#38 荒野の激戦
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衝突によって生じる衝撃が肌を焦がす。
――打突音の交錯。
一つ、二つ、と数を増すごとにその感覚は縮まっていき、やがて連続する一つの音となった。
大荒野。大陸西部に広がる不毛の地。遮蔽物のないひたすらの平地を、二つの影が連鎖し続ける。
「っ!」
片や長い黒髪を頭の高いところに結んだ女。裂帛の気合と共に振り下ろされる直剣が、吹きすさぶ土煙を割断する。
応じるは軽装の男。先程から切り結ぶ音ではなく打撃の音が響き続けているのは、この男が徒手空拳であり、かつ女の振るう剣の腹を叩いて避け続けているからだった。
徒手空拳。
得物を持っていない。
確かに男は無手だが、その右腕は十分に兵装と呼べる代物だ。
戦闘が始まった瞬間から、男は、右腕――右の肩から指先のみを用いて、大陸に名立たる武闘姫の剣舞をいなし続けているのである。
手加減している、というわけではなかった。女が直剣を振るうように、男は武器として、あるいは防具として、己の右腕を駆使しているのだ。しかし傍目から見ると片手で翻弄されている女剣士の図にしか見えず、当の本人も、苛立ちを募らせているところらしかった。
「全力を、出す気がっ! ない、のか!?」
「姉ちゃんには! これが、全力じゃないように、見えるのかっ!?」
「――――っ!」
男――トォルは、かなり限界に近づいていた。正直さっさと両手を挙げて、こんな無意味な戦いなど終わらせたいくらいだった。しかし、今ここで降参を口にしても、女――メイフォンは納得しないだろう。こちらが全力でぶつかっているにもかかわらず、確かに使っているのは右腕だけなのだ。足捌きすら追いつかない時が稀にある。
そもそも、トォルが片腕しか使わないのには理由がある。右腕とはすなわち、ミョルニのことだ。並大抵の刃は通さないが、他の部位はそうもいかない。実際のところ、メイフォンが振るう一撃必殺の刃がかすりでもしたら、人の身ではとても軽傷では済まないのだ。
ゆえに、こちらとしても必死である。自分はまだ死ぬ気はない。
左手を出すか、という考えが脳裏をよぎる。腕の一本でもくれてやれば、姉も満足するだろうか。蜥蜴の尻尾ではないが、右腕の時みたいにまた生えたりしないだろうか、駄目か。
「どうしたら! 満足してくれるのさ!」
「貴様のそっ首跳ね落した時、その時こそ、私は満足するだろうな!」
「殺す気か!?」
「殺す気でやれと――指導されているのでな!」
眼前のメイフォンが掻き消えた。さらに加速したのだ、と気づいた時には、左から薙ぎ払われていた小太刀を右腕が弾いた後だった。得物の持ち替え――様子見は終わりと、そういうことだろうか。
「い、ったいな!」
熱が通り抜けた。弾いたと思ったはずの小太刀は一撃目で、それと軌跡をまるっきり同じくする形で追撃のナイフが来た。左肘の辺りが裂けて血が噴き出すが、小太刀の弾きで体勢を崩していなければ本当に左腕ごと持っていかれていたであろう一撃だった。
すでに視認ができない速度で敵は切りかかって来ている。
これはやられるのも時間の問題かもしれないな、と思いながら、トォルは、理想的な敗れ方を脳内で構築し始めていた。
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大王との会議が行われた翌々朝、イスマーアルアッド達はイスカガンへ向けて出発した。来た時同様、国の一番端にある関所代わりの場所で簡単に手続きを済ませて外へ。
鼠返しの隙間を順当に抜けて、大荒野へ差し掛かった時、馬車が止まった。
往路と違って一つ増えた馬車の中には、ノーヴァノーマニーズの大王とトォルが乗っている。
二日前、夜の席で交わした約束――すなわちメイフォンとトォルの手合わせが行われることになっているからだ。
ちなみに大王は物見遊山で同伴している。
「全力を出せ」
メイフォンが言った。傍らには、昨日街で蒐集してきた武具類が納められた筒状の容器が置いてある。
「姉ちゃんあの、本気でやるの? 今からでもなくなったり……しないですよね、すみません」
「参ったと思った方の負け――それ以外は無制限である。存分に振るい給え。おいトォル、貴様勝てよ、いいであるな」
「ちょっと待って、審判がなんか圧掛けてくるんですけど」
「構わん」
「それでは両者構えて――始め!」
まずはメイフォンが一歩を踏んだ。片手に直剣を携えて。
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攻防は一方向のまま推移していった。
