咖喱と珈琲
スパイスの香りで目覚める。9時間くらい寝ただろうか。テーブルの上には多量の氷の入ったコップとティーポットが目に入る。すぐにコップに注ぎ、それに 口をつける。広がる清涼感。ミントティーだ。氷はあまり溶けておらず、起きる時間を予想してサーブされた、ということが推測される。有難い。
ところで、この空間が停止していることは前にも述べたが、氷は溶けるし、料理は温かい。ただ天気は確認できないし、今住んでいる誰かの城のような空間から、多少は外に出ることも出来るが、それ以降は存在しない。「遠く」が欠如しているのである。
一つのゲームソフトがあったとしよう。その中の住人は将来が決定しているように思われるが、それはあくまでゲームのプレイヤー側の考え方である。本人達の自由意思とは関係無く行動をしているわけではない。
確かに意思が介在しているのだ。このゲームに何かの要因でバグが起こり、停止しているならば、将来が決定することはなく自身の性格や経験を通して今後をゲームメイクできる。摂理、換言すると世界に存在する計算式は適用されない。
私はこのように捉えている。もとより、前いた世界もリアリティかどうかは分からない。
以前は現実であったかと問われても、はい、そうだとは首肯しかねる。この世界に失礼だ。
「お目覚めですか。」
「おはよう。今日の昼は咖喱か。」
「嬉しそうですね。身支度したら食べましょう。」
表情に表れているのだろう。咖喱好きだもの。
* * *
何処かへ行く予定などないが身支度を済ませ、良い匂いの方向へと足を運ぶ。
咖喱は法律に似ている。何を重視するかによって様々な種類へと変容する。ある者の嗜好だけでなく、環境や宗教も影響する。辛味を重視するかコクを重視するか等色々と悩ましい限りであるが、どれも美味である。野菜、肉、そしてスパイスの選択の幅は広い。
北インド、南インド、欧風、タイ、日本・・・エトセトラ。取捨選択をして、完成させる。何を優先すべきか。私に美味い咖喱は作れるだろうか。
椅子に腰掛ける。
「どうぞ、召し上がれ。あ、水持ってきますね。」
ユアはいそいそと水を取りにキッチンへと戻った。
皿に綺麗に盛られた白米。そして、ソースポットの中には、香辛料の香り漂う、とろみのある咖喱。大きな牛肉がごろごろしている。何とも美味しそうである。灰色がかった世界であるのがとても惜しい。
「はいっ!水!」
ぜーぜーとユアは息を切らせて戻ってきた。そんなに焦らずとも良いのに。温かいものは温かいうちに。彼女のポリシーであろう。ワイングラスにボトルから水が注がれる。
「どうもどうも。いただきます。」
ソースポットからひと掬い。ライスにかけて、かかった部分をスプーンで掬う。口に運ぶ。バターの濃厚さとピリリと効いたスパイスが調和した素晴らしい逸品である。肉はとても柔らかく良く煮込んであることがわかる。繊維がほどけるほどに。歯触りが心地よい。
「美味しい。本当に。」
「言わなくとも、わかっております。」
「顔にそう描いてあります。」
すこし恥ずかしく思えた。何でもお見通しか。
だが、その一方で私も彼女について知っていることがある。この咖喱、早起きして作っていたのだろう。なんとも眠そうな表情をしている。
「お疲れ様でしたユアさん。」
「そこはご馳走さまですよね!?」
短い言葉のやりとりで感謝の意は重々に伝わった。
* * *
食後のアイスコーヒーは何故こんなにも美味いのだろう。自室に戻り、また思考を再開する。
実のところ、最近まで法の規律に関しての進捗はあまり良くなかった。実効性のある行動については、何もスタートしていないとさえいえる。常に全体の構想は考えてはいるものの、何にから手をつけて良いものかわからなかったのだ。この世界に来た際に貰った知識を振り返ったり、文献を漁ることに注力していた日々が続いた。どれくらい経ったのかはわからないが。
ある程度ならば筋道を立てて行動計画を実行するための理論は必要であるが、抽象的な概念の中で議論を続けても結局スタートに踏み切らなければ、自身の能力は評価される術はないというもの。感情が先行する行動は好きではないが、自主決定権を持つのは文字通り自主であるのだから、最終決定のための感情の昂りはなければならないということになる。
ジャケットのポケットから煙草を取り出し、口に咥え、火を着ける。一服。煙草は嫌いかい?私は好きだ。安息を簡易だが手に入れられる。どうも思考、理論が先行して行動を阻害してしまう。私にとっては生活必需品だ。
・・・話を戻そう。
そろそろ、実際に法規を創ろうと思う。あれこれ考えてきたが、自分の考えを肯定してくれる事象が何個も何個も欲しかったから踏み出せずにいたのだろう。そんなものは変化のない世界では起こり得ない。それでも、些細なものでもきっかけを待望していたのか、私は。
案外、今日の咖喱が後押ししてくれたかもしれない。試行錯誤の後、レシピが完成していても、作らなければ確かめられないのは同じであることに気づかされた。法律をつくるために呼ばれたという事実、つくらなければという意識に傾倒し過ぎてしまい、未だに何も生み出せていなかった。使命はあれども、強制が無かったからだ。慫慂すらない。
日常を打破するには行動しかない。
やるべきことは分かっている。
構想を具現化する。潜在から顕在へ。
「やはり自分の居た場所を前提にすることになるな。
それで良いのかはわからない。それでも創ろう・・・。」
ボソッとした独り言。弱々しくも、強い決意が確かに感じられた。家で食べていた咖喱を再現するのだ。それが一番美味いことを知っているのならば。それでいい。
「・・・創りましょう。これから。あなたが考えた秩序を。」
ユアはアイスコーヒーのおかわりを勢いよく差し出してきた。ユア、いたのか。いや、また私が気がつかなかっただけか・・・。アイスコーヒーを受け取り、よろしく頼むよ、と私は言った。
私の命が尽きるまでに行き渡った法整備の実現など不可能なことは重々承知。膨大すぎるからだ。ならばカットする。削ぎ落とす。自分のcapacityを熟知してカットする。残った部分だけはせめて自身の仕事を全うしようじゃないか。
この世界の将来を考えてだした答えだ。神がいるならば、私の積極的な逃避行動に如何なお考えを持つだろうか。怒るだろうか。嘲笑うだろうか。
立法者として責任を持って、出来る範囲で行動をする。何故ならば、私は人間だからだ。異世界に来たものの、神懸かりな能力は持ち合わせていない。
「チート能力・・・。欲しかったなあ。」