#6 hypnos
★
「わたくしですか? わたくしのことはどうかお気軽に――」
★
一瞬の暗転の後、男は立っている自分の体を知覚した。続いて足元、露出した土肌を踏みしめる感覚。見渡すと灌木と常緑樹が一定の間隔で並んでいる。
野外だが、区切られた空間だった。前後二方向が長く続く壁に囲まれている。正面。木材が多めに使われた建築だ。見上げるほど高い――城だった。
見覚えがある。
祖国、尊敬する王ウーが暮らす城。
しかし、スーチェン城の背後にそびえる建造物が、ここがスーチェンではないことを物語っている。同じ規模の城が二つ、左右の陰から頭を出していた。
まず間違いなく、イスカガン皇宮だ。ということは、背後方向、左右に見渡す限り続いている壁は皇都の誇る大図書館ということになる。
一体どうしてこんなところへ、と一瞬呆けて、すぐに本来の目的を思い出した。自分はイスカガン皇宮へ、勇者王イョン――すなわち現スーチェン王を打ち倒しにやって来たのだ。敷地内への侵入は無事に成功し、そして、そしてどうしたのだったか。
首を捻るが、些末なことだと思い直す。勇者王イョンさえ見つけられればそれで良い。本人には当然会ったことがないが、少なからず武の国スーチェンの王だ、気配で見つかるだろう、と神経を研ぎ澄ませる。――そうだ、先程も神経を研ぎ澄まそうと思って立ち眩んだのであった、か? やはり緊張はある。良い緊張だ。抜群に調子が良い。
男は、自分に言い聞かせ、意識を集中させる。強い気配が複数。さすがは大陸を統一した超大国家の首城だけあって相当なまでの練度だ。皇宮の中央付近に多く集まっている反応は、あれが大戦時スーチェン軍をものともせずに破ったと噂に名高いアレクサンダリア騎士団だろうか。
当然用はない。気付かれないよう細心の注意を払いつつ、男は歩を進めた。
最も近くの気配。
すぐ目の前、恐らく道場と思われる建物から気配が四つ。うち二つは、激しく交錯しては距離を取り、距離を取っては交錯しを繰り返している。
中にいる者たちから気付かれない、という条件で、外から中の様子を伺える場所は一見するだにどうやらないようだった。
あまりにも大きく開きすぎているか、まったく窓すらないかのどちらかだ。採光用の窓は必要がない。建物の一角はその大部分が取り払われ、縁側じみた構造になっていた。これだけ開いて居れば、わざわざ採光用の窓など開ける必要もない。
扉についた装飾格子のごくわずかな隙間から、中を垣間見る。
最初、やはり不十分な大きさの隙間なものだから、中が見えないのだと思った。
だが、違った。
目が在った。そして、目が合ったのだ。
何者かが、内側からこちらを覗き込んでいる。そのことに気付いた時、男は尻餅をついた。思わず出掛けた悲鳴はなんとか噛み殺したが、腰は抜けた。咄嗟に立ち上がることができない。
扉が開く――と同時、横合いから声が来る。
女の声だ。
「ごきげんよう、気分はいかがですか?」
扉が開き切った。
横に滑らせる扉の枠の向こう、あったのは土の地面、青い空と緑の木々を背景に、腰を抜かしてこちらを見ている男の姿だった。男自身の姿だ。ちょうど扉を中心にして、まるで鏡合わせである。
くすくす、という笑い声に視線を上げる。視界の端で、正面に居る自分も同じ方向に顔を向けたのが見えた。
「だ、誰だ!」
完全なる異常事態。今更声を出すことを忌避しても意味なぞないだろう。声はすれども姿は見えず、女の笑う辺りに向いて問いを叫ぶ。
「わたくしですか? わたくしのことはどうかお気軽に――」
言いつつ、女が壁をすり抜けて姿を現した。
まるでそこに物質など存在しないかのように、一切壁を無視した動きだ。黒い肌と白銀の髪、眼鏡の奥にある瞳は青。ずれてもいない眼鏡の蔓を押し上げ、彼女は地に足を付けた。