攻め手がメイフォン。守り手がトォルだ。トォルの方が防戦一方になっているように見え、かつ実際その通りなのだが、両腕、時には全身の攻撃を、武器打撃織り交ぜ繰り出し続けているメイフォンが、傍目にはわずか右腕一本で遊ばれているように見える。
トォルの立ち位置はほとんど変わらないながらも、次第にじりじりと後退していった。それをメイフォンが追いかけ――否、追いかけ、追い付き、追い抜き、追い回し、追い払い、追い縋り、置いて行き、そして再び追いかけていく。トォルが一歩分移動するごとに、メイフォンはその十倍も百倍も踏んでいた。威力の嵐。守り手を中心にした円が、球が、攻め手の軌道により形成されていく。
アイシャの目では、兄の右腕以外しか追うことができなかった。メイフォンと右腕は、動きが速すぎて見えない。断続的に響く大雨のような音が聞こえるのみだった。
マリストアの目は、辛うじて兄の右腕を追っていた。メイフォンの得物と衝突する瞬間だけ、メイフォンと、右腕が見える。まるで瞬間移動でもしているかのように、兄の得物は移動した。
全ての動きを追っている大王やイスマーアルアッドの視界では、一秒のうちにメイフォンが大小上下左右合わせて十発もの攻撃を仕掛け、トォルがそれらを右腕と身の躱しだけで避けていることが分かっていた。次第にメイフォンが苛ついているということも分かったが、しかし技のキレに一切の鈍りがないことは、さすがは武闘姫などとあだ名されるだけはあるということか――冷静さは一切欠いていない。牽制としての大振りはあるが、本命はすべて小さく鋭い攻撃にまとまっている。動きは円に近く、極力まで無駄をなくした動きは際限なくその速度を増した。
左から右へ、体を回す。右腕で振るった小太刀はトォルの振るった右腕が弾いたが、同じ軌道で追った左腕のナイフがトォルの左肘を浅く裂いた。初撃の小太刀が弾かれた際にやや体勢を崩していなければ、恐らく左の下腕部は宙を舞っていただろう。
と。
メイフォンはさらに体を回した。
円運動のさなか、身構える弟に至近距離で右踵を落とすも小さな一歩で紙一重で回避される。
イスマーアルアッドと大王のみが見守る中、メイフォンの上半身が開いていく。本命は右の肘鉄――否、裏拳だろうか。強烈に突き込んだ右足が体を固定し、円運動のすべてをトォルの顔面に集約させようとしている――ように見えた。
「当たらないよ」
トォルが言った。
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右の裏拳。滅茶苦茶な姿勢から繰り出されているが、威力は馬鹿にならない。こんなものをまともに喰らえば、骨が折れるどころの騒ぎではないだろう。捥げる。該当箇所の筋肉、脂肪、骨が捥げ、荒野に転がることになる。
しかし、トォルはこの右の裏拳は当たらないということを確信していた。今まで幾合となく打ち込まれてきて、姉の今の体格での射程距離はよくわかっているのだ。
紙一重、どころではない。メイフォンの腕の長さ一本分くらい、距離が足りていない。如何に姉と言えども、無理な円軌道で距離を見誤ったかと、裏拳への意識を切り、その次の攻撃への間隔を研ぎ澄ませる。来るのは左の水平蹴りか、あるいは――
「っ!」
その時、時が止まった。
否、止まったのはメイフォンの体だった。
荒野に突き差した右足の膝を曲げ、やや沈んだメイフォンの体は半身に開かれており、円軌道を描いていたはずの左足はその軌道を止めていた。
右腕はこちらの顔面に垂直に伸ばされ、左手がその腕を支えている。
メイフォンの背後で、放り捨てられた小太刀とナイフが荒野に落ちる音がした。
その一瞬の八分の一程後に、耳を劈くような大音声が、荒野をけたたましく通り抜けていった。ようやく追いついたアイシャとマリストアが、小さく悲鳴をあげる。
トォルはメイフォンの右掌の中に小さな黒鉄の塊が握られていることに、その塊から円錐形の尖端を持った金属塊が飛び出して来るまで気付けなかった。
螺旋状に空気を搔き乱しながら、銃弾が迫る。
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天井に大きく開けられた天窓からは、青い月の光が差し込んでいた。
「トォル様、その、改めてこういうことを、となるとやはり恥ずかしく感じるものであるとわたくしは証言いたします」
「あとは表情さえ変われば完璧だね、ミョルニ」
「もしかして言ったら変わると思っていませんかと疑問致します」
「まあ会話できるようになったし、多少は」
