてきた夢さんが椅子に座り、僕も腰かけた。
手を合わせて目の前の兄製のハンバーグを一口分切って頬張る。
「――そういえば夏樹、そろそろ受験じゃないのか?高校は決めたか?」
今日もあった話題なのに、相手が変わるだけで随分と気分が変わる。
今はすごく重たくて、口に入れたばかりのハンバーグを吐き戻しそうになった。
「……行きたいところはある、けど…父さんには会いたくない」
「そっか。なんとかしてあげたいけど…とりあえず俺から掛け合ってみようか?」
「兄さんが言ったってあの人は聞く耳持たないでしょ。いい」
「私も出来る事があればお手伝いするから、何でも言ってね」
「……夢さんは…仕事して兄さんの世話もしているし…大丈夫」
兄と夢さんは少し困った表情をして、笑う。
分かってる。仕方ない。
そして二人がどんなに頑張っても努力できる問題ではないことも、全部分かってる。
自分の問題だから黙っていて欲しいのに、それでも口に出して言われるなら、どうしたら良いのか。
……僕が言って、行動しないといけない。
殻に閉じこもっていては駄目な事くらい、分かっているのに…。
「夏樹、今は俺達だけだけど、二人だって一応お前の事は気にしてくれているんだ。
何か困りごとがあれば出来るだけ解決できるよう努力はするから、何でも言ってくれ」
兄の言葉は薄っぺらい。
――薄っぺらくはない、今まで色々と気にしていた事も知っている。
何でも努力で解決できると思ってる。
――そんな事はない。兄だって色々苦労があってここまでの事を言ってくれている筈だ。
今まで逃げていた卑怯者のくせに。
――僕だって逃げている。どこにそんな酷い事を言える弟がいるのか。
「…夏樹君、大丈夫?やっぱり体調悪い?――」
「――触るな!……すみません、やっぱり…今日は、寝ます…」
夢さんが立ち上がり、触れそうになった手を払いのける。
またやってしまった、よりにもよって夢さんだ。
胃の中がひっくり返ったように気持ち悪くなって、僕はまた逃げるように二階へ上がった。
暗い部屋に閉じこもって、風琉がひょっこりと顔を出す。
「…もー、夏樹何度目?ご飯もちゃんと食べないと、もっと苦しくなるよ?」
「分かってる」
「処刑台の女王が倒されるまでは忙しくしてたから安心してたのに、また可愛い顔が戻ってるよ!」
「…風琉、うるさい」
「はいはい、またそうやって隠れちゃうのね。だめだよ、ちゃんと進歩があるように見せないと、なるようになりません!」
「僕だって、努力はしてるよ!」
しつこい風琉に思わず立ち上がって声を張り上げる。
風琉はむっと頬を膨らますと、つんと厳しい表情を向けてきた。
「そーですね、一応努力はしてるみたいだけど…もっと他に出来る努力があるんじゃないの?なんなら相談してみれば良いじゃない」
「…誰に」
「日和ちゃん」
「は?なんで日和さんが…」
「他に相談しやすい人いるの?」
「……」
「はい図星ー」
「風琉うるさい」
何でここで日和さんが出てくるのか、全く意味が分からない。
分からないのに、何も言い返す事は出来なかった。
***
「じゃあ、巡回に行ってくる」
「気を付けて帰ってきて下さいね」
家の前で正也は竜牙と共にふらりと去っていく。
正也の分の鞄を持って、少し肌寒くなってきた空を見ながら家に戻る。
「――日和さん」
つもりだった。
「…あれ、夏樹君。どうしたんですか?」
「……」
思い詰めたように黙り込む夏樹に日和は家に戻って女中に事情を話すと、すぐに鞄が回収されて応接間が準備された。
日和は夏樹を中へ案内する。
立派な絨毯に椅子やテーブル、豪華だと思うこの部屋に二人でいるのも少し気が重い様に感じるが、今はそれどころじゃないのだろうと目の前の訪問してきた少年を見て思う。
「すみません、突然…」
「寧ろ正也じゃなく、私で良かったんですか?」
「そこは…はい」
なんとなく、夏樹の表情は硬く、重たい。
「その……昨日、高校の話で…」
「ああ…すみません。正也から聞いたんですけど、家の人が厳しいんですよね?大丈夫…ですか?」
「そう、なんですけど…」
「えっと……」
言葉が続かない。
どうするべきだろうか。
「すみません、ご迷惑かけるつもりはなかったんですけど――」
突如、申し訳無さそうに頭を下げる夏樹に怒りをぶつける様な女性の声が響いた。
「――あーーーじれったい!!!」
夏樹の背後で風が吹いて、夏樹の座るソファーの隣に見覚えのあるマフラーとコートを着た女性が現れる。
その表情はいつもの柔らかいものと打って変わって、言うなれば般若に近い形相だ。
姿勢も腕と足を組み、機嫌の悪さがわかりやすいほどに表に出ていた。
「わ、風琉…お久しぶりですね」
「うん、日和ちゃん久しぶり…って違う!ねえ、日和ちゃんからも言ってあげて!
