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「誰かいないか! 誰か!」
薄暗いこの空間にルルドの叫び声が響く。どれくらい叫んだだろう。次第に声はかすれていく。誰もいないし、誰も来ない。一向に変わらない状態が続く。
「くそっ!このまま彼が苦しんでいる姿を黙って見ているしかないのか…」
ロディの苦しげな息遣いだけが聞こえる。何も出来ない自分を責めるように冷たい鉄格子を固く握りしめると項垂れながら頭を打ちつけ床にくずれ落ちた。
「妻も連れて行かれた。子供達も守れなかった。ロディも助けられない…。僕はなんて無力なんだ。何も守れなかった…」
座り込んだ冷たい石畳の床がより一層、彼の心を絶望へと引きずり込んでいく。
床にへたり込んだまま、どうする事もできないでいると、突然、何の前触れもなく暗い空間に一筋の光が射した。少し間を置いて硬い石畳の上に足音が響く。
誰かがこちらに向かって歩いてくる。見張りの兵士だろうか。ルルドは瞬時に警戒をする。
騎士の格好をした一人の男がルルドがいる牢の前までくると鉄格子の向こうからこちらを見て話かけてきた。
「遅くなってすまない。大丈夫か!? すぐにここから出す。向かいの彼の治療をお願いしたい」
中性的で綺麗な顔立ちの男だった。少し癖のある長めの髪をしていた。
「ありがとう!これで彼を助けられる」
牢の扉が開いて、すぐに向かいのロディの元に駆け寄る。
ルルドはロディの状態を見ると思わず顔を歪めた。予想以上に酷い状態だった。
破れた服の隙間から見える傷口は膿んでひどく腫れている。そのせいか熱も高いようだ。
驚いた事に布で止血されている部分があった。それも適切な場所にきちんと施されている。
これがあったおかげでここまで生きながらえていられたのだろう。
男は心配そうにルルドの治療の様子を見守っている。
「ナイフをもっていたら貸してください」
「あぁ。これでいいだろうか」
そう言って男が差し出したナイフを受け取るとすぐに状態が酷い患部の上にある衣類を次々と引き裂いていく。切り傷がいくつもあるうえにひどい打撲跡まであった。露わになった傷口に手を当て、意識を集中させるとぼんやりした淡い光が浮かびあがり患部に吸収されていく。ルルドは懸命に手をかざし続ける。額からは汗が流れている。次第に少しずつではあるが患部に変化が起こっていた。膿んでいた場所から次第に腫れが引いていき傷口が少し塞がったのだ。
その様子を見ていた男は興味深げにその光景を見ていたが一度その場から離れて外に出て行く。すぐに戻ると再びルルドの治療を黙って見ていた。
ルルドが手をかざすのを止めると、男はすかさず声をかけた。
「あと、どれくらいかかるだろうか?」
「はい、とりあえず応急処置はしました。完治までにはまだ時間は掛かりますが…」
「良かった。やっと彼に治療を受けさせる事が出来た。彼を動かしても問題ないか? ここから早く脱出しよう」
「まだ油断ができない状態ですがここから出る事が先決だと僕も思います」
「よし、わかった。急いでここを出よう」
そういうと男は血だらけでボロボロになった服を着ているロディに自分の騎士の外套を着せると慎重に彼を担いだ。
階段を上がり薄暗い空間を抜けて明るい場所に出るとそこは森の中だった。
「ここは…どこなんでしょうか…」
ここが何処なのか全く見当がつかない。ついさっき出てきた牢へ続く扉は草や木が覆い隠してしまって、すっかり見えなくなっていた。
「大丈夫、場所は把握しているから。王都まで少し距離がある場所だ。それにしてもこんな場所に地下牢なんか作りやがって…。これじゃぁ居場所なんて分かる訳がない」
男は綺麗な顔をゆがめながら吐き捨てるように独り言を言っていた。
「あの…!僕の子供達が連れて行かれたんです。どうか助けてください!」
「それなら大丈夫だ。別で動いている仲間が無事に確保している」
