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其ノ一

 江戸時代、和算家の中でも遊歴算家ゆうれきさんかと呼ばれる人々がいた。


 彼らは地方を旅しながら、行く先々で算術を教え、和算人口の裾野を広げることに貢献した。


 関流の山口和やまぐちかず、一関市出身の同門、千葉胤秀ちばたねひでもこの遊歴算家として多くの弟子を抱えていた。



 橘高三十六(きったかそぞろ)と名乗る遊歴算家が、この土地の豪商玉乃屋の屋敷に正月から居着いて、もう半年になる。

 若い手代の算盤の習い初めにと、隠居の二八兵衛(にはちべえ)が屋敷に招いたのだが、二人はすっかり意気投合し、ついには【算遊記さんゆうき】と題した算術書を共作するまでになった。


 普段は離れに居て何をするでもない様子だが、天気のいい日に気が向くと、近くの松の木の下で、尺一寸の軍扇を指し棒代わりに、辻説法の真似事よろしく算術書を並べて算術を指南し、酒代の足しにしている。


 しかし今日の三十六の姿は、いつもの松の木の下ではなく、町外れにある荒れ寺の本堂、赤岩一家の賭場の人いきれの中にあった。

 節介を焼きたがるのは隠居の常なのか、二八兵衛に頼まれ、細工職人の甚六が博奕の形にした簪を取り返しにきたのだった。


 賭場の熱気をよそに、案内を買って出た大工の仁吉を伴って、三十六は代貸の常造と帳場で向かい合っていた。

 暑さに団扇を使う客や、壺振りが事ある毎に手拭いを手にする中、三十六は浅黄の単衣に濃紺の紗を重ね、帯に差した軍扇を使うでもなく涼しい顔だ。


「代貸、俺は筋立てて話しているつもりなんだが」

「ほう。明日返す、金が出来たら返すってぇ素寒貧すかんぴんのたわ言に、何の筋があると仰るんで?」

 常造には譲る気も折れる気も毛頭無い。


「たわ言たあ何でぇ! 元は博奕じゃねえか」

 三十六の後ろから、仁吉が声を上げた。しかし常造の眼光に、慌てて首を引っ込める。


「博奕であれ何であれ、貸した金には違いは無え。金を用意して出直して下せえやし」

「無いとは言ってない。これで勘弁して貰えんか」

 そう言って三十六は指を三本立てて見せた。常造はそれを横目で見て、鼻で嗤った。


「汚えぞ! 甚六の借りは一両一分じゃねえか」

「喧しい! 子供の使いじゃあるめえし、利子が付くのを知らねえ訳は無えだろう。まして賭場の貸しは烏金からすがねだ」


「不足か? 烏金は一割と聞いていたが、一両二分が元なら三日で二両一分三朱と百五十六文。返って釣りが来ると思うが」

 すらすらと答える三十六に、常造が言葉に詰まる。


「え? いやいやいや、この賭場は烏は烏でも三羽烏なんでさぁ! 一両二分の貸しが三割で、今日までに、えー」

 常造も負けじと、帳場の脇にあった算盤を掴む。


「四両三分二朱と百六十二文でござんすよ」

 暑さに瓶の水を飲みに来た壺振りが、通り抜けざまにさらっと言ってのける。

 三十六の顔にも驚きの色が浮かぶ。

 壺振りは気にも止めず、そのまま水瓶に向かう。


「お、おう。清三(せいざ)の言う通り、少しばかり足りない様で。折角ですがお引き取りを」

 白々しい愛想笑いを見せて帳場を立つ常造。

「おい、ちょっと待ちやがれ!」

「しつけぇぞ! 出直して来い」

 捨て台詞を残して奥へと姿を消した。


「仕方ない。ああ、それはそうと清三、もとは清三郎さんあたりか。人は見かけに寄らないと言うが、大したもんだな」

 戻って来た壺振りに三十六が声をかける。清三郎と名前で呼ばれたことで、顔にかすかに動揺が見えた。


「それ程のものではござんせん。もう昔の事で。算盤も路銀の足しにしちまいやした」

 博徒となった今、算術に大した感慨もないというふうに、清三は素っ気なく返事をした。


「何なら足りねえ分、ここで稼いで行っちゃあどうです? 勝負は時の運と言いますぜ」

 壺振りの顔に戻ってそう言うと、清三郎は盆へと戻って行った。


 その先に見える盆の熱狂を漫然と眺めながら、三十六が独り言ちた。

「丁半か、俺はやったことが無いんだが」

「止めておくんなせぇ。木乃伊みいら取りが木乃伊なんて、洒落になりやせんぜ」

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、という事もあるぞ。取り敢えずあの木札を買えばいいのか?」

「旦那! あっしは知りませんぜ」


 仁吉の言葉が終わらないうちに、三十六は一両出してコマ札と替えてしまった。


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