返事代わりに、首筋に湿った感触が来た。
「いっ」
て、という言葉は発声しなかった。小さな牙が左の鎖骨に突き立つ。ぎりぎりと骨が軋んだ。本気で噛まれれば鎖骨程度余裕で噛み砕かれてしまうはずなので、これでも加減はしてくれている方だ。
トォルは、ミョルニの背中に回していた左手を彼女の後頭部に移動させた。銀色の髪束を掻き分け、耳の裏辺りをくすぐる。
すると鎖骨に噛みついていた口が少し緩み、離れた。唾液が一筋滴って落ちる。くっきりと歯形が付いていることは、もはや見ずともわかっていた。犬歯が突き立っていた部分の八つ――上下で四つずつ――、赤い点ができているだろう。
「ねえミョルニ、もう一回」
「駄目ですよトォル様、明日に支障が出てしまうと判断いたします」
「じゃあもう噛ませてあげない」
言うと、ぐ、ともぬ、ともつかぬ唸り声みたいなものを発しながら、ミョルニは黙り込んだ。もちろん表情の変化こそないが、煩悶していることはわかる。
トォルはミョルニの頭を一度撫で、その指先を下へ、下へと動かしていった。仰向けに寝ているこちらに、抱き合う形の俯うつ伏せで乗っているミョルニの腰あたりまで進んで止めるが、敏感な場所を触るたびに、ミョルニの体がびくんと小刻みな動きを寄越した。触れ合う胸から鼓動の高鳴りが伝わってくる。流暢に言葉を話すようになって以降、ミョルニの体は少しだけ成長したようだった。未成熟な花の蕾から、まだ青い果実程度の進歩だが、一息で一足飛びな著しい進歩である。
言葉を得たことで、進行に駆け引きができるようになった、とトォルは思う。一方的なそれより遥かに良い。左手が尻に差し掛かったところで、ミョルニの両腕がこちらの首を抱き寄せた。
そのまま左耳に向かって、囁くような声で、
「――トォル様が望むのなら、御意のままに」
僕に言われたからそうするの、と、もう少し意地悪したくなったが、可愛かったので保留した。
ノーヴァノーマニーズ大王城の壁は厚い。防火用、防音用その他、隣の部屋で行われている実験のありとあらゆる影響を受けずに実験をするための作りであり、これは客室であっても例に漏れない。
そのため、相当声を出しても、絶対に隣に聞こえる心配はない。
……燃えた。
何しろ話せるようになった。対話は大事。どんな場面においても大事だが、こういう場面においてこそ最も重要であるとトォルは思う。別に今までのミョルニに文句があるわけではないけどね。
互いに息を弾ませつつの腕枕、その中でミョルニがこちらの胴に両腕を回してきた。こちらも肘を曲げて、ミョルニの頭を胸に抱き寄せるようにするが、しばらく部屋には荒い呼吸の音だけが残響した。
そうして。
ふと顔を上げ、トォルの両眼を見据えた彼女が言った。
「……わたくしに左腕もいただけませんか」
「君が望むのなら、なんでも」
「では、いただきます――」
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確かにトォルの顔面を捉えたと思った弾丸を、高速の左腕が弾いた。左肘からの黒い血が飛沫く。
頑として右腕しか使おうとしなかったトォルの左腕をようやく使わせることに成功した、とメイフォンは内心で快哉を叫ぶ。しかしその程度のことで浮かれてはいられない。一発しか弾の籠められない短銃を放り捨て、すぐさま別の得物で追撃を仕掛ける。
槍で突いて、剣で薙いで、振って、針を吐いて、踵を落として、二丁目の短銃を撃って、足を払い、追撃でもう一度足を払い、躱されたので体勢を整えて飛び、両手に引き抜いた鎧通しを連続で繰り出していく。
そして、それらはすべて、トォルの両腕に阻まれた。右腕と左腕が本体とはまるで異なる生物かのように躍動し、ある瞬間から完全に――本体が両腕を動かすのではなく、その逆、両腕が本体を動かすような動きに変わった。関節が正常であれば不可能な動きも織り交ぜながら、ことごとくこちらの攻撃が払われ、叩かれ、潰され、躱され、投げられ、受けられ、防がれていく。
今、弾き飛ばされた大剣の柄から手を放さず、飛ばされるがままに距離を取った。
「やっぱりいいな貴様! 強さの底が知れぬ!」
「そろそろ疲れたしやめにしない?」
何を言うか、今からだろうに。小手調べは終わった。本番は、今からだ。
とりわさにあたっている中、かつ雨(台風)による頭痛の中、正直この話は定期投稿には間に合わないもんだとばかり思っていましたが、なんかいつもより余裕をもって完成したので、これからも頑張れそうです。
あとトォルとミョルニはそういう関係です。夜も。そりゃ若い男女がずっと二人っきりならね。