「本当ですか!?じゃぁ子供達は無事なんですね!」
「あぁ、大丈夫だ。今頃はロレイン様がいる離宮にむかっているはずだから。俺達も行こう。そこで会えるはずだから」
「ありがとうございます! あの…。私はルルドと申します。治療師をしている者です。あなたは?」
「あぁ。申し遅れてすまない。俺はノアといいます。王宮で騎士をしている。かしこまった話し方は苦手だから普通に話してほしい」
「はい…。あっ。じゃぁ普通に話します。なぜ僕達があの場所にいる事が分かったの?」
「あぁ。俺の上司の指示でここに来たんだ。さぁ、とりあえず、ここはまだ危険だ。先を急ごう」
そういうと険しい藪の中をかき分けながら歩いていく。
しばらく歩くと前方に小さな小屋が見えた。
「ノアさん、彼の容態が少し心配なんだ。あそこで少し休みをとってもいいかな」
「わかった。少し休もう。それに、俺の事は呼び捨てでいいよ。さんづけで呼ばれるのはどうも慣れない。俺の相棒なんか俺よりずっと年下なのにいつもお前とか、おい、とか呼ぶんだよ。まったく可愛げがない奴なんだ」
ルルドは、そういって軽口をたたくノアを見ていると、さっきまで張りつめていた感情が少し和いでいくのを感じた。
小屋に着くとノアが中の様子を慎重に確認する。どうやらすでに使われていない小屋のようで部屋の中はガランとしていて何も無かった。
ノアがゆっくりとロディを床に横たえるとルルドは再び彼の治療を始めた。
突然外で物音が聞こえた。ノアは一瞬険しい顔をして急に立ち上がった。
「少し辺りの様子を見てくる。護身用に剣を置いていくから。すぐに戻るよ」
そういってノアは自身の剣帯から剣を抜くとルルドに渡して小屋を出て行った。
ノアが出て行くと、ルルドはまたすぐにロディの治療に専念した。全体にいくつもあった傷はほとんど塞がって腫れも引いた。後はロディの体力にかかっている。少しでも早くロディの体力が回復するように、ルルドは休む事なくロディに力を注ぎ続けた。
治療もひと段落してふと気が付く。あれからノアが戻ってきていない。集中していて今までまったく気が付かなかった。
どうしようか思案していると小屋の外から複数の慌しい足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。すぐに辺りを見て隠れられる所を探すが見つからない。そうしているうちに小屋のドアが乱暴に開いて兵士の格好をした男達が次々と乱入してきた。
「やっと見つけたぞ!こんな場所にいたのか!」
突然の事で判断が追い付かない。
ルルドは腕を掴まれて縄をかけられようとしていた。
治療で力を使ってしまったので抵抗するだけの余力がなかった。
「離せ!何をするんだ!」
そういうと別の兵士が無情にも横たわっているロディも捕まえようと彼に近づいていく。
「おい!彼は重症を負っているんだ!気安く触れるな!」
ルルドの言葉は兵士達に聞きいれられる事はなかった。
「ロディさん…。すまない。戦闘能力がない僕を許してくれ…」
これまでか!とおもったその時だった。
突然ロディが兵士の手を振りのけて立ちあがった。
手にはノアが置いていった剣を下げている。
今までピクリともしないで横たわっていた人間が突然動き出した事で兵士達も驚きで止まっている。
その剣を掲げて構えると、あっという間にルルドに掴み掛かっていた兵士を一人倒してしまった。
「あっ?えっ…?ロディさん?」
ルルドはあまりの驚きに目を見開いて唖然としていた。騎士の外套を羽織っている彼は本物の騎士のように見える。
「ルルドさん、ありがとう。もう大丈夫です。心配かけました。あっその顔…。驚きましたか? 私、長い間あの騎士団の屋敷にいるので剣の心得もあるんですよ。あの時は丸腰だったので副団長にやられてしまいましたが。さぁ、ここから反撃といきますよ!」
ロディはルルドに微笑むとすぐに兵士達に向き直って剣を構えた。