「――ブラボーと。そうお呼びくださいませ」
爆発。
あるいは、爆発的な勢いで。眼前、着崩したスーツを内側から突き破って何かが飛び出した。木の枝にも何かの足にでも見える無数のそれが、直前の少女の体積を限界まで無視して延々と延び続ける。やがて空を覆い地を埋め尽くすくらいにまで触手が世界を侵食した時、膨張は唐突に終わった。
そして何か言ったが、告げられた言葉の一文字一文字が、男の脳の皺を逆撫でて破壊し、男は言葉の意味を理解する前に気を失った。
★
一瞬の暗転の後、男は立っている自分の体を知覚した。足元に地面。見渡すと一定間隔の灌木と常緑樹。
野外――区切られた空間だ。正面には木材が多めに使われた、見上げるほど高い城。
見覚えがある。スーチェン城だ。
しかし、背後にそびえる建造物が、ここがスーチェンではないことを物語っている。
まず間違いなく、イスカガン皇宮だ。
一体どうしてこんなところへ、と一瞬呆けて、すぐに本来の目的を思い出した。自分はイスカガン皇宮へ、勇者王イョン――すなわち現スーチェン王を打ち倒しにやって来たのだ。敷地内への侵入は無事に成功し、そして、そしてどうしたのだったか。
首を捻るが、些末なことだと思い直す。
男は気配を頼りに、再び道場の方へと歩を進める。
★
イスマーアルアッドと勇者の交錯が幾百と連続し、さすがに武人で非ざる身ではこの一進一退の膠着状態を見るに飽き始めていたヘイズトーポリは、そうであるがゆえに生まれた一瞬の隙間に、ふと隣に居たはずのアンクスコ全権代理が姿を消したのに気が付いた。
何の脈絡もなく、突然に。足を運んだ、しゃがんだ、あるいは飛んだなどといった一切の動作なしで、こちらの視界から消えたのだ。おかしく思い、目を擦ってもう一度見やるがやはり見間違いではない。
いない。
一瞬前まで確かにブラボーがいた場所に一人分の道場の熱気を挟んで、視線の先にはシンバ老王ベルナルドが目を細めて皇位決定戦を眺めている。あまり集中している風ではなかったが、視線だけは熱心に消えては現れ消えては現れと繰り返す二人の剣戟を眺めているので声を掛けるのは憚られた。
老王はブラボーが消えたことに気が付いていない。あるいは気が付いていて無視しているという可能性もある――アンクスコ全権代理の前にブラボーはベルナルドの秘書だ、なんらかの用事を言いつけたのかもしれない。勇者が姿を消すのだから、ブラボーが姿を消すのも実現可能か不可能かで言えばまあ可能だろう。であればこの二人も、独自に《魔法》についての研究を進めている、という自分の仮説は正しかったことになる。
そもそも、八王のうちの何人かあるいはほとんど全員が《魔法》について気付いている可能性は非常に高いだろう、というのがヘイズトーポリの公算だった。八王の中でも特に、シンバ老王とアンクスコ女王は確実にそうだと思う。ヤハンの女王――元女王と言うべきか――も、恐らく気付いていたに違いない。
自分が《魔法》の存在に気付けたのは、自領の地下に《魔法》とも呼べる代物が存在しているのでなければあり得ない物が埋まっていたからだ。ノーヴァノーマニーズ城地下空間の魔法灯などである。
似たようなものが他領にないとどうして言えようか。
であれば他の八王も存在に気付いていた可能性がある、と結論付けるのが自然だ。少なくとも、会って話し、ベルナルドとブラボーは《魔法》について当然知っているだろうと直感的に判断した次第であり、先程ブラボーが《魔法》でないと説明できない方法で姿を消したので、その疑念は確信へと変わった。