この子がいい加減あんの父親にハッキリ言えるよう、手伝って!」
「あ、え、え…?」
「風琉…うるさい…」
夏樹はため息をつきながら頭を抱える。
家庭の事のようだがかなり深刻に感じた。
「…僕は5人兄弟の末なんだ。今は色々あって大兄夫婦の家に世話になってるんです」
「5人兄弟って…多いですね…」
「…跡継ぎが生まれなかったんだ。やっと生まれたのが僕で…だから父からすれば他の兄姉は必要無くて、中学前くらいまで…僕は父の元でずっと術士としてやってきた、のだけど…」
表情の暗い夏樹の言葉が詰まる。
それを見た風琉が日和を見て、口を開いた。
「この子、それから色々あって引き籠っていたの。優…あ、夏樹の兄なんだけどね、そっちの家で引き取ってもらってなんとかここまでやっていけたのよ。
でももう受験でしょ?もうそろそろ決めるのは最後だっていうのにこの状態で…」
「そうなんですね…。あの、兄弟仲は良いんですか?」
「…正直に言うなら、見た目だけだよ」
「見た目だけ…」
夏樹は俯いたまま、顔を上げない。
代わりに風琉からの返事が届く。
「夏樹君は、どこの高校に行きたいんですか?」
「え…それは……」
「……っ」
夏樹は言葉を濁す。
風琉が言いかけそうになった所を、手を上げて止めた。
「…日和さんや、皆と同じ高校に…行きたい」
「じゃあ、その希望で出したらダメなんですか?」
がたっ、と座っていた椅子を軽く押して夏樹が立ち上がる。
「だって父さんは!!……術士がいる学校に、行く必要は…無い、から…」
悲痛な表情が、段々と自信が無くなるように萎んでいく。
段々と夏樹の中身が分かってきた気がする。
弱弱しく腰かけようとした夏樹の手を握って、真っ直ぐに、その目を見た。
「それはお父さんの意見ですよね。夏樹君の意見なんですか?夏樹君はそれでいいんですか?夏樹君はそれで、納得するんですか?」
「ぼ、僕は……そんなの嫌だよ!僕だって皆と一緒に居たいし、もっと話したいし、もっと……いや、別に――」
「――最後まで、続けてください」
「…うーーっ!僕は小鳥遊家の跡取りだけど、兄さんや姉さん達を蔑ろにする父が許せないし、勝手にレールを敷く父も許せない!だから言う事も聞きたくない!
だけど…だけど兄さんや姉さんは…!僕を…嫌っているから……!!」
「夏樹……」
夏樹の目からぼろぼろと涙が零れていく。
思ってることはあるのにはっきり言えない、胸のうちに隠れた言葉。
その表情や涙に少しだけ、覚えがある。
初めて夏樹が、自分に似ていると感じた。
いつも柔らかな雰囲気でにこにことしている男の子だけど、翻弄されている術士なんだなと改めて実感した。
風琉はそんな夏樹を優しく抱きしめていた。
まるで姉弟のような二人だと思う。