8.蔓延る暗闇
食べ終わり、外に出るとむわっとした独特な湿気を感じた。
5月も残り一週間強、6月が近づいている。
「いやあ、食べたね」
「うん。…もう、帰る?」
「少し、商店街を回ってもいいかい?」
「分かった」
少し早めに食事をしたからか、時刻はまだ19時だ。
普段なら今から食べるところだった。
周りは既に暗い。
それなのにこの場所は商店街の裏側という事もあり、光源に照らされている。
日和は夜の闇に明るさがある空間が苦手だった。
真っ暗闇か、寧ろ昼間のように明るい方が辛くない。
だから光のある方へ、日和の足は自分が思っていた以上に早く進んでいたらしい。
「日和ちゃ――…」
祖父の声が突然掻き消えた事に気付いたのは、正面から後ろへ流れる気持ち悪い風が通り過ぎてからだった。
「……え?おじい…ちゃん?」
唐突に一人になり、ひたりと暗い闇が日和を感覚的に襲った。
どこにも祖父の、それどころか人の気配すら感じなくて冷や汗が出る。
商店街から洩れる光源がぐにゃりと感覚を狂わせ、気持ち悪さが込み上げてくる。
それは、食べたものを戻してしまいそうなくらいに。
両手を胸に当て、恐怖にバクバクと大きく鼓動を打つ心臓を押さえ付けた。
じゃないと背後から襲われそうで息が詰まってしまう。
気を抜くと過呼吸になってしまいそうな息を落ち着かせながら歩く。
特に人がいない場所、そして街灯の照らされる場所が苦手だった。
それは日和の見た幼い記憶が、血に塗れた記憶が街灯照らす駅前の公園で、周りに人が誰一人居なかった当時の状況に起因している。
似た場所へ行くとその光景が簡単にフラッシュバックしてしまう。
死んだ父を襲った何かがそのあたりから出てくる気がして、夜が、夜の明るい場所が嫌いだった。
今この光景は日和にとっての生き地獄、とてつもなく怖い場所だった。
(どうしよう…だけど今は…そんな事、気にしていられない…!)
気持ちに力を込める。
姿を消した家族を探して、日和は足を止める事なく周囲を捜す。
「どこ…、おじいちゃん…どこ…!?」
悲痛な声をあげ、足の速度が自然と上がる。
同時に鼓動も早く打ち付け日和の表情は徐々に焦りと恐怖に染まっていく。
「お願い…行かないで…おじいちゃん、おじいちゃん…!」
よく分からない暗い道を走り、もしかしたらと明るい商店街へ出る。
しかし、どこにもいない。
寧ろ、誰もいない。
「……ひっ……あっ!」
今が夜だと強い認識をしてしまってからの明るい商店街がぞくぞくと日和の恐怖を駆り立てて、走った疲労か恐怖の震えか、日和の足ががくん、と落ちた。
転んだ傍に、生徒手帳が落ちる。
そこから覗いた羽根は前見た時とは全く別物だと思う程に、真っ黒になっていた。
「そん…な…」
悪い予感しかしない。
記憶の中の父が、また殺された。
「そ、そんな事、ない…!!」
起き上がり、涙が溜まりつつある目を袖で拭い、日和は立ち上がる。
「おじいちゃん…待ってて…!!」
日和は羽根を手帳に挟み、ポケットに突っこむと再び路地の方へ走り出した。
一本道を抜け、商店街の裏道に入ったところで聞き覚えのある声がかかった。
「あれっ、日和…?」
「えっ?」
背後から声をかけられ、日和は振り向く。
中華風の服を着て、目を丸くした水鏡波音がそこに、立っていた。
「…ご飯、食べてたのよね?何しているのよ、こんな夜道に。危ないわよ」
眉をひそめ怪訝な顔をする波音に日和はずいっ、と距離を縮める。
「波音、助けて!おじいちゃんがいなくなっちゃって…さっきまで隣を歩いてたのに…!」
真っ青な顔を向ける日和に、波音はぴくりと眉を動かす。
「いついなくなったか分かる?」
「わ、わかんない…!でも突然消えて…」
「消えたの?どういう感じで消えたの?」
「えっ?えっと…ま、前から風みたいなのが吹いて…おじいちゃんはその後居ないのに気付いて…」
「貴女が探し始めてからどれだけ経った?」
「わ、わかんない…!多分10分ほど!」
波音は少し黙り込み、右手を腰に当てる。
どうやらこれが考える時のクセらしい。
しばらく経って、顔を上げた波音の表情は硬くなっている。
「悪いけど、期待はしないで。ある程度は覚悟しておきなさい。分かった?」
波音の鋭い視線がまるで獲物を捕らえる肉食獣のようになる。
その視線だけで、日和の中で何かの諦めがついた。
「……うん、分かった…」
先ほどまで焦りがあった日和の表情はあっという間に、よく見る感情を感じられない姿へと戻る。
「…ひとまず、ついてきなさい」
日和の姿に何の動揺も出さず、波音は付近の小道へ体を向けて歩き出す。
日和は静かにその後を追った。
波音は足早に、小学生が興味で通りそうな細い小道ばかりに足を向ける。
いくつかの大きな通りを横切り、近道だと思われる場所を歩いているようにも見える。
歩く道は日和の苦手な道ばかりだが、何故か波音と一緒ならばそこまででもない。
今は祖父の事だけを考えて、日和は波音の背をついて行った。
「まずいわね。居ないわ」
「え…?」
突如立ち止まって目を細め、明らかに苛立ちを見せる波音の手元から音が鳴る。
どうやらスマートフォンの通信連絡が届いたようだった。
訝しげにスマートフォンを取り出し、指でいくつかの操作をすると目を瞑り、右手を腰に当てる。
ちらりと日和に視線を向け、ため息をつく。
「焔」
波音の短い言葉に反応するように、波音の背後の何もない空間に突如赤い炎が湧く。
ぶわっ、と一瞬燃え広がって消失したその場所に手のひらサイズの男の子がちんまりと浮いていた。
「どうしたの、波音。見つかった?」
ふよふよと動き、波音の肩に乗る。
その姿に日和は何を見ているのか不思議な感覚と共に、小さな姿に少しだけ愛嬌を感じた。
「ええ、見つかったわ。老人の男性、それと狼型よ」
一点だけを見つめて、波音は言う。
その蛇のような視線の先には、日和がいる。
「老人の……まさか、おじいちゃん…!?」
「…見なきゃ分からないけど…大丈夫?」
「……」
さっと青くなる日和に対して波音は淡々としている。
日和はついに黙り込んでしまった。
「ひとまず、行くわ」
波音はそれすら気にすることなく再び歩み始めた。
焔はちらちらと日和を見て小さな体を炎で包んだかと思うと、180cmくらいの青年に変わる。
前髪を斜めにカットし、綺麗で真っ直ぐな赤髪を首元で片側に流した特徴的な髪型は面長で切れ目の美麗な顔によく似合っている。
波音と同じ真っ赤な中華衣装は更にその存在を際立たせていた。
「大丈夫?」
「…た、多分…」
「身内の変わり果てた姿なんて、誰が見たって気持ちのいいモノじゃない。そんなの、身内以外でも一緒だけどね。これを持ちな。心を鎮めてくれる」
「焔、……まあいいわ…」
波音は名前を呼び引き留めようとするが、それ以上は何も言わなかった。
焔は優しく微笑み、手のひらサイズの球体を日和に渡す。
ガラスで作られたような綺麗で透明惑のある球は日和の手に渡った瞬間ぼっ、と音を立てて、燭台の灯りのような黄色の炎が現れた。
ゆらゆらと揺らめくそれは自然と魅入ってしまうほどに静かで、綺麗で、刹那的で、けれど手に伝わる熱さは一切ない程に不思議なものだった。
「あの、ありがとうございます…」
夜の怖さは既に波音に会った時点で消えていたが、祖父への心配もこの後の不安もこの炎のおかげか、日和は落ち着いて歩けた。
時刻は8時を過ぎている。
人通りもない、静けさに沈んだ町の中を縫うように歩く。
しばらく進むと正面に公園が見えた。
「ついたわよ」
冷えた波音の言葉が、夜の静けさにくっきりと痕を残す。
公園の中では竜牙と玲が、黒い布を囲って立っている。
「あら、玲も来てたの」
「日和…ちゃん。どうして波音と…」
玲は顔を真っ青にし、声を震わせている。
その反応で既に日和の不安は確信に変わった。
まだ姿を見ずとも分かる。その黒い布の中のモノが。
「…中、確認しないって選択肢もあるよ。どうする?」
冷ややかな波音とは対照的に温かく心配する焔。
日和の心は手に持つ炎の影響か、とても静かで落ち着いていた。
亡くなった父は真っ赤な顔で見られなかった。
顔を見ずにお別れをするのは、本望ではない。
「いえ…おじいちゃんに…祖父に会わせて下さい…」
「日和――…っ」
日和の言葉に玲は声を荒げるが、竜牙は手を出し制止する。
「玲、お前が取り乱してどうする。…金詰日和、この人は体…特に腹部の損傷が激しく、見せられるのは顔のみだ。いいか?」
竜牙は今までに見せた姿とはまるで別人のように、雰囲気も表情も緊張感を漂わせている。
日和はゆっくりと深呼吸をして、竜牙を真っ直ぐに見て頷いた。
それを確認し、竜牙はしゃがみ黒い布の一部をめくった。
どくん、と日和の心臓が跳ね上がる。
目は一気に潤い、一瞬にして視界が塞がれた。
心が、体が、声が震える。
「あ…あぁ…おじ、おじい…ちゃ…!やっ、やっと…み、見つけた…」
安らかとは言えないが、布の中で祖父は確かに眠っていた。
辛い。悲しい。日和の中に生まれた感情はそんなものではなかった。
それとは異質の…
「良かった…ちゃんと、顔…見れて、良かった……」
安堵。
「…!」
玲だけは、心臓のある場所を強く握り、歯を強く食いしばる。
そして日和の隣でその背を擦った。
「……間に合わなくて、ごめん…」
波音と竜牙はその間静かに目配せをして、波音はスマートフォンを取り出すと、何か操作をする。
操作を一時的に終えると、耐えきれなくなった日和は子供のように泣きながら嗚咽していた。
しばらく、公園のベンチで休むことになった。
日和は炎を抱え、抜け殻のように静かに虚空を見つめ、玲はそれに付き添う。
竜牙は気付けば亡くなった祖父と共に姿を消し、波音はちらちらと何か機会を窺っているようだった。
「…ねぇ、そろそろ良い?報告、行きたいのだけど」
「波音!!」
玲は強い剣幕で立ちあがり、波音を睨む。
波音は動じる事なく腕を組む。
「こうしていても仕方ないでしょう?それにヤツはあんたが処理したんでしょう?」
玲の口が一文字になり、噤む。
「…っ」
「兄…さん、私は…大丈夫、だから…」
「ひよ…!……ごめん、ごめん…。日和ちゃんが一番辛い筈なのに…」
いつの間にか、日和は玲の手を取り後ろにいた。
目は虚ろだが、玲をしっかり見ていた。
波音は不機嫌そうにため息を出すと何の迷いもなく背中を向けた。
「行くわよ」