ヤハン女王については根拠はなく、単にそのような気がする、というに止まるが、ノーヴァノーマニーズ城に引きこもっていても聞こえてくるスーチェンのウー王を女の身で倒したとあらば、まず間違いなく《魔法》だろう。少なくとも一対一で倒したとあらば。
……こちらは、あくまで想像の域を出ないであるが。
意識を思索の海から引き上げると、また真隣に着崩したスーツの姿があった。浅黒い肌、黒い髪、軽く握った右拳の甲でずれてもいないのに蔓を押し上げ、その奥の青い瞳をしばたたかせる。
見ていたことに気付いたのか、こちらを見て不思議そうな顔を一瞬浮かべた後、にっこり笑みを送ってくる。右手の人差し指を立て、唇の前に。ヘイズトーポリがしかつめらしく頷いて見せると、人差し指は倒され、イスマーアルアッドと勇者の方へと向けられた。
それに合わせて視線を送ると、道場の床に背中を付けた勇者を足で踏みつけ、直上から剣を突き付けたイスマーアルアッドの姿が目に入った。
両手を肩の高さまで挙げた勇者が言う。
「……降参します」
「――勝負あり!」すかさずベルナルドが宣言した。「良い勝負でしたな!」
★
砂糖でも吐きそうな顔でアイシャとマリストアが退室した後、部屋にはトォルとミョルニが二人で居た。
廊下まで行くと、通りがかった下女に捕まえて人払いを頼み、部屋とつながる面の障子をすべて閉め切ってしまう。下女は微妙に頬を染めながら走り去ったが、
……アレ完全に勘違いされてるよね……?
今は少なくとも、そういうことをするつもりで二人きりの空間を作ったわけではない。
「いや違うんだ、違うんだよミョルニ、……ねえ、違うんだってば」
「何が違うのですかトォル様、男女が二人きりの密室ですることなど知れております」
畳の上に敷いた布団の上で足を横に崩して座り、妙なしなを作ってミョルニがこちらに流し目を寄越す。トォルは頭を掻き、隣に座った。押し倒されそうになったので両手を体の後ろに突っ張り、倒されないようにする。
「む。どうして邪魔するのですか」
「いやその、昼日中からそういうことをするのはちょっとどうかなというか、そうじゃなくてさ」
「力はわたくしの方が強いのですよ、それでも抵抗するということは今日はそういう感じでということですか」
「あのすいません! ミョルニさんミョルニさん、一旦落ち着いていただけやしませんでしょうか!?」
唇を尖らせつつも、こちらの両肩から手を離して正座の膝の上に揃える。なんとなくこちらも姿勢を正し、お互い正座で向かい合う形になった。
「ミョルニはさ、僕の左腕も喰らったわけでしょう」
「はい。いただきました」
「今の僕とミョルニが何をできて、どこまで制限があるのか調べようと思うんだけど、ちょっと協力してくれないかな」
「わかりました――」やけに物分かりが良いが、ひとまず力強い首肯が返って来てほっとした矢先、「――体位の話ですね?」
そんなことだろうと思った、と半目を送るもミョルニはどこ吹く風だ。
「……先にしたら、話聞いてくれる?」
「ええ、もちろんです」
……ああ。
★
司書は医務室へ搬送された。
ニールニーマニーズも同じ部屋へついて行ったが、彼はものの数分で目を覚まし、怪我などは軽いものも含めてなさそうだった。木の触手に拘束されはしたものの、打撲や切り傷、擦り傷などもない。本当に木の触手など、と自分が木の《魔法》の操り手でなければ白昼夢を疑うようなところだ。
二、三質問してみるも、アルファとイルフィが本棚の前で何か本を探している風だったので声を掛けた、そうすると本棚や手摺から木のねじくれたようなものが伸びてきて、自分の体を絡めとった、という返答があるのみだった。被害者本人でも詳しいことは良くわからなかったらしい。
下手人は誰で、いったいなぜこのようなことを?
自分でないことは自分が最もよくわかる。同様に、目の前に居るこの男がそうではないことも、恐らく間違いない。痕跡がないからだ。質疑応答の授受を繰り返しながらも、具に司書の様子については観察したつもりである。
お大事に、と言い残してニールニーマニーズは医務室の扉を閉める。
「大丈夫そうだったよ。特に怪我もないみたいだった」
言うと、扉の前で並んでいた二つの顔に安堵が浮かぶ。
多くで押し掛けても司書に迷惑だろうと、アルファとイルフィは外で待たせてあったのだ。もちろん方便であることは言うまでもないが、司書のことをもっと調べたかったのである。結果は白、ほぼ十割近く、司書はただの司書で一般人だった。今回の件では完全にただの可哀想な被害者だ。ゆっくり休んでくれ。
「それじゃ、戻ろうか。ヴルトゥーム探しに」
「いえ、その……言いづらいのだけれど」「なんだかとっても疲れてしまったのだわ」
……それもそうか。
異常な状態に巻き込まれ、医者を呼びに走った。さらにはつい最近まで人見知りを拗らせていたような双子の妹である。無理は良くないだろう。
明らかに自分のせいで巻き込んでしまった感が否めないので、罪滅ぼし代わりに次回ヴルトゥーム検索にも付き合おう、と脳内で覚え書きしておく。
「部屋まで戻れるかい? 送ろうか」
「いいえ、大丈夫よ」「ありがとうニーニー、また頼むわね」
「いいとも、任せてくれ給え。お大事にね」
そうして双子の背中を見送る。
二人がすっかり見えなくなると、ニールニーマニーズは踵を返した。
司書事件でついついうっかりしていたが、勇者を狙う刺客を一人気付かずに潜り込ませてしまったようなのである。場所はほど近い。す、と目を細め、音を頼りに侵入者の元へと歩を進めていく。
道場のすぐ傍だった。
それは、短く刈り込まれた下草の上で、赤ん坊のように蠢いていた。
しわくちゃになった老人が、白髪を振り乱しながら、草むらを転がっている。かと思えばぴたりと動きを止め、またしばらくしてから白髪を振り乱し、という風に繰り返す。
全身至る所に刻まれた皺からは、それが多すぎるせいで、年齢を読み取れない。ただ、物凄く年を召しているということだけは一目瞭然だ。
振り回される髪は細く白く、そして薄くなっているが、その中には何本か焦げ茶色が混じっていた。
偶然騎士の誰かが通りがかりでもしたのだろうか。少なくとも入城許可証を持たぬ、招かれざる者であることには間違いがない。どうやってか恐らく騎士の仕業で意識を失っているようだが、自分の仕事が減ったと思えばそれまでだ。ニールニーマニーズが右足を踏むと、地面から生えた木が老人を飲み込み、地下に幽閉する。
周囲に誰かがいるような気配は感じられない。もし騎士がこの老人を打ち倒したとして放置しておく理由はわからないが、自分としては刺客――これは断定できる――を誰にも目撃されず処理できたのなら一旦はそれで良い。
わざわざ耳を澄まさずとも、すぐ傍にある道場からはまだ、澄んだ金属同士の擦過音や鈍い衝突音が聞こえてくる。勇者はイスマーアルアッドと決闘を続けているのだ。
一瞬とはいえ気を許している間に刺客の侵入を許してしまったことを恥じつつ、ニールニーマニーズは周囲にまだ不審者がおらぬか見回ることにして、道場に背を向ける。
「なんだこれ、毛……?」
すると、先程老人が転がっていた近辺に、長い黒の毛が幾十房もの束になって落ちていることに気が付いた。しゃがんで拾い上げてみるも、何の変哲もない、人の毛である。長さから見て頭髪であることは間違いない。一本やそこらではなく、何十本も何百本も落ちているとなってはいささか気持ち悪いが、誰か此処で髪でも切ったのだろうか。
ニールニーマニーズは髪を宙に捨てると、念の為もう一度周囲誰も自分を見ている者が居ないことを確認してから木を生やし、道場を背にして腰掛けた。ついでに丁度この瞬間やって来た無許可の入場者を捕縛する。
……やっぱり、司書が捕まったのと同じ《魔法》だよね?
自分の尻の下、意のまま自在に操ることの出来る木を感じつつ、司書を襲った木の触手に思いを馳せる。
退場しちゃったので暗殺者の男氏のお名前発表します。「チンクー」です。多分二度と